【守山】水害に苦しんできた新庄!堤防の跡や集団移転した集落も紹介

【守山】水害に苦しんできた新庄!堤防の跡や集団移転した集落も紹介

皆様こんにちは。田畑が広がるこちらの 地域、滋賀県森山市場町となります。森山 駅より大海鉄道バスを利用いたしまして 新庄バス停りました。本日は新庄に関する 話題となります。こちらが新庄の集落です 。上から見ております。そして私が今降り ますのは現在の安川の新庄大橋となります 。一急河線安川と書かれております。安川 は滋賀県で最も長い河川線となります。 そして私の目の前にはこのように安川の 稼働となっているのですが、実はこの付近 にはつい最近まで集落があったのです。川 という地域だったのですが、現在はご覧の 通りなくなっています。実は集団移転をし てしまったのです。なぜでしょうか?後で 詳しくます。そして安川の堤防に目を 向けると20堤防であることがわかります 。20重については後で出てきますので頭 の片隅に入れておいていただけたらと思い ます。 まずは地形図で新庄について確認いたし ます。こちらは現在の地図です。森山市 新条は安川のウがに位置することがわかり ます。安市と隣接しております。そして 今回は昔の新庄の姿を確認しておくことが 重要となりますので古い地形図も見ます。 こちらは1893年明治26年即の地刑図 です。安川の姿が今とは大きく異なってい ます。当時の安軍大技新庄のすぐ南頭側に は川が分岐していることがわかります。 かつて安川はこの地で北龍と南流に分かれ ていました。ご存知の通り安川はかつて 暴れ川で有名でした。そんな大雨が降ると とんでもなく危険な川の分岐点が隣接し てるので地図に書かれていますが新庄は 少なくとも金星以降二重堤防を築いて集落 を守ってみました。 しかしすでに想像された方もいらっしゃる かもしれませんが、この地刑図が即ずされ てから3年後の近代1896年明治29年 のビア湖大洪水の時は堤防が結回して甚大 な被害を受けました。 ちなみにですが、当時の大技新庄の区域は 画面で示した通りでしたが、こちらの場所 は新庄ではなく中村後の大技中の両地で 外側の包みも中村が管理していました。 中村にとっては自分の村とは関係がない 包みであったためこの包みの管理を行って いて地水上大きな問題となったことがあり ました。ちなみに明治29年の大洪水の時 は中村の包が結回しました。 そして当時新庄には2つの集落がありまし た。そのうち南川にあった集落が川面地区 だったのですがこの集落は安川の回収安川 放水路の通正に伴い集団移転した地域でし た。移転先は新庄千崎ではなく笠原千崎。 後で見に行きます。 ということでまずは新庄の集落方面に行っ て当時包みがあった場所を確認しに行き ましょう。バス停から集落まではすぐでし た。 新庄の内神社であります。 そしてもうしばらく集落内を歩きますと 月き当たりに出てきました。少し見づらい ですが、正面の農地の奥に道路があります 。その道路付近にはかつて新庄における 内側の包みがあった場所でした。道路より 奥はなんとなく尾行地になってるようにも 見えます。ただ正直言ってよく分からない かと思います。一方見る場所を変えると 名残りも確認できました。かつての安川、 北龍側ですが明らかに周囲より高くなって います。これはかつて存在した内側の包み の名残りです。かつて存在した内側の包み は新庄が管理していたということになり ます。 では今度は外側の包みがあった場所付近へ と移動します。さらに南頭方向へと濃動の ような道を歩きます。しばらく進みますと 墓地がございます。その墓地のすぐ前に 記念費がありました。そしてその横には 安川海州時に出度したビア湖大洪水の時の 石碑 約5mの水移に足したことが記されてい ます。実はこの周辺こそが安川における 外側の包みがあった場所です。しかも ちょうどこの付近が北龍と南流の分岐点で あった場所であります。 明治29年の美子大洪水は滋賀県民の方 ならば一度は聞いたことがあると思います 。1896 年明治29年9月7日この辺りにあった 包みが約240mにわたって結 もお伝えしました通り新庄ではなく中が 管理していた包みが結回したのでした。 内側の包みもすぐに水はこいていき、新庄 やその周辺の地域は甚大な被害を受けまし た。後に新庄においてはあまりの被害で 工作ができなくなったため北海道への移住 も検討し、実際に東夜湖周辺の実知調査も 行ったとのことです。 安川北龍と南流の間にあった包み、新庄に とっての外側の包みの名残りは現在ござい ませんが、かつて堤防があった場所は道路 となっていました。少し北川へと移動して きましたが、私がいる場所の右側は安川 北龍だった場所です。 さて、新墓地の近くには安川回収記念費が あります。暴れ川、そして天井川であった 安川。地水のために火流部において大回収 が行われました。これまであった北龍と 南流を廃止して代わりにその間にホ水路を 通すというものでした。1979年昭和 54年6月に通水しました。 その回収により放水路の流路とかって しまった集落がありました。それこそが 新庄の川地区です。安川の回収に伴って 集団移転をしました。この回収事業によっ て集団移転を余儀なくされた集落は川のみ となります。最後に現在の川地区へと 向かいます。 ということで新庄橋に戻ってきました。 場所ですが新庄ではなく隣の笠原となり ます。そのため現在は森山市笠原町に川 地区が存在するということになります。 新庄大橋より20分ほど歩きます。そして こちらを左に見えてくる住宅地こそが集団 移転後の川地区となります。安川水路が 通水する前の1972年昭和47年4月に この地において川自治会が成立しました。 川の中心近くにある広場には記念費も設置 されていました。また昔から存在していた お寺そして神社も現在はこの地に移転して おります。内神社はこちらの呟神社です。 泥棒が出没していることは気がかりでした 。 以上、本日は森山市場と元々新庄だった 森山市笠原町の川地区の紹介でした。 かつては安川の北龍と南流の分岐点に最も 近い場所に存在した集落で長年水害に 苦しんできた地域です。安川の回収に伴い 安川火流において氾濫するリスクは限り なく点されましたが一方で現在のハザード マップにも大雨道における安川流域の浸水 は想定されています。油断は金物です。 それでは皆様ごきげよう。 [音楽] [音楽]

守山市新庄町に行ってきました。かつては、野洲川北流と南流の分岐点に隣接する場所に位置する集落でした。そのため、水害に苦しんできた地域でもあります。現在、野洲川は改修されましたが、改修に伴い、集団移転した地域もありました。

主要参考文献
守山市誌編さん委員会(2001)『守山市誌 地理編』守山市

0:00 イントロ
1:15 地図で新庄の場所と歴史を確認
3:38 新庄
7:11 川辺へ

#守山市 #滋賀県 #守山
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5 Comments

  1. 守山、野洲は野洲川の賜物…… 一見のどかな田舎風景にも様々な歴史が刻まれているのですね

  2. 21栗&2米Getだがや!

    拙者の田舎である近江八幡市末広町に流れる蛇砂川も、昔は暴れ川だったと母親から聞いた事がありました。
    今は改修されてるので、暴れる事は少なくなったらしいっす。
    やっぱ氾濫は怖かけんね(汗)

  3. 川辺と書いて「かわづら」と読みますか。「かわづら」には川顔(京都市伏見区)や川面(大阪府富田林市)など色んなパターンがありますね。

  4. この近くのイオンタウン野洲が安くて品揃え豊富です♪
    この辺りの守山と野洲の市境も北流跡に沿ってますよね。

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