【 古土居集落編 】369分の1の村~香美市物部町市宇~ 1/369th Village – Ichiu, Monobe-cho, Kami City【 furuDoi Village 】
この動画は高知県上市の住宅塗装りの提供 でお送りします。 お家丸ごと塗り替え、住宅塗装は彩取りに お任せください。 [音楽] 一はどこですか?知らないわよ。 [音楽] 分かりません。一を知ってますか? いやあ、知ません。 うん。知らんなあ。 [音楽] 一はどこですか? どこじゃろうね。 もっと東方じゃなかろうかね。 [音楽] 一はどの辺りですか? もっと山奥じゃろ。 そうじゃ。もっと山奥じゃ。一はこっちのね。こっちこっち。そうそう。ここじゃ。ここまでじゃよ。来たね。 [音楽] 昭和35年頃の一内国は369人の村人が 住んでいました。しかし令和今日わずかに 1人だけの住人となってしまったのです。 [音楽] と高知市から北東へ車でおよそ1時間 上市辺町の大土地というところがあります 。 [音楽] そしてさらに 車で30分ほど山奥へと分け入ります。 この辺りは山が険しい四国にあっても 特 山岳地帯で一区はここにあって 遠く平安の昔から人々が住んでいたと言わ れます。 山はあくまでも深く 神々が宿り 人々は神々と共に暮らしてきたという神秘 的で歴史ある山里です。 [音楽] 一地区は地区の中心後モが流れ筋 もの谷側が流れ込みます。 そして 物川に沿うようにして唯一の国道195号 が走っています。 一は全て山の中。 人が住める場所は限られます。 そのことを物語るようにあちらにぽつり、 こちらにぽつり坂 超えて苦集落が点在します。 [音楽] 限界集落から消滅集落へ。 もはやその歩みを止めることも避けること もできない一集落です。 [音楽] せめて一集落があったことを記録に残して おきたいと多くの出身者の協力を得てこの 映像は制作されました。 [音楽] 今回はフルドイ集落を尋ねてみました。 [音楽] ここが現在のドイフルドイ地区です。 一面杉林市となっています。 そしてこれが昔のドイフルドイ地区の 再現図です。 [音楽] ここが古いです。六件の民家があります。 [音楽] そしてこれが昭和50年頃の空から見た フルド一区。 まだまだ畑もあって4件の民家には人が 住んでいる様子が伺えます。 現在ではこうして林動が通っています。 して現在地はここで最初に訪ねていくのがここです [音楽] [音楽] ね。 よっしゃ。こっから降りからね。ちょっとるかわからん。 今回古井地区は地元出身の 4 人のメンバーで尋ね歩くこととしました。 え、君、 ひどいひどい道だったよね。 そうそう。 ど君ぐ遊びに行くのにこれをだいぶ通んだよ。上さのあ、 あの時代はしんどいと思うたがな。ここ悪くの マーケド俺んとから 10分10分まかからかかったかな。10 分まかからんな。 うん。子供だけ悪い 早い。 早かった。 子供の頃の思い出を探りながらの訪問となりました。 ええ道だったけどな。広い広い。 この松のキラも覚えたまま枯れて細いもんだったけどね。わしがそうかね。 子供の頃小さな松の木だったけれど 老木になりました。 ま、これぐらいだった。 あ、そうか。 ああ、誠。 あ、これがま、そうそう。ここは曲がりじゃけね。 そう、そう、そう。 そうじゃ、そうじゃ。ま、ここは みんな早く そうよ。 汗の木が多かったわね、この辺。 あ、そう。汗があったね。 あ、びがね。 そう、そう。汗があった。誠、これは昔の道よね。 これ、この、この広さあったんでね。 うん。そう、そう、そう、そう。 この日の木はね、もう 90年来た。 ああ、そうか。あ、それは知らな子供の時も 売るぐらいに見えよったもん。 そう、そう、 そうじゃない。 ここらに呼んでしたの大きな木があったが次の木がね。 うん。そうそうそう。ま、松の木もちょっとあそこにある。 甲ーラにあったよね。大きな過ぎあった。 うん。 [笑い] 大きなすぎやったやで。ここ レガする気の大きさや。 メそ太ない気ね。 うん。あんまり太ったね。 山の中の思い出の多くは林の中の巨木などのようです。 番おそうまで遊びよってや。あそこの歯あるがちょっと寂しむての 本当走ったねや。 坂ばっかりだった。 ばっかりたけに うん。 ハが太かったけちょっと寂しげなかったね。や うん。うん。 うん。 橋んとこの前に大きなつきの木があったやん。 うん。うん。うん。 あの大きな橋の木の手前にうん。うん。 道の脇に ああ。 この満月でな うん。 影が うん。 牛に見えて こが怖いもんやからほんな見えるわけや。 牛がおったよてな。 あ、そうか。 怖い怖いと思って行けたわけな。怖い怖い思うからその影が映っとあの満月でカンカンの月で ほんでうん。 牛がおったよてな。 あ、そうか。 あ、これが田んぼ跡じゃね? そう、そう。 おお、そう。 うん。 ああ、田んぼ上ったわ。 ここへほら水が 水がこう来ったやろ。 そうそう。 道があったよね。 そうそう。 横道にあってね。 横道だったでね。 うん。 あの、 この前広さ見てんぼしやせんで 広に思うたけどね。子供の時。 そう、そう、そう。 誠ね。 そうや。ここ田んぼだったんやもん。 そうなんであ、高川県の広さしれちゃあるね。やち、ま、広いように思うたけどな、子供の時に こんな狭かったの。うん。 イノシシが掘った後です。 なんちゃ切ってない。 いや、ここ下にね、 先人が積み上げた高い石垣。 それとにった。 傾斜地に田ぼを作ろうとすれば高い石垣を包むより他ありません。 こうして石が気を積んだ昔の人に比べれば、今の世に生きる人々のなんと卑わなことか。 昔の人は偉かった。 そういうより他ありません。もうどうにもならすごいもんよね。まになったら ここで羊があったらね。 まあ、こらったけどなんてないなったね。後に来ましたね。 ああ、そうか。 うん。 これは自転車に踏んだもんに。 ここに羊のあれがあって。 そう。大体もこに民家がありました。このような高い石垣の上の民家でした。 [音楽] ここは野号を死のターと言い半竹の住まい でした。 そしてこのような人たちが住んでいました 。 たくさんの人たちが住まし、そして離れて いった半だけです。 [音楽] さて、半田家の長男半田しは生まれながら にして絵を書くことに生じた人物でした。 子供の頃から青年になってもずっと絵を 描いていました。 これは16歳の頃に書いたものだと言われ ます。 そしてこれは19歳の時に書いたもので 雑誌の差し絵を書くことを進められたこと もあったようです。 [音楽] ここは上市下北町長野にある大本寺。 ここ大元寺の天井画にもしが書いた絵が ありました。 生々と描いた朝顔。 そしてこちらは梅とつき 繊細なタッチで書かれています。 [音楽] 絵を書く才能に恵まれたシエル氏。 当然絵描きの道を心すはずですが時代が それを許しません。 夢を捨て、現実的な家業を継がなければ なりませんでした。 しかし 円熟の秋にはこんな大家族に包まれました 。 そして 家族と共に古さと古いを尋ねたこともあっ たのです。 [音楽] そして次男の坂本三尾市は旧モべソの損会 議員として務めた人物です。 さて、こちらは4難の半田国吉。 国吉は高知農業高校臨業家を卒業後、高知 県庁に39年間殖し、さらに望まれて第3 セクター株式会社北 の副社長として18年間勤務し、定年退職 しています。 あ、これは便所かなんだったっけか。 便所はこそはね、芋ツボじゃ。 あ、芋ツか。 そこに部屋があったけどな。 うん。ああ、そうや。思たな。 ここに犬がおって自分で開けた。 これは芋と呼ばれるさ芋を保存するために地面に掘った貯蔵庫です。 一の民家の床下には必ずありました。 芋ね、こっちにもあったと思うぜ。部屋とこにこっちが部屋やったけ、こ、ここに部屋があって、 お急にこうあそこらまでがあったやろ。 あった。 うん。 向こうまであった。 ここが壺で遊びよったもんね。 そう、そう、そう。 この狭いでの ま、石掛けはどんなった?高い石掛けだったぜ。 石割合高いのよね。 割りに行けの子供時たほど高ないね。 子供の時は高 高かった石垣き 広いと思ったりこのに 子供の頃の思い出には 子供のスケール感があります。 庭にあった か根の杉の木だけは拡段に大きくなりました。 これだ。 主場太いでさ。おや、ここで国さんと遊んだもん。わしな。 そう。と君が何回が来てね。遊んだら覚え。 昭和21 年の南海地震の時ね、この磯の上この石掛けが乗っちゅうということでね。 そ、た、 うん。そこの声あの声てね。 昭和21年の南海トラフ地震た その激しい揺れもこの地で経験しました。 3 歳ぐらいやな。それで全部 もうかここで遊びよったもんね。杉垣ずっと杉垣だったもんね、これ。 そうそうそうそう。 杉垣の木が全部残ったらね。ここにこれがあれもそうやからね。 これは自家製の醤油などを映し替えるために使っていた亀です。 うん。 て、 あ、そう。うん。 星が ほらよ。ほら、南のおじ、南のおじてやったけ、ほら、あのおばがほら、 あの 親父の姉やったけほら。 [音楽] この場所で子供時代を過ごした12年間 ほどの年月、 それが人生のベースとなって今日があるの です。 ここに初めて人が住み始めたのはいつの ことだろうか。 ここに住もうと心に決めたのはなぜだろう か。 ここに何台に渡って半だけは住み続けたの だろうか。 ここで生まれ育った人はいく人に登るの だろうか。 ここから何人の人がといで行ったのだろう か。 ここに何人の人がといできたのだろうか。 時代の流れ、刻まれた歴史の重さが切節と 伝わってきます。 そして その歴史が途えた今、 千人が気づいた石垣がこぼれの中で虚しく いわっています。 [音楽] 一には一急河線モ辺川が流れています。 そして夏のも川は一中の子供たちにとって 格好の遊び場となります。 川遊びの弁当は畑からもぎ取ったキト トウモロコシというのが定番でした。 冷たい川で1日中やあなどを追いかけます 。 昭和30年代の辺川には天然のアがうよと いて、子供ながらたくさんのを取りました 。 川の中で魚の様子を探っています。 そんな時アイスキャンディ売りのおじさん が自転車をこぎながら道路をやってきます 。 ちりリンチリンという金の音が聞こえると 子供は急いで道路へ駆け上がっていきます 。 川遊びの子供たちは川に入って寒いのに アイスを買って食べるのでした。 ちなみにアイスは1個5円でした。 [音楽] そしてアイス売りのおじさんは国道沿い だけでは薄内なのか。 木星の重いアイスボックスを背負って山の 上の集落まで上がっていくようになります 。 1時間近くもかけて集落に着くと [音楽] アイスキャンディを持ってきたどうかね。 ありゃ。アイスキャンディと読もね。珍しいもんじゃね。そんならこうかねと結構売れます。山の人は結構珍しいもの好きなのです。 [音楽] [音楽] おばあさん、買ったアイスキャンディは 戸棚にしまっておきました。 さて、お昼も過ぎ午後になって近くに住ん でいる孫が遊びに来ました。 まあ来たかね。 門をこうけんあげるわ。 というのは何ぞよ。 ほれ、これよ。アイスキャンデーと 4 万円や。おばあちゃん。これはただの暴。 まあ、どうしたことじゃろ。アイスキャンデルがノーなっちょる。ネズミが取って言ってろうかね。 [音楽] おばあちゃん。アイスキャンディというもんは氷け。溶けて脳なるんぞよ。 [音楽] ありゃ。そりゃ知らった。1つ孫に教えて もうたわ。 [音楽] さて民カート へ行ってみます。 元の林道へ戻した。 松林あってほら新玄のはね、 ま、松はあのあれが売ったんか?おら、おら。 ああ、そうか。ええ、松ばっけとったやね。 13本で140万。 ええってが Aのだけ残して他売ったん こんなコップ風の周りぐらいしかなかった。 あの日の木とた。 それがもう今でごつい もた こんなんやからな。 うん。 44本か。それ1000 万円で買い抜けとったや。 あ、そうか。 うん。それをまにがね、ひで売れよ。今それをなには俺らもう仕事汚せようになってからうる何のことない。今だったらただみたいになって。 うん。 いつも言たそうやな。 1000 万円で売っとってあの頃だったらな、郵便局や掘りこ倍になっとんやで。 林の中に墓地があったので墓参りすることにしました。 怪我する。 うん。お前悪いことするからえ。 ほとんどの墓は移り住んだところに移したようですが、誰も来てない。 こうして残されたものもあります。になるな。 うん。 昭和にはここへ来ないか。ここといてやっぱ 古いまで上がりよったけんね。 うん。親戚甘されね。 そう、そう。 俺白だったけん。今まで今日初めて知った。 あ、南と新っていうのは知なかったけず 集落の中では ほとんどの家が親戚筋であることが多いけれど 子供の頃なので分からずお墓の前で初めて知ったと驚いています。さてここがどいへ上がる林道の終点です。 ここに民家があったのですが、今は林動の広場になっています。 ここに牛 牛小屋が、 ここにね、牛小屋があってね、 おて風呂があってね、 こいてあのかや吹きが、 か、か、太い家やったけ、 太い家だった。ほ、やったやん。 ここにね、この車開けちゃったのね。うん。そうやってここに 今度ちょっと中に こうやってね。 ここにトの場 そうそう 豊の場っと向こうやった。 もっと向こうの棚な。 うん。あの狭いやった。 ここ家からいちゃったけど。ここは ここ吸いとってね やろうかね。 便所が あこじゃない。 やってここにだいぶこういってほとここにこうあったんや。 それぞれの記憶をたって民家の様子を脳りに描きます。 それからどっかほらこの家の前に課金があったが 半島のほら 大きなね。 うん。 どっかここね。 家のすぐ前だったんや。 次は柿の木です。 次から次へと蘇記憶の中に迷い込んでしまいます。 家があったよね。ここにここは あった。うん。ほんでそこに石垣あるということはそこにほら家があったんだよ。 そうそうそうそう。 ヤジの うん。奥でおじおじがおったんじゃうね。 覚えがないけの顔も覚えてないけんだ。 おじは知らんです。 はい。死んだ。うん。 脳りに浮かぶ民家はおよそこんな感じでしょうか。ここは野号を西と言い山本家の住まいでした。 [音楽] そしてこのような人たちが住んでいました 。 ここ山本家には子供に話をするのが好きな おばあさんがいました。 子供相手にいろんな話をするのですが、 そのほとんどは怖い話だったと言います。 あそこの時にはの 大きな白い後ろおるぞよ。 あそこへは行かれんぞ。 あそこの谷には大ジャムおるの? あそこには近寄るなよの。 あそこの山にはの 山バというもんがおって 子供が行ったら出てくるけん 絶対に 行かねんぞりよ。 こんな怖い話が続くのですが、 怖いながらも話が上手なおばあさん。 子供はおばあさんの話が楽しみでした。 さて この民行ってみましょう。 これ通りたんの?えのに見て 先ほどの山本家のすぐ上になります。 そうか。ロキて いや、あのてめにしてった。 おにゃ綺麗な仕事しちゃったんね。 何回でもね、 一瞬一 これは見事に放ってね。や ね、 こんなに包はないで。 放って行ったで。このとモぐの あとは ある おるおる。モぐは昔よ朝早にきとうちの親父は食ってとっとって うん。 ただけだから もこまっとした掘って殺しよったもん。 ああなかなか役をかけちゃうとね。 うん。 まこ滝ももうワンサと積んじうね。 ワンサと作った。 あじこさんがたのにがねこさんがおもた。 うん。 あるな。 うん。 ええ、ユが綺麗に売れたのに。 うん。いがんの欲しい。これ匂いく道やったかい? そう ね。や。 うん。 うん。 ここから取ってく。 取ってくれたね。や、 ここ長なんか追たらな。 しんどいんや。これ斜めになっていかなかんで。ここ どこもでけ。 これは何この仕事だこれ。 うん。ないんだ。あ、なんでするかさんどに行っと。 ここは 古い集落6件の中で 1 番最後まで人が住んでいた民家です。最後は夫婦 2人で暮らしていました。 [音楽] ここは野号を上西と言い胸の住まいでした。 [音楽] この人が最後のご当初です。 [音楽] ここ井の裏山には標高1465 の意地山があります。 そこからずっと標675 まで下がったところが古い集落です。 そしてここが上西胸です。 これは平成28年 2016年の上西胸石です。 この頃はご夫婦で暮らしていたのですが、 杉のか値根や畑、茶畑などギリとして正頓 されています。 大変貴帳な将文で家の周りや石垣き、道や 畑にも草1つ生えていなかったのです。 こんな山奥の農家においてこんなに整理 正頓された家や畑を見たことがありません 。 [音楽] 時代の流れには逆らえず 人がいなくなりました。 何か違うなと思ったら か根の杉の木を全部伐採したようです。 それでも長年人が住んだ民家なので 懐かしい雰囲気を称えています。 ものすごい量の焚き火が積んであります。 昔ながらの木造住宅 なんとも温か雰囲気と共に豊かさを感じ ます。 滝はただ積んであるだけではなく、ビシッ と切り口を揃えて積んであり、まるで オブジェのようです。 [音楽] [拍手] [音楽] こちらも重跡のようです。 だったのでしょうか。 遠い昔 先人が積み上げたい石垣き。 そして 人のようを受け継ぎながらここで暮らした 人たちがいました。 令和の時代 ついに人はいなくなりました。 [音楽] 3輪者です。子供が育ったことがわかり ます。 ここでは3人の子供が育ち、学校の廃行 問題もありました。 昭和53年頃の胸はご夫婦と3人の子供が いる5人家族でした。 少女と事女かさんは3kmほど離れた 別τικ着小学校へ通学していました。 別τικ小学校は全盛紀には100人近い 児童が学ぶ学校でしたが、急速な加疎化で 学校の存続が危まれていました。 学校は4年生1人、6年生5人の福式学級 で寂しい状況でした。 [音楽] 1人ぼっちの4年生、 それが胸家のかよさんでした。 当時地元新聞が別着小学校の特集を組んで いました。 1人ぼっちのかよさんが記事になりました 。 かよさんが書いた作分に先生はいしたいと いう記事があります。 先生はいとはこうして大勢の友達がいる 教室で元気に手をあげる。 学校ではよくある光景です。この作文を読んだ父親はこんなことを思っていたのか [音楽] と深い悩みに沈みます。そして決意しました。子供を友達が大然いる町の学校へ転校させよう。 [音楽] それは大きな決断でした。 町の学校とは一からは24kmも離れた 大土地小学校などです。 もちろん家からの通学は不可能で親元から 離れ町の寄宿者に住まいを移すことになり ます。 しかし、父親の決心は揺ぎませんでした。 これを経として 昭和53年3月、別小中学校は地元住民の 移行によって平行となったのです。 [音楽] さて、次はこちらの民家へ行ってみます。 あ、そうか。 あ、秋だけどな。 うん。 薄暗い杉林の中を進みます。 昔には杉林市ではなく、全部畑でした。今この辺りを歩いています。 [音楽] 雷がてまでお道があります。 小さな可愛らしいお道です。 この道は自蔵でお寺です。 [音楽] この 自蔵道はこうして古井集落にあるけれど一区全体のお寺だということです。 [音楽] ここへ土票作ってな。こいの [音楽] ここ自蔵道前は古井集落のイベント広場でした。 集落の若者が集まって相撲を取る。 その賑やかなこと。 今は嘘のような昭和の良き時代でした。こ取りよった。もうちょっと暇になって集まったら 大で俺は雷を落ちてどっか割れとったんやけどね。下までは口が開けとったで。 うん。 治ったらね。 古いで、これもう 古い古い。ここ中しのキラも古いぞ、これ。赤菓し。 [音楽] さて、自蔵道のそばにと呼ばれる木があり ました。 はがきの木という別名を持ち、この葉っぱの裏側にこうして文字を書くことができ、昔は情報の伝達に利用されたと言われます。自蔵のすぐ近くに民家がありました。 [音楽] 割合う太い家から長い。 そりは長い家やべで長減ったら おばもったけね。 うん。 おばおったで太い太いおばが 大きな家だとねえ [拍手] 意外をするのにね。 うん。 長いから長い長いでこの家ね。 結婚式もここでしたよ。 のか ここは野号東と言い胸の住まいでした。そしてこのような方々が住んでいました。 [音楽] 普通の民家の2件ありそうな横に長い家 です。 雨を風に飛ばされないように抑えるため でしょうか? ツッカをしています。 古井集落で1番東にあるので東という野号 なのでしょう。 意外と野号というものは意味深いものでは なさそうです。 [音楽] この家にも多くの人たちが住み、多くの 人間ドラマがあったことでしょう。 結婚式も行われたと話していましたが、 このような感じだったでしょうか? [音楽] 庭には桜の古木がありました。 あるには花を咲かせるのでしょうか? 古い集落は消滅集落となりましたが、 ここ東西 胸石家についで遅くまで人が住んでいまし た。 [音楽] 昭和時代の宇ではどこの家にも子供が多い 大家族でした。 ある家にとても仲のいい兄弟がいました。 [音楽] 兄弟揃って山道を下っていきます。 [音楽] 脇あいと楽しそうです。目的はこれ。栗の実です。栗のびをたくさん取りました。 [音楽] ああ、 もう最高。兄弟みんな大喜びです。たくさん取ったので息と引き上げてきます。 [音楽] [音楽] そして別れ道のところに来た時です。 弟よ。ええことを教えてやろうか。 え、ことって何?教えて。 あのな、ここの土にふりの実を埋めちゃいたらふりの実はもうなっておくなるんぞ。自分のを埋めちゃけや。 そう言われた弟。クのみを埋める穴を掘ります。 そうか。ここの土に埋めとくと栗は思うなるんか。よっしゃ。 お前こりのみになったらええな。あ、 こうして弟は自分の国の実を全部土に埋めました。そして数日が経ちました。 弟は栗の実を埋めた土を掘り返します。 栗の実が思うなちどか楽しみじゃ。 弟はワクワクしながら土を掘り返します。しかしそこに栗の実は 1つもありませんでした。弟はげなり ゴリのみノル 弟は天蒼いで悲しみにくれます。 その時どこからともなく兄たちの声が聞こえてきました。 弟は素直な心が 1 番じゃ。これからも素直な心で生きていけよ。次は隣の家に行ってみます。 [音楽] 毎日遊びもね。 この草は美味しくないもんで食わんね。 昔には見たこともなかった鹿ですが、 今はもう集落の主となってしまいました。 ここも道路で畑ね。 そうそうそう。 人間 と軍こタコあげる とこやったね。なんちゃかかるもんなかっ たっ 正月のねった。タコるのに持ってこいだっ た。そうだ。これ椎茸のながしった。 そうじゃの こで椎茸をつけて うん。 こうやってあげて椎茸しちゃって うん。 これけやったんや。うん。 今朝ほたらしいただいぶ作ったんだよね。や うん。こっつがったよ。 それは古いのやったんだよね。や フ。うん。 それとこれは御用か。 そうそう。御 この門のとこにあった。ほら ご松。これ門のそばにあった。 [音楽] 昔ながらの生活があります。 わずかに残る生活を辿どっていく。 その先のこの場所に民家があったようです 。 こんな感じの民家だったでしょうか? ここは野号を古いと言い胸の住まいでした 。 ここにはこうした方たちが住んでいました。ここがや、これが [音楽] あ、かや吹きやったかねや。 かや吹きだった。 ここにやった。 ほんで、 ここに2軒があったんやね。 あの 屋敷のすぐ裏手に神社がありました。 8 万神社です。ああ、太いわ。太い、太い。なかなか なかなかきれ。 この八万神社は古いの胸が祭る神社でした。 [音楽] つまり胸の守り神だったのでしょう。 [音楽] ま、その腐りきっちだったか。 うん。これは御用の松の木。うん。 [音楽] 胸は この地を離れるのが早かったのですが、その時この末を持っていきたかったと言います。しかしあまりにも大きいため断念したようです。 [音楽] [拍手] すぐ近くに石碑がありました。 天場三女の巫紙神と書かれています。 出産や生命の誕生に関わる神様で鋭い胸に 代々伝わるもののようです。 モノベソン75人のうちの1人なりとも 書かれていますが、75人とは何を指すの でしょうか? 神社を祭っていたり、 赤皮があったり、 おそらくは歴史のある家柄だったの でしょうが、 今はすっかり杉林になってしまいました。 それでは最後の民行ってみましょう。 これを子供の時の行ったり来たした。そんなもんやね。これこの道やったからこう そうそう。この道 畑やったけ。 ここは畑で炎物作れた。ここね よ。遊んだもんね。かずらとここかずへ安こと。 そうそうそうそう。 取って こりゃこりゃあのわしらが住んどころはなかったからな。要するにサが せんであげてやったわけや。 そうじゃ。 うん。わしらがおる頃はこんな なかった。なかった。 そうじゃ。 これ皿がしたんよ。 ああ、そうか。 あのあれで石をあげて川からそうやね。 全部返しで太いな。思いで。 この石垣は麓元の辺川から持ち上げたという 川からは標差 295 もあります。 おついぜ。これね。 なかなかで これはしんどいぞ。ここへ上がってきてね、みんな ここで東行き、西行きしったんや。 家と家と結ぶ道。 畑の中の道がってきてったんかね。こって 昔の生活動も分からなくなってしまいました。 ここでれとったけに うん。これ残っとうけどな。 この石垣の上に民家が立っていました。 [音楽] こんな風な民家です。 ここはヤゴを南と言い山中家の住まいでし た。 こうした方々が住んでいて男の子が多い でした。 [音楽] だったや。最初ね。 これてもうかなったから途端武器に帰た。 [音楽] 家があって、 それこそ大 畑があって簡単に うん。 普通に人の暮らしがあった場所だけど。 芋つやったか。ここは 杉林になると 元の姿が全くわからなくなります。 あ、あれあら。ここにあら。 それでも ここに住んでいた人のりには 昔のままの姿があるのです。 うん。3段ぼあったんかい。 うん。こ、あの方戦と一門なね。ずっとやった。 よ俺も遊びたけ呼ぼれてく。 うん。 君か確れ棒したいかね。ここでよぐるっと向こうの方までね。 ここ南は一番テレビをつけるの早かった。 早かった。 テレビやったでアンテナいらんかったやね。ここ ああ、 アンテナなしで見よったもん。 うん。こはもうまい限知でここが 1番電波が強いっていうやったやもん。 うん。 あれアンテナなしで映るやったもん。 うん。 力道団の時代よね。あ、道 ちょうど力道団の時代にね、テレビはこもっち来たけ。うん。うん。 まだ早かったけにゃ。 品も早かった。 興味もあった。あんなこと 昔の電築こう長いのがあったからね。 こんなのはね。 山中家には 1 つのがありました。いりには常に水を張った鍋をかけくこというのがその訓でした。 [音楽] 色りでは絶やすことなく火を燃やしてい ます。 それは家を長持ちさせたり、虫置けのため に必要なことです。そんなおりが揺れたら 何よりも先に鍋の水を色りの火にかけ火を 消すこと。 その後家から外に出て安全な場所に逃げる というのが家運の手順でした。 もちろんその後は舞い上がる肺で部屋中が 盲として部屋は肺だらけ。さあ後の掃除が 大変です。しかし自信の怖さは家事が 起きること。事になるよりはずっといいと いう家でした。 また山中家の当手は器用な人で竹が得意 でした。 近所の奥様方がこんな看護を作って、私は こんな看護が欲しいとっきり なしのリクエスト。そんなリクエストには 全て答えるご当でした。 [音楽] 実にたくさんの竹かを作りました。 そして山中家の長男は新しいもの好きでし た。 テレビを購入したのも1番早く。 ドルともなると近所の人がテレビ鑑賞に 詰めかけたものでした。 [音楽] また当時としては珍しい電築もありました 。 建築は自宅で聞くばかりではなく、なんと 電築を背中に背負い、近所の家イに赴いて レコードコンサートを開催したのだそう です。 集落に賑いのあった頃のお話です。 もうこ一地区にも初めて住み始めた先人がいたことでしょう。 [音楽] その時期や歴史は定かではありません。 兄弟でも違うもんね。 しかし古井集落の消滅は明らかです。 はこら畑。 今歩いているメンバーが子供の頃。 どっかかれんぼでね、こ 集落は最期でした。ブルと出てねや。 わずか1人の生涯の中において どうせがあ、終わった。 そして終焉がやってきたのです。 なこと妙に覚えてないけど 昭和という時代。それは古井集落においても激道の時代でした。 [音楽] 昭和20年代 [音楽] 後の一には変土と呼ばれる人たちが出没し ました。 とは 四国88か所を巡る変路ではなくて今は 乞食のような存在で物も来とも呼ばれてい ました。 時に角付けと呼ばれる共問を唱えて家イを 回る変度もいました。 の山道 ずっと遠くに変度が歩いてくるのが見え ます。そこへ少年がやってきました。ギー 叫びも悲鳴ともつかない声を上げて少年は 逃げていきます。山道を逃げること。 逃げること。靴も脱がずに一目さんに家の 中へピシャリと遠しめ。その日はもう家 から出ないのでした。 どうしてこんなにも変度が怖いのでしょうか?それはこは変打にやるだわ [音楽] とまあ嫌になるほど父親に脅かされていたのです。一の子供は変度にやるぞということが何よりも怖かったのです。 変土は集落の神社で宿泊することがよく ありました。 そして 近くの家の人が食べ物を持っていくことも よく見る光景でした。 ある時はこんなこともありました。誠にすまぬがこの器を貸してもらえるか。 [音楽] そりゃ何に使いますの?じゃ、 うどんを食べようと思いまして。 そりゃんぼ言うても洗面機じゃけん。 [音楽] この鍋を使いなされや。 いや、わしらみたいなもんはこれで構いませんけ? [音楽] このやり取りを見ていた少年は 変とものは自分のことを髭するもんじゃな [音楽] と強く心に残ったということです。 昭和30年代に入ると こうした変度も見なくなりました。 古い最後の訪問地は一跡です。 この上に城があったんかい? こな うん。 その辺も左もそれだけ。 あ、そう。 この上にまた 白跡があるのです。 ガードレールかなんかじゃねやいんなと思ってきたもんよ。 俺がだいぶもう手分じゃてから ここです。 そういう人はずやから 上西の裏山になります。 [音楽] 古い自体が高台にあるのですが、白跡は さらに高台にあります。 [音楽] そして この力は一体が見渡せる 白跡としては格好の場所と言えます。 [音楽] さて、その昔 この地に一条というお城があって、その 歴史的エピソードがあるので見てみ ましょう。 ここは牧山号 系長年間江戸時代も初期の頃3人の兄弟の 武士がいました。 小サブ郎は一の領手で長男は別の領手 そして次男はネキアというところの領で それぞれが勢力を争っていました。 [音楽] 小三ブ郎は一湯に城を気づき、 奥型と一と共に住み、 ケ雷は下一の屋敷に住んでいました。 [音楽] そんなある時のこと、 小三ブ郎は見事な立ちを買い求めました。 するとその年の大晦 別の漁主兄岡本被告が一条を訪れました。 お、お主は良き刀を手に入れたと聞くが わしにも見せてくれるか。先生 しばらくお待ちよ。 こうして兄郎は立ちを見せよと小さブ郎に 迫ります。 小三ブ郎は妻の元に行き、 [音楽] 兄親が来られたぞ。殺を出しておめにかけよう [音楽] と言うと妻はすぐに兄の陰謀に気づきます。 それはなりませぬ。今夜はそのたちがいいますぞ [音楽] と言いながら奥に入ってきました。 [音楽] 小サブ郎は妻の言葉を聞きつつもためらい もなく立ちを兄労に見せることにしました 。 妻は隙を見て 3 歳の一師を抱き抱え、杉カの上にあげ置きこしばしここで座っておれよ。動くでないぞ [音楽] と一死に言い起き手ありを引っ下げて下一の家臣の元に走り下り [音楽] これこれ高校しかじかじゃすぐにこを連れてここを離れよ。 [音楽] と命じました。家臣はすぐさまわこの元に 赴き、わこを抱き抱えて牧山号を走り下り ます。 [音楽] そして先道というところの寺にわこを かまったのでした。 その頃一条では うん。俺がそちら買い求めた方かなかなかのもじゃの王 というや小サブ郎の首を打ち落とし城に火を放って兄は別着へ帰って行きました。 [音楽] それから最月が流れました。 先道の寺で立派な若者に成長した小三ブ郎 の一師は 一具門と名乗ります。 そしてある時門はネキアを尋ねました。 父の敵を打つためにおじ気にしけ立ちを頼みたいがご承知してくださるか [音楽] と一貫上門が訪ねます。するとネキや坊は [音楽] 承知いたした。火生そう。 こうして話が決まり、 別に押し寄せて河戦となりました。 [拍手] 別の岡本被告は破れて逃れようとしていた 。そしてそれをネヤボが助けようとしてい た。 これを見つけたカ具エ門は ネ屋の表一でイコラスをとの知った。ネキ野坊は仕方なく兄の首を打ち落とし、 [拍手] この戦いは終わったのでした。 [音楽] こうしてカ具門は一の漁師となりました。 またこの戦いで別の大家北屋敷はネ野坊の 両地となったと記されています。 さて、ここ歩いの林の中に2つの石碑が 立っています。 こちらには小原小郎墓とあり、一上種 12月日 兄労に歌ると刻まれています。 そしてこちらの石碑には小原現場の神墓と 刻まれています。また 昭和37年11月 小原茂妻夏 と刻まれていました。 おそらく小原小三ブ郎は一小三ブ郎と 同一人物だと思われ。また小原茂 及び妻夏は小さブ郎の子孫なのかもしれ ません。 さて、一小三ブ郎の後を次、一手となった 神へもその子孫も一の両手として代々続い ていったようです。 まるでなだたる庭園のように美しい 胸の住まいと畑。 このような様を人と自然が調和した美しさ というのでしょう。 いかに います 。 [音楽] がなし やと [音楽] 雨 風につけ ても 思いずる うるさ ああ。
昭和35年には369人を数えた村人は現在は一人となりました。高知県香美市物部町市宇地区で、いよいよ消滅集落となります。
せめて集落の記録を残しておこうと… 地区出身者の協力により、①土居集落編 ②古土居集落編 ③大日浦・ホセヤブ集落編 ④オージンノヒラ・カシライダ・クロイシ集落編⑤野々内集落編 ⑥月谷・程野集落編 ⑦クリ坂・カツラゴウチ・ジョウノウ集落編 ⑧木床・宮ノ瀬集落編 ⑨沖の平集落編 ⑩鴨ケ峯集落編 ⑪成山集落 ⑫市宇の自然編 ⑬学校編の13編に収録しました。
今回は「②古土居集落編」です。
2 Comments
とても懐かしい土佐なまり!
自分の祖母が 一宇 ふるどい 出身でした 私も 昭和39年まで ねきやで 暮らしていました 現在は南国市で暮らしています 懐かしくて 時々 物部町に行っています