新穂ふるさと講座#4 村を見つめ共に生きる(知本康悟)

新穂ふるさと講座#4 村を見つめ共に生きる(知本康悟)

じゃあ、皆さんおはようございます。 おはようございます。 えっと、私ここの講座の、え、世話をしておりますご藤と申します。よろしくお願いいたします。え、今日は、え、第 [音楽] 4回目の故郷になります。 え、ということで今日は、え、下本先生 から講師を務めて、え、いただきます。 えっと、去年初めて、え、知物先生から 講議をしていただきました。去年は、え、 木と競争の内容についてでございました。 え、今日はまたガラっと変わりまして、の 、え、青年談活動、特に演劇 関係ですね、え、そこを中心にしてお話を していただきます。え、下本先生について は、え、前回ちょっとご紹介を申し上げ ましたが、最初千葉県で教員をやっ てらっしゃ、いらっしゃいました。そして 、え、佐戸出身あの4日町ですか?4日町 の出身でいらっしゃいまして、え、サ戸へ 戻りたいとこういうことでサド新潟県の 試験を受けて、え、サド、あの新潟県の教 になられまして、で、え、第1校目が新潟 県第1校目が佐戸に入ったということで、 え、そん時、ま、私と一緒だったので、え 、そんな縁で、え、ちょっとお願いしたり したんであります。で、えっと、うんと、 もう10年ぐらい前か、え、ご退職になり まして、えっと、新潟大学の大学院に行か れまして、え、ま、え、教育士の研究をさ れてきたと、あの、特に歯の教育最後が あの、南道中学校の、ま、初代校長なもん ですから、そんな関係で、あの、歯持ちの ことを一生懸命、ま、最後あの大学の方で も頑張ってやってらっしゃったと思います 。え、そんな、え、ま、経歴がある方と いう風に思います。え、以上簡単ですが、 ご紹介させていただきます。じゃあ、先生 よろしくお願いします。あ、皆さん こんばんは。こんばんは。え、ご紹介 いただきました、あの、地本です。え、 昨年に引き続きお声がけをいただき ありがとうございます。え、ま、今晩 よろしくお願いします。えっと、ま、あの 、年を取ってきたせいなんでしょう。え、 朝4時になると目が覚めます。あの、え、 それからゴそごそと起き出してですね、 あの、妻と2人で、あの、20分ぐらい 離れたところに小さい畑があるんです けれども、え、そこに水やりに行きました 。え、7月の、え、末から9月の始めまで ほんの数日覗いて、え、毎日、え、行き ました。おかげさんで足は丈夫になったん ですけれども、えっと、大変なあの時代に 生きてるんだなということを、ま、さやか ながらからら、え、そういう日々を通して 、え、実感をさせてもらいました。あの、 本当にあの、雨が降ると、あ、これで農の 人息きつけるなっていう場合に、あの、 本当に心から思っていました。で、あの、 ま、私、え、70に今年なりました。え、 人生のあの最終コースだと思うんです けれども、え、まさかあのこんなに急激に 、え、変わる時代を、え、生きることに なろうとはと、え、本当に思っています。 で、あの、ま、今年は、えっと、 え 、昭和、え、100年、え、戦後80年で あります。え、ま、今晩はですね、えっと 、ま、その昭和の、え、2母の青年たちの 声に、え、耳を傾けれる、え、そういう、 え、一時を共に、え、送れればなと、え、 いう思いでこちらに来ました。え、 よろしくお願いします。で、ここから座っ て、え、話をさせていただきます。 えっと、レジュメの方をご覧ください。 あの、去年に引き続き私はとても欲張りな もんですから、あの、資業も項目も いっぱいで、え、話しきれるかどうか、 あの、自信がないんですけれども、あの、 あの、私の説明は、え、帰って資料を読み いただきたいと思います。え、えっと、 今日のですね、え、テーマは、え、村を 見つめ共に生きる、え、田中大輔と2房村 青年演劇 です。で、あの、え、戦後日本村の青年 たちが演劇活動を通して、え、いかに 行きようとしたのか、え、田中大輔という 、え、財損の作家と、え、青年たちが、ま 、育にもですね、降りました、え、青年 演劇の物語を、え、お話できればと思って います。え、ところでですね、えっと、 演劇の っていうような、え、ニュアンスの、え、 言葉とかとても演劇が盛んだったんだって いうことを、え、ご存知の方ちょっとあの 程度の差を去き手を上げていただきます。 いますか?はい。半数ぐらい以上がそう ですよね。で、あの、この中にはその当事 者の方もいらっしゃいます。で、それで、 えっと、 え、資料のですね、2というのを先にご覧 になっていただきたいと思うんですけれど も、え、これはですね、全国青年大会演劇 部門の2ボムナ青年団の記録になります。 で、あの、え、この全国青年大会っていう のはどういうものなのかと言いますと、え 、青年団の全国、え、 組織に、え、日本成年団協議会というもの があります。で、え、そこが主催したのが 全国、え、青年大会です。で、あの、青年 演劇 を、あの、副題につけてありますけれども 、え、これはですね、え、その、えっと、 全国青年大会の演劇部門に参加することを 、え、目指してですね、え、行われた演劇 活動のことを言います。で、あの、え、 この全国青年大会というのは、ま、言って しまえば、え、青年団の個みたいなもんな んです。で、あの、え、演劇部門、え、 スポーツの部門、共同ゲの部門、え、 それぞれありまして、で、あの、え、ま、 演劇部門で言いますと、えっと、村の、ま 、演劇大会でまず、え、その対抗戦で 勝ち上がる。それから、えっと、村の代表 として軍の演劇大会で、え、これ予選に なるんですけれども、え、そこをさらに 勝ち上がり、県の、え、大会を勝ち上がり 、そして全国なんです。で、あの、ま、 青年団の、え、ま、皆さんにとっては当時 、ま、え、日本成年官なんですけども、夢 の舞台があるわけですよね。そこへ出場 するということが。で、その中で、えっと 、資料の明らかなように、えっと、イボ村 年をですね、え、第3回大会で、え、全国 左右優秀就相、それから、え、時間が飽き ます。これは後で問題にしますけれども、 えっと、1960年代の後半から1980 年代の最初真ん中までにかけて、で、 ちょっと転生をお願いしたいんですけども 、も燃票中1番下が1981になってます けど、これ86ですので、え、訂正をして ください。で、この間ですね、え、昔小 の第3回を含めて、え、最優秀省3回、 優秀5回、え、獲得をしています。で、 あの、出場回数は、え、7回、あ、すい ません、10回です。で、あの、え、この 8回の、え、上位入勝のうち、え、7回が 、え、今日お話しする田中大輔の作品と いうことになります。で、あの、まさに ですね、え、60年代の後半から80年代 の前半にかけて、え、全国青年大会の演劇 部門は、ま、あの、民の時代であったと いうことは、もうこの事実と1つとっても 明らかだと思います。で、えっと、 で、それでですね、え、今日そのお話を 進めるにあたって、え、2つ、え、頭に 置いていただきたい、え、視点について話 をしたいと思います。え、で、1つは、え 、競争ということ。もう1つは、え、時代 ということです。ちょっとまた使って、 えっと、説明させていただきます。 まず、あの、あの、競争ということです。 え、これは共に作り上げるということに なります。で、あの、 えっと、芸術 の世界があります。生活の世界があります 。で、あの、一般的には私たちはこちら側 にいます。で、それで、えっと、 この2つの 、え、世界が離れている場合は、え、一般 的には生活者である我々が芸術を勘すると いうあの行為が一般的ですよね。ことです ね。で、ところがえっとこれが重なります 。はい。 で、 ここに重なりができます。そうすると、 えっと、見るということだけではなくて、 え、 生活の中からまたは生活者が、つまり 私たちですけれども、え、 え、芸術を作るという 世界が、え、生まれてきます。 で、これが、えっと、作る。 で、え、この作るという行為は、ま、個人 もあるんですけれども、えっと、よく個人 でいうことだけおっしゃる方もいます けれども、えっと、私たち生活者が、えっ と、芸術の世界に、え、入っていく、また は作る、関係に入っていくという時に都に 作る、一緒に作るという、え、関わりのが 強いと思うんですよね。で、それで競争 です。 で、あの、これを、えっと、具体的な事例としてあげるとすると、サド半が村です。 [音楽] 1 つ。これは説明いらないですよね。あの、まさに生活の中から、え、美容に出し、え、そして、え、それを、え、繁加という、ええ、芸術として作り上げ、またそれを生活の中に取り入れて生かしそういうことですよね。 で、え、次は、えっと、ちょうど2房の 資料館で、え、先折り点をやっていますん で、先折りです。えっと、先折りは、え、 元々は生活なわけですよね。だけど、え、 その中から、えっと、今の先折りのように 、え、そこに、え、生活美容を見出し、 そして、ええ、それをただ干渉するだけ じゃなく自分たち作ってそれを身につける 、そういう世界が生まれています。で、 それから、えっと、皆さん、あの、民芸 っていうのはご存知ですよね。民芸品とか とよく言いますけれども、あの柳峰吉と いう人が、え、民芸という、え、世界を、 え、ま、確立をしていくわけです。で、 その民芸の中で有名な、えっと、え、言葉 がありますと、えっと、要 という言葉です。え、日常の中に、え、美 を見い出していく。あの、特に柳たちは、 あの、当期ですよね、日常的に使う登記の 中に、え、感素な生活を言い出していくと いうことを、え、ま、見出していきます。 そして、え、芸術を我々の世界に近いもの として、えっと、現実と世界を、え、確立 していった方なんですよね。で、こういう ものの中に、え、2の青年演劇を 位置づけることができます。えっと、2は の、え、青年演劇は青年団が作った演劇 です。そして、え、それをアマチアの作家 である田中大輔さんが、え、ま、指導をし ました。で、え、その、それは、え、 例えばあの宇野樹とか杉村は子とかの、 えっと、民芸とか、え、そのの、え、劇団 の、え、世界がやっているものと同じよう な質の演劇を思行していくわけですよね。 うん。だけどそこには、え、Ăほな青年 たちが作り上げていく、むしろ新鮮な パワーであったりだとか、え、そして、え 、プロには表現できない、ええ、ま、 なんて言うんですかね、表現というのか、 表現の世界を、え、作っていくことができ たわけです。ま、その話も後でしたいと 思うんですけれども、ま、そういう、えっ と、え、1つ競争という視点ですね。もう 1つは、えっと、時代という視点になり ます。で、あの、 えっと、あの、え、三田介という社会学者 の先生がいまして、えっと、大好きな方な んですけども、えっと、その三田がですね 、え、戦後の時代を、え、実は3つに区分 しています。え、1945年配戦です。え 、ここから、えっと、1960年、え、 つまり日本の高動成長が始まる前ですね。 え、ま、1955年から高度成長が始まる という捉えも、え、成り立つと思います。 で、えっと、この時代を 三田さんは、えっと、理想の時代、え、 どういうことかって言いますと、えっと、 食べれないけれども理想だけはあった時代 。この意味は後で、え、2房の演劇の話の 中で、え、分かっていただけると思います 。で、それから、えっと、1955年また は、え、本格的には1960年から73年 までいわゆる日本の構造成長の時代になり ますよね。で、これがえっと、 え、夢の時代 です。ま、簡単に言っちゃうと頑張れば うん。え、結果を得られる、豊かになれる 、え、頑張ればいわゆるいい大学に入れる 。所得も受けられる。そういう夢を描いて 、え、日本人がま、え、走った時代ですよ ね。で、これが1973年の、えっと、 オイルショックで、え、パーンと弾け ちゃうんですよね。で、あの、この夢の 時代っていうのは実は現実、一方で現実が ありまして、え、例えば、えっと、え、 高度成長の結果の公害とか、それから、え 、受験地獄ですとか、それから仮密ですと か、表日本と裏日本ですとかで、そういう 、え、夢と現実が、え、 この73年2人を気にして、えっと、徐々 に顕在化してくるということになります。 で、これが、え、夢の時代で、最後が現代 までなんですけれども、 え、巨行の時代すごいですよね。巨行は 巨行です。あの、三田さんどうおっしゃっ てるかって言うと、えっと、土と人の、え 、匂いがしなくなってきた時代、非常に 感性的に僕は分かりやすいんですけれども 、え、ま、あの、情報社会が進み、え、 そして、ま、今はAIの時代になってきて ますか?ますます、え、そういう面では 進んでるんでしょう。確かに。ま、しかし ながらその、えっと、三田さんが言うよう な、え、土と、え、人の匂いというのが、 え、どんどんどんどん失われていってる 時代ことは間違いないと思います。で、 それで、え、今日お話しするのは実は、 えっと、この理想の時代と夢の時代につい てです。で、あの、任の演劇を、え、前期 と後期に分けることができます。で、あの 、レジュメ見ていただくと分かるんです けれども、えっと、理想の時代前期二村 青年という場合に、え、書いてありですよ ね。それから、えっと、夢の時代とその 現実後期任望村青年という場に、え、書い てあると思います。で、あの 、この ここが 全金なものです。 そして、え、後期はですね、実はあの、 1960年代の 終わりから 、え、1980年代の初め頃まで、これが 、えっと、最初にもお話ししましたけれど も、え、まさにですね、えっと、 え、今日お話するのはこの、え、前期と 後期つまり、え、昭和ですよ。えっと、 昭和の時代に、え、2母の青年たちが、え 、何を考え、え、どういう世界を作ろうと していたのかっていうことになります。 あの、不適切にもあるっていうあのドラマ があの、ありましたよね。はい。えっと、 まさにあの不適切の程がある、え、時代の 、え、お話になります。はい。 とても魅力的な時代なんですけども、そういうことになります。 えっと、1つ付け加えると、あの、 いわゆる競争ということで、え、島が 行きづいていた時期があるんですね。で、 それがここでいうところの、えっと、え、 理想の時代と夢の時代になるんです。作戸 も。で、この時期に、えっと、作戸全体を 、全体で、え、その作り出された文化の動 きってのがあるんですよ。その1つが、 えっと、今日の、え、青年演劇。もう1つ が、え、佐戸半田村の、え、運動です。で 、これは、あの、えっと、僕は、あの、 戦後のあの、文化の歴史の中でも非常に、 え、日本前隊の中でもですね、あの、特出 すべき動き だったんではないかなっていうに、え、 思っています。まさに、あの、競争 の、え、文化を、え、島全体で、え、 作り出そうとした時期であると言えると 思います。私その根拠はですね、えっと、 あの全ての島の、え、町が参加して るっていうことなんです。演劇そうですし 、え、それからハもそうです。もう1つ 付け加えると、えっと、生活記録運動と いうのがあります。これ、あの、島の 暮らし、え、というあの、え、生活記録 運動が、え、10年間続くんですけれども 、これも、えっと、サド全員域を、え、で 取り組まれてるんですね。で、この3つが 、え、ほぼ同じ時期に展開されるわけです 。で、これはね、やっぱすごく大きな戦後 の文化運動だったというわに、ま、私自身 は思っています。なんとかまとめたいと 思ってるんですけども。はい。えっと、 え、 はい。この話をしてるとこれで終わって しまいそうなんで、あの、2の話に行き たいと思います。え、で、えっと、それで はですね、え、少し長い助賞というところ をご覧になってください。えっと、2の 青年演劇がこれいきなり生まれたわけでは ありません。え、その前子があります。で 、あの、これはあの佐の、えっと、戦後の 演劇運動の歴史を、え、ちょっと、え、 抑えておかせ。で、あの、 本馬像という、え、両痛の、え、司会がい ました。名前聞かれたことある方 いらっしゃいますか?あ、はい。3人 いらっしゃいますね。えっと、 この方どういう方かと言いますと、 1901年に大生まれになってます。明治 34年です。え、そして1977年、え、 昭和52年に亡くなっています。で、あの 、 え、まさにあの対象デモクラシ、 デモクラシ機に、え、作戸で文化運動を 展開された方なんです。え、その当時山本 俊之助さん、え、それから中川一郎さん、 え、そして、え、本馬林、え、あの高です ね、沢田の河原田の、え、この人たちを 中心に、えっと、準という仕を相関します 。え、これは山本先生、山本篠之さんが 中心になって、え、ま、作られる雑誌なん ですけれども、で、その準芸術のグループ が対象期にですね、えっと、レコード コンスタートをやったり、それから、あの 、えっと、ま、演劇をやったりします。で 、あの、 その後、えっと、大マさんは、え、戦前は あの設動って言いまして、あの、貧しい人 たちのためにですね、医療とか、え、それ から、ま、学問を提供する活動を、え、 沢田で展開にされます。で、そして、え、 戦後は一貫して、えっと、あの、演劇運動 ですね、指導者として、え、活動されます 。ま、戦後の佐藤の文化的な指導者って いうことで言ったら、え、この大馬林蔵 さんとか、ま、後で出てきますけど、磯 さんですとか、え、が、ま、え、ま、あと 中一町ですね。あと、え、私が村に立つ 教育で書きました酒が酒川鉄というあの小 学校の校長などが、ま、あの文化運動の 中心になっていくわけですけれども、えっ と、まさにあの、え、本馬林さんその中で も特にあの青年たちと共にすでに青年の 方々にいて、え、そして、え、生き方を、 え、支えてきた、来られた方になります。 で、えっと、 では、あの、燃票と資料の、え、 3から5を、え、ご覧なってください。 えっと、1945年8月15日、え、日本 配線を迎えます。え、ま、佐野の青年たち はですね、え、その配線の巨とですね、え 、その、ま、廃線の巨の日々を、え、ま、 まさにあの悲しみの艶のような、え、状況 で過ごしたという具に言われています。で 、え、加えてあの食べられない時代であり ました。で、あの、生前の青年たちは、え 、それまであの、自分の人生と選ぶ自由 なかったんですよね。ご存知のように。で 、それが、え、日本が戦争に負けまして、 え、ま、初めて、え、自分の頭で行動を 決めて、え、自分の足取りで歩むで、そう いうことができるんだよっていう自由が、 ま、与えられてくるわけです。で、その 渡された自由を、え、どう使っていくのか 、どう作っていくのかっていうのが、え、 ここの当時の青年たちの、え、夢であり 悩みでもあったわけですよね。で、それで 、えっと、行通の青年たちはそれをですね 、まず劇場を選挙するところから始めるん です。で、あの、ご存知のように、えっと 、両津には橋本座という劇場がありました 。で、え、戦前どうもですね、あの、え、 貧しい人とか精錬たちはちゃんとした席で 見れなかったようなんですよね。で、そう いうもあって、え、まず劇場を選挙する。 で、そして、え、そこでですね、あの、ま 、岸人ヤザ芝居とかヤザ踊りに強じていく わけです。え、どういうものかって言い ますと、つごい道中ですとかね、ご存知 ですか、これからあの、え、カ太郎を つきるとかで、そういう、え、踊りをです ね、えっと、あの、初下した男と女が、え 、女って言っても女性って言ってもこの 当時女性はあんまりステージに上がれない んですよ。当然女装をするわけです。うち の親父が、えっと、女装して、え、記念 写真に映ってる、え、写真がですね、うち の廊下には飾ってあるんですけども、うん 。ま、そういうことがあったようですね。 うちの親父の青春時代ということになるん ですが、えっと、ま、そこから始まります 。で、あの、えっと、佐戸の他、あの、 人々もですね、え、そういうその娯楽とか 解放感に非常に増えてたわけですよね。で 、そのヤザ踊りとか、え、その、まを本当 にあの、え、喜んで受け入れていく時期が ありました。で、ところがですね、え、 青年たちは徐々にですね、まさにあの理想 のだけをあった時代ですので、徐々にそう いう物ノまねや切那的な楽しさに走る劇に 物足りなさを感じるようになっていくわけ なんです。で、えっとそこで、え、ど、 どうしたかって言いますと、え、年票の方 ご覧になってください。えっと、1946 年の9月にですね、本馬像が両痛演劇 サークルを検出をします。で、あの、え、 本マゾはですね、えっと、演劇サークル 宣言というものを出すんですね。で、これ が資料の4になります。で、あの、ま、 読んでると時間がなくなりますので、えっ と、ま、こういうことを臨は、え、この時 主張をします。で、あの、 戦前のように上からじゃなくって、え、 地方から下から、え、文化的に佐を耕すっ ていうことなくして、え、戦後の自由も 民主義も芽えないんだと。で、あの、サド は随分強い言い方なんですけど、え、鞭知 であり、プレーであり、呆れるほどの野性 を持っていると自分のところいます。で、 あの、そこを、え、耕すんだと。じゃ何で 耕すのかって言ったら、え、演劇の演劇を 光と肥料として耕すんだということを言い ます。で、つまり、え、臨はですね、あの 、この演劇サークル宣言にですね、あの、 ま、戦理両軍から与えられた自由と民主 主義を、え、自分たちの文化を通して下 から作っていくんだという意思をね、強く 、え、込めるんですね。で、そして、え、 じゃ、次資料の5の方に行きたいと思うん ですけれども、え、あと燃票の方もご覧に なってください。こう両方ちょっと横に 置きながらあの 聞いていただければと思うんですけれども 。 で、え、この両点歴サークルが、え、結成 され翌年、1947年新潟県自立敵団協議 会っていうのがイタリア県で結成されます 。で、この、え、自立演劇っていうのは何 なのかっていうことなんですけれども、 これプロではない演劇です。で、あの、 働く人や若者が、え、主体的にですね、 人々の中に入っていって、え、生活に 目指した、え、ま、演劇を作っていこう、 文化を作っていこうというこの時期に起き た、え、運動なんですね。で、あの、 つまりあの、進撃、あ、ごめんなさい。 あの、大進劇みたいにですね、見せて 楽しませる娯楽としての演劇じゃなくて、 え、感動を共にして共に考えていこう。 そういう、え、も劇ということになります 。で、あの、その、え、新潟県の組織が できて本当にわずか3ヶ月、2、2ヶ月後 ですね、え、翌年の1月にいち早く佐分 自立演劇連盟が、え、結成をされます。で 、あの、 えっと、 資料5の意をご覧になっていただきたいん ですけれども、え、この、え、佐戸自立 演劇連盟にはですね、えっと、ま、これも 読めませんけれども、両痛、二見、愛川、 え、金沢村、河原、 沢根、真野、旗野などとこのなどに、え、 2が入ってるはずなんですけれども、ここ の記事には出ておりません。ま、ほとんど の佐戸の、えっと、東内のこうモーラス する、え、モーラスって言いますね。で、 そこにもうすでにこれだけの演劇サークル がというか演劇集団ができてたっていう ことなんですよ。こう短期間ですね、相当 ね。で、え、この自立演劇連盟の会長には 、えっと、こマ がつきます。え、井孝太郎という方とで、 あの、松井誠がですね、副会長に入ります 。で、あの、 で、え、この自立演劇連盟ができて、え、 わずか2ヶ月後、え、サ戸自立演劇連盟が 第1回の全軍演劇コンクールというのを改 します。これも短い期間ですよね。で、 えっとこれの詳細な記録はちょっとないん ですけれども、え、その翌年、え、 第2回目の前、全軍円演劇コンクールが、 え、行われています。で、これを見ると 当時の演劇コン料の様子が、え、かなり 分かるんですが、この両津の橋本座原 の入江座、旗の千歳座場に分かれてですね 、え、火をずらして、え、ここに書かれて いるような、え、劇団が劇団というか 引歴撃集団があの集って、え、劇を競って います。え、遠額は例えばあの3年演劇 研究会が木順の融 、えっとその、え、当時いわゆる、え、 自立演劇の中で取り組まれたあの新しい劇 というね、え、劇のジャンルの作品ばかり なんですよ。えっと、だから当時、えっと 、当該からこの演劇の客を取り寄せて、で 、それぞれ島の中で、えっと、これやろっ ていうことで決めて、え、ま、中をし たっていうことがよくわかります。ま、 この中で、えっと、あの、木人のユーズル を3年演劇研究会がやりますよね。これが 実は、えっと、民間で、え、ユーズルが 演じられた日本で1番最初なんです。で、 そのことについて私があの、えっと、え、 故郷の譲るという、え、ま、あの、小文を 、えっと、佐土文化の方に書きまして、 えっと、今、ま、そこに殺ししたものに 置いてあるんですけれども、え、これも あの、えっと、非常にあの、なんか当時の 息が伝わってくるというか、あの、え、 ま、あ 歴史的な出来事の1つかなという場に私は 思っています。で、あの でですね、この、え、 全軍の、えっと、演劇コンクルというのは ですね、え、実は1948年から1957 年まで10年間、え、続くことになります 。で、あの、私はすごいなと思うんですが 、あの、10年間で62団体が参加をして います。で、あの、え、ま、参加は、ま、 最初が多くて、1番最後はまた多くなると いう、ま、当たり前のあの、現象なんです けれども、大体毎年4段体ずつぐらいの 参加っていうことになるんですが、ま、 それにしても10年間ですね、えっと、 持続的にこの島の中でですね、え、演劇 コンクールが行われたということはこれは すごいことだなというに思っております。 で、あの、えっと、参加団体の回数から 見るとですね、やはりあの、腰通園 サークルが1番多くて、で、え、その後に 、え、マ田とか、え、私の生まれですとか が来るんですけれども、え、その、えっと 、4番目のところにですね、あ、今、あの 、3ページの資料の方に行ってるんですが 、え、ニンゴラ年が入ってます。で、 そして、えっと、もう1つ、え、創作劇 のみというのが入っています。この2房村 青年団の演劇集団と、え、柚実と両方入っ てるというところがこれがまた1つ面白い ところで、これがまた後で、え、ちょっと した問題になってくんです。で、それで、 え、 あの、サドの場合はですね、えっと、あの 、 こういう演劇の大会って言った時に成年団 からの参加が圧倒的に多いんですよ。あの 、都会では、えっと、大体当時の演劇運動 っていうのは労働組合がっていってたん ですね。で、ところがあの日本がですね、 逆コースになっていて、ベッドパージーに なっていて、え、組合いだとかがこう正当 も含めてこう断スされる時期がありますよ ね。あの頃、えっと、演劇運動は下火に なっていくんです、全国的には。で、 ところが佐の場合は、えっと、青年団が 主体でしたので 長く行き続けていくんですよ。これも作戸 の1つの大きな特徴になります。はい。で 、えっと、それでは、えっと、じゃあ2は どうだったんだって話になるんですけれど も、 えっと、 資料の6をご覧になってください。で、 それから、えっと、燃票の方も、え、同時 にご覧になっていただきたいと思います。 あの、 まず燃票の方をご覧になっていただきたい んですが、えっと、実はですね、え、この 年票とかこの後出てくるあの日関係の資料 っていうのは私にとっては1つの資料との 出会いというのがありまして、で、あの、 え、田中大輔さんと、え、ま、日本の青年 大演劇のことを知りたいと思って、え、ま 、資料調査ですね、ここに入ったわけです よ。で、そしたら、え、その当時の、え、 ま、そこにいらっしゃる川上さんたちの 演劇が集まってくだされまして、ま、そう いえば、え、体育館の奥の部屋になんか あるぞって話になりまして、で、あの、 開けて入れてくださいました。で、そし たらそこにですね、あの、当時の、えっと 、え、舞台道具ですとかトロフィーですと か症状ですとかが、ま、雑然とこう置かれ ているわけです。で、え、もっとすごかっ たのは実は、え、戦後の、えっと、新村 青年団の、え、資料がですね、えっと、 戦後1番早い時期から平成ぐらいまでです ね、ざっと、え、そのまま残っていたん です。ま、これは僕にとっては宝物でした 。で、あの、それを、えっと、え、ま、 読みざっと読ませていただいて、で、ま、 そしてこの後の資料を作ったんですけれど もと、あの、 ま、あの部屋には、え、当時の神臭い部屋 ですけども、あの、誇り臭くて、あの、 本当に当時の青年たちのあの、なんつうか な、息遣いがこう伝ってくるようにね、 あの、そんな思いがしながら何回かこもら ていただきました。で、それで、えっと、 もう1つ、あの、え、長青年開始というの があります。これあのそちらに来られてる あの川上一さんから提供していただいたん ですけれども、あの青年男子としてはです ね、もう出職のものだと思います。これ だけまとまったものはないと思うんですが 、結構長いんです。30何 ページあったと思うんですけれども、えっと、そこから、え、この当時のじゃ、簿の、え、文化活動についてあの説明をしてみたいと思います。 あの、戦前、え、ちバクラブというのがありました。これはあの明治から、え、活動した、明治の末から活動した長年の青年会組織なんですけれども、え、その場 [音楽] クラブがですね、芸大会をやってたんですね。 で、ここに書いてあるような、え、演芸を も本当に幅広く取り組んだんですけれども 、え、こ、こういう1説がありました。で 、この演芸に歌舞伎が多く取り入れられ、 また低続的なものから脱しようと努力した と。もうこの当時からもうかなり高い やっぱりものを求めていきたいっていう、 もうそういう、え、文化空道があったと いうことは非常に大事なことです。で、え 、戦後になります。で、あの、この千を 引き継いで長っていう、ま、戦後の成年団 組織が1947年に、え、作られてきた わけです。え、そこにこういう説があり ました。え、 流世紀といえば245年では、え、ないか と。えっと、中でも共有会の演劇は、え、 大変なものだったと。で、え、ま、戦後 どこでも白天撃が盛んだったけれども、ま 、しかし、え、懸命なと書いてありました 。懸命な長の若者たちはそんなものに 飽きたらず、え、新しいものへと、え、 進んでいき、進撃に対する意欲を増すとの 盛となったという具合に、書かれています 。で、え、事実ですね、えっと、 まず年票をちょっとご覧になっていただき たいんですけれども、え、燃票の右側が ですね、2秒、2歩関係の出来事になって います。で、あの、1948年から、えっ と、1954 年まで、え、ほぼ例年ですね、イボで演劇 サークルの活動があったっていうような 記録が残っていたり、演劇大会が開催され たっていうような記録が、え、その青年の 記録から、え、拾うことができました。で 、え、どういうことかって言いますと、あ 、ごめんなさい。えっと、もう1つ言い ますと、その、え、演劇大会にですね、実 は長共有会が、え、例年参加していたと いう記録も残っていたわけですよ。で、 あの、それが資料の6の、あの、今ほど 読んだ下の方にある共有会の事業日なん ですよね。で、これを見ると1949年 から1955年まで村演劇大会に、ま、 毎年参加したと。で、こういう演目で参加 したんだっていうことが、え、記録として 残されていました。で、私はこのように 考えました。あの、この時期にですね、え 、村の演劇大会と目打てるだけの、え、 参加年団がニボではあったのだろうと。え 、大会やるためには複数なきゃいけません からね。え、2つのブラックだと大会に ならないですよ。最低でも3つのブラック は参加しなきゃいけないと思うんですよね 。で、えっと、しかもですね、その中で長 のように、えっと、進撃の作品ですよね。 あの、それを競い合うように演じていたん だろうということが分かります。で、あの 、えっと、しかも、え、ほぼほ魔人像が 審査員できてるんですよ。ということは もうその完全にその流れの中で、えっと、 任望の演劇は作られてきていただろうと いう場合に、え、思いました。で、あの、 これから、あの、田中大輔さんと、え、鬼 、え、その捜索劇の鬼代行についての話を するんですけれども、え、今まで私は、 えっと、この事実を知るまでは、あの、 やっぱり田中大輔さんのやっぱ才能とかが あって、ポコっとそね、あ、始まったん だろうというぐらいに思っていたんです。 ところが、え、そうではなくて、あの、 田中大輔さんと、え、それから2房年の 演劇 っていうのはその前子があるんだ。 ちゃんとその2房の演劇フードルの中で 生まれて、え、育てられてきたんだという ことが分かりました。で、え、それで、え 、次に、えっと、 え、いよいよ、あの、え、理想の時代前期 二村青年演技っての話に行きますけれども 、えっと、ここで、え、中心になるのが 田中大輔さんということになります。あの 、 田中さんのことについて、え、お話をし ます。えっと、田中大輔さんは、え、 1925年大正14年に大生まれになって 、え、1996年、え、に、え、71歳で 、ま、癌のために亡くなられています。で 、青木で生まれましたが、え、船下の 田中家にその後用姿に入ります。で、あの 、西房病院に、え、事務職として勤務をし ておりまして、え、その時に、えっと、 柚みという、え、進撃の、え、研究 サークルですね、自分たち。それを、え、 船しのブラクの有子たちで作るわけです。 で、これが、えっと、その後の、え、2の 変度の交代になっていくんですけれども、 で、あの、その後、えっと、コロニー白の 里っていう寺止まりの、え、障害者の施設 で、え、お務めになりまして、え、この頃 に、白屋の里というのは、あの、えっと、 障害持った方たちの社会に出た時に自立し て、え、生活できるようにするためのそう いう施設なんですよね。そこでお仕事をさ れまして、その後新学園の延長、そして村 の条約と、ま、養殖を務められています。 で、あの、えっと、田中さんはご自身で、 え、本職は障害者、障害時教育であると 本業は、え、その、え、傍原を書いたと いう概におっしゃっています。で、ご本人 は、え、勝じめになった作品は30作以上 だという場合におっしゃっています。私も 、えっと、可能な限り調べてみました。 あの、13ページをちょっとご覧になって ください。 えっと、参考資料ということで、えっと、 田中大輔捜索技局という、え、まとめを 作ってみました。あの、二房資料官、 任房間で所いるもの、それから、え、田中 次郎さんという、え、田中大輔さんのお子 さんが所有され、所有っていうか、ま、 あの、ええ、これは保存しなきゃいけな いっていうことで今管理をされている脚本 、え、それから、え、もう1つ、あの、 交換された作品です。で、これだけのもの があります。で、あの、ここに書かれて いるのは全てではありません。えっと、実 は昨日ですかね、ウ屋のあの、え、えっと 、ま、地域士を読んでいましたら私が見た ことないよう田中さんの作品をやってまし たよっていう記述があったりして、えっと 、30本当にあの、確かに勝人になったの は30冊以上でもっと、え、作品はあるん だという具合を思っています。で、え、 ちょっとまた戻ります。 はい。はい。で、それで、え、ま、田中さんが、あの、初めて、え、脚本というもの書いたのは実は小学校 4 年生の時なんだそうです。あの、えっと、これはどこで分かったかと、え、田中大輔さんが NHKの朝の水素ってご存知ですよね。 あったのがある。それの、え、1981 年度の上半期担当されてるんですね。で、 その中でご自身のこととか色々こ話をされ てるんですよ。で、そこに、えっと、小学 4年生の時に、ま、あの、町内会で天人 祭りで劇をやることになったと。で、普段 だとあの、ま、あの、センプルのあの、 老局士だとか呼んできてやるんだけども、 なんか病気になって来られなくなっちゃっ た。で、しょうがないから役員だから お前かけみたいなの話になって、えっと、 八北同中期っていう漫画をアレンジして、 え、作って大工業を得たというのが最初だ そうです。で、それからそれを当時の、 えっと、担任の先生が見てて、あ、これ 面白い。こいつは書けれるなって話になっ て、で、その担任の菊先生という方なんだ そうですけれども、ま、学芸書いてみない かっていうことを言われます。で、それで 、ま、当時もあの226事件だとかも まさに日本は、え、線が立ち込めてきてる 時期なんですけれども、ま、田中さんは ですね、え、傷ついた兵士を敵味方く 助ける、あ、ああ、声優という題と題した 9万劇を書いて、ま、これも大公表を握し たんだそうです。ですので、あの、田中 さんにとっては、えっと、これが1人目の 恩師であると先生がっていうことを おっしゃっています。それからもう1人の 恩師は、え、先ほどからも出てきている 本馬林です。で、あの、え、田中さんが 本馬林に初めてあったのは、え、1948 年2の海晴で、え、村青年の、え、演劇 大会があった時、そこに、えっと、え、 審査員で小マが来ていったわけですね。で 、それで、えっと、田中さんが、え、書か れた、え、高橋おでんという人を題在にし た、えっと、演劇を行ったんです。 びっくりしたんですけど、インターネット で高橋おでって何なのかなって調べてみ たら、えっと、明治の、え、殺人班で女性 で初めて死刑になった方だそうです。明治 の毒府って言われた方だそうで、それを えっとテーマにしてどうも脚本書かれてる んです。どんなんだかちょっと見てみたい 気がするんですけど、ま、残ってない でしょうね。で、あのそれがすごくあの 本像は面白かったんでしょうね。で、 こいつはかけるって話になってどうその 終わった後に読んで、え、自分で ストーリー考えて書いてみないかっていう ことを言います。で、え、それから今度 年票をちょっと見ていただきたいんです けれども、え、それがあったのが1948 年ですよね。で、その、え、3年後です。 え、1950年に、えっと、右側の日房 関係のとこ見ていただきたいんですが、 本馬人が、え、田中大輔にですね、捜索 脚本を前に1つ書いてみないかっていう ことを言います。で、その時の、えっと、 やり取りが、え、実は、えっと、田中大輔 さんの回層として残っています。えっと、 資料の8をご覧になってください。 えっと、誕生の経緯というところがあると 思うんですけれども、え、 本に田中さんが呼ばれます。で、え、林蔵 は田中さんにこう言います。え、こう こな間だから思っているんだがね。佐の 共同芸能は芝居にならんもんだろうかねと 先生は寿司の上がりのお茶を美味しそうに 飲みながら目を染めるようにして取りかけ てきた。え、強度芸能ですか?あ、ほら、 張駒とかタコしとか色々あるでしょ。お 客さなんか激のモチの中で静かに流れるの もいいと思うがねというような、え、 投げかけをするんですね。で、これに対し て田中大輔はもうとんでもない私にはそう いうものを書けませんっていう場に言うん ですけれども、え、ま、受けて書いていく わけです。で、そして、えっと、任の船と いえば鬼大子ですよね。で、あの、田中 大輔も、え、青年会長をしていたようです 。で、その当時から、えっと、そのニボの 鈴しの、え、温でを見ていてですね。で、 そして、えっと、ま、え、 ま、この話をもらった後もその音で、ま、 見ながらですね、その、え、1つのヒント をやめます。で、あの、どういう頻度なの かって言いますと、あの、僕はよくそこ辺 詳しくないんですけれども、あの、大子の あの、えっと、1番盛り上がる場面って いうのは、あの、鬼と獅死のがこう、え、 ま、え、交り合ってこう舞裂 しながらその、え、舞うというシーンだと いう具合に、え、聞いています。で、そこ に田中大輔は後で説明しますけれども、 えっと、着走を得て、え、鬼大子という 作品を作るんです。で、あの、 で、え、またちょっと年票に戻ります けれども、え、で、1953年、それから 1年半後ですね、えっと、 田中大輔は、え、林にですね、昔話を見 たいことを題した、え、脚本を渡します。 え、その、そ、そうしましたらそれを一し た、え、林はですね、えっと、 またあの先ほどの単の経緯のところに書い てありますけれども、ま、他大盛期には 人間の2倍もかかったがう、生まれた子供 は有料児だったね。で、あの、さんは ちょっと思ってらした方のいるので、えっ と、そのように、あの、とても、えっと、 あの、 感動したということを思い、えっと、 素晴らしい作品だということを、え、田中 大輔に伝えます。で、えっと、この、え、 昔話鬼大光を持って、え、船下の柚という 演劇集団が、えっと、これも年票ちょっと ご覧になっていただきたいんですが、 1954年の、えっと、2月に行われた任 の演劇大会に、え、出るわけですよ。で、 え、そこで、えっと、え、ま、1、ま、最 優秀の証を取ります。で、えっと、これは 後でまた問題にするんですが、えっと、先 にその話をしたいと思います。で、そして 、え、2房、え、佐藤、え、県と 勝ち上がっていって、いよいよ全国に、 えっと、全国の青年大会に演劇の部に、え 、出場することになります。で、え、その 時の様子を、えっと、田中大輔はですね、 あの、近代という戦後佐藤で作られた、 あの、ま、今で言えば分芸術とか、あの、 もうちょっとレベルが高、高、高いはない な。あの、世界とかそういう、あの、え、 ま、要するにあの、総合雑誌ですよねが出 ていたんですよ。で、え、そこに、えっと 、田中大輔が、え、東京鬼大子の最優勝に 思うという一望寄せています。で、え、 その大会の様子をちょっとご紹介したいと 思います。あの、これからは、あの、えっ と、田中大輔に成り変わってちょっとあの 、え、話をしますけれども、え、ギリギリ 激に成り立たせる、え、10人の参加だっ たと。我々は友情で結ばれて演劇を愛する 仲間として、え、どの劇団よりも高く結束 しているという点だけは、え、確信を持っ ていました。で、え、ただし佐では受けて も東京ではどうかというような声も聞こえ ていました。で、上映が始まります。え、 そこには、え、目的に向かい1つになって 進む美しい、え、塊の躍動があったんです 。で、それはおそらく演劇をする人だけが 知る喜びの一瞬でした。この1節すごい ですよね。で、あの 、で、劇は、え、何のミスもなく進み、え 、敵も上場でした。え、大員たちは安と 満足の気持ちに満たされていました。で、 ところが最初の方の出演だったんですよ。 で、あの、え、他のチームの演芸を見ます だんだん自信がなくなってきたようなん ですね。で、え、どうしたかって言うと、 え、その 完激が終わって帰る、え、途中、ま、単員 からもう望みもないから、え、今夜の夜行 で帰るわって話になります。で、結局翌日 の結果アプに残ったのは田中大輔1人だけ だったんだそうです。あとはみんな夜行で 帰ってしまいます。で、え、いよいよ当日 の発表になるんですが、田中大輔はもう 結果を予測知っていたんでしょう。トイレ の中で新潟県という代表のポケットに入れ たそうです。で、それで、え、結果発表の 会場に望みます。ま、そ、で、え、 で、いよいよあの発表になります。え、で 、最優は、え、昔話というところまで 聞こえた瞬間に、え、脳から胸、胸から脳 へとわけのからのものが往復したと。で、 思いっきり泣きたいような、思いっきり 怒鳴りたいような何とも言え複雑な気持ち がしたという具合に、え、心境を述べてい ます。え、分かりますよね。え、その心境 というのは。で、え、凱旋をします。そし たら、えっと、村のローバがですね、こう いったそうです。え、古原島の小さい 小さい村のあんちゃんたちが東京行って 芝居ぶって日本一の賞を取ったそうじゃ なったらえもんじゃろっていうに言われた んだそうです。で、あの、ま、田中たちは 非常に、えっと、喜びます。はい。で、 で、その後ですね、えっと、この鬼大子は 、え、 ま、大員たちの予想もつかないような、 えっと、社会的な、え、展開をしていき ます。え、どういうことかって言いますと 、え、1956年翌年ですね、家野光 の、え、中山渡という当時のあの、もそう いう、え、農産演劇関係では第1任者なん ですけれども、え、その中山によって映画 化されることが決まります。で、それから 、え、当時の、え、侮の、え、トップで あった石井バという人がいるんですが、 その文家の石富士によってバレー化をされ ます。で、それからさらにNHKが、えっ と、オノグランプリ のオノグランプリというあの、え、音楽祭 イタリア省っていうのがあったんだそう ですが、え、そこに参加をして、え、特別 少令省というものをもらいます。そして、 ま、極め付きは、あの、宝塚症状過激団も 、ま、客されて上限されると。で、あの、 ま、1つもですね、社会減少になっていく わけですよね。で、あの、え、ご存知の ように、えっと、1950年代の最初、 あの、無着が山び学校というあの文章を 出して映画化されたりだとか、もうあの、 え、雑誌で取り上げられたりだとかって、 あの、社会現象になっていくわけですよね 。まさにあの青年演劇の山び学校という ことになります。で、あのここまでは えっと絵に書いたような展開だったわけ です。でその映画化を巡って1つの問題が 、え、起きてきます。え、これ、あの、え 、どうしても長くなってしまうので本当に 買いつまんでいますけれども、えっと、ま 、詳しくは、え、資料の方を、えっと、ご 読みになっていただきたいんですけれども 、あの、 と 映画家が聞まって、で、そしてあの、 いよいよクランクインするということで、 え、監督イカが、え、島が立ってきます。 え、そしたらその、え、 もう全面的に迎えてもらえるだろうと思っ ていたのに、え、思いもかけず、え、村の 青年たちの強い拒否反応に張ってしまうな んですね。で、あの 3つ大きな理由があったという具合に私は 思います。で、1つは、えっと、あの、 柚ずのみというあの進撃のグループを作り ますよね。で、え、これがえっと、え、 いわゆる、え、ブラクを代表して出ると いうのはどうなんだっていう問題が1つ ありました。だからその当時新しい劇の 動きとそれからえっと村の中であったまだ それは理解できないであのそんなに 突っ走しってもらうとしてのまとまりが なくなっていくというそういう問題ですよ ね。よくあることだと思うんですけれども 、え、丁寧にその段取りを踏んでなかった もんだからやっぱりその反発が残ってい たっていうのは1つあります。で、それ から、えっと、2つ目なんですけれども、 これはもっとあの、本質的な問題でして、 あの、私先ほど昔話鬼大子、あ、すいませ ん。鬼大子という錯覚品はにかこして昔話 鬼大子というレジムに書いてありますよね 。で、実はですね、えっと、田中大輔は、 え、本馬に脚本渡す時にも昔話鬼代子と いう題名で渡してる。それから、えっと、 青年演劇の全国大会も昔の商員代子で出場 してるんですね。ところが、え、田中大輔 が、えっと、全国にその、え、自分の作品 を発表する、ま、雑誌なんですけども、 あの、専門雑誌なんですけども、悲劇、 悲劇だとか進撃だとかっていう、ま、一流 の当時の演劇雑誌があるわけですが、ま、 そこに作品を発表する時には降りないこと という題名で出してるんです。うん。で、 それでなんでなのかなっていうことなん ですけれども、え、実はこれは僕の、え、 考えて多分間違ってないと思うんですが、 あの、当時の船物政念たちが反発した 大きな理由に、えっと、 その自分たちを誇りにしている鬼大子、 まさにあの自分たちの存在証明そのもの ですよね。サドの青年たち、特に船しの 青年たちにとっては自分たちはサドで1番 だという自由があるわけですから。で、 その鬼大光をその題材にして、そして 鬼大子という題名がついて、これが全国に 映画になったり、あの、いろんな劇として 行われるのはそれはダメだよっていう、 そういう考え方です。で、これはあの悲劇 悲劇という雑誌の中でこの問題との実は 特集されたんですけれども、その雑誌の 編集部もそれは、え、そうだろうという 具合に、えっと、ま、書いています。で、 それから3つ目が僕はやっぱり村の壁って いうことがあると思うんですよ。あの、 この当時今でも、ま、その残存があるかな と思うんですが、村っていうのは、あの、 人並みであること、そか、付き合いを ちゃんとすることっていうのが大前提です よね。ま、簡単と目立っちゃいけないわけ ですよ。それで、え、当時その田中大輔は 一気に全国区になったわけですよね。うん 。で、あの、本当にそうなんです。昔大子 という、えっと、劇はそれからいろんな ところで演じられもしますし、それから その創作演劇のあの画期的な作品だという 評価も高い評価も受けるんです。全国でね 。なので、えっと、実は田中大輔助輔は、 え、 裏です。裏でっていうか、あの、村の中で 、え、こういう具合に言われたっていう 具合に、ま、証言をしています。え、どう いうことかって言いますと、え、彼は 決してブラクの青年のことなんか考えてい ないと。全ては自分の売名のためだと。 立進出のために仲間の生年たちを組み大に しようとしているとこういう話が、ま、 やっぱり流れたっていうことです。で、え 、田中大輔はそのことに対して非常に悩み ます。え、うちが、え、村はみたいになる んじゃないかという具合に悩んでいくわけ ですよね。で、ま、これがこの当時のあの 、ま、2のそこの地域に限らず、え、佐戸 全体が持っていた空気なんだと思うんです よね。で、この3つが1、あの、大きな 理由になって、え、この映画家の問題って いうのが、え、こじれています。で、あの 、 でですねと 、で、その後なんですけれども、え、ちょ 、この年票をちょっと見ていただきたいん ですが、あの、どうなっていったかって いうことなんですけれども、え、その後も ですね、ま、田中大輔は、えっと、え、前 を向きます。で、そして、えっと、脚本を 書いて、え、すいません。え、任ব関係の 出来事のところちょっとご覧になって いただきたいんですが、ま、1955 年その映画鬼代子というのはこれ結局政策 されるわけなんですけれども、え、その後 もですね、えっと、3年続けて、え、柚美 がですね、え、サ戸の演劇コンクールに 参加しているという、これも記録が残って います。ということは、ま、その後も、 えっと、ま、いろんなそういう問題を、え 、ま、抱えながらもですね、えっと、 前向きながら、え、ま、演力活動展開して いったんだなということが、え、分かると 思います。はい。 えっと、それで 、 え、またレジベの方に戻っていただきたい んですけれども、えっと、ま、こうして ですね、あの佐戸の演劇は、え、この田中 大輔の昔話鬼大子っていう1つの作品、 創作劇なんですね。え、つまりプロが作っ た作品ではなくて、えっと、ザ野、え、 劇作家が作って、そして、え、青年団が 演じるという作品 によって、ま、1つの、え、ま、を作って いったということになります。で、あの、 えっと、やっぱり、あの、え、この昔話に 大子っていう作品を通して、え、出されて きた問題っていうのは、ま、まさにあの、 まだ戦後10年ぐらいですよね。え、そう いう、え、古い、え、戦前的なものがまだ 残されている時代です。ま、そういう中で 、ま、青年たちが、ま、自分たちで、え、 その理想とする演劇を作っていこうとした 中で出てきた問題なわけですけれども、え 、ま、そういう意味で、えっと、田中大輔 や青年たちがその問いかけた問題っていう のはまさにこの時代を、え、生きる青年 たちが共有していた問題であるし、 乗り越えていきたかった、ま、地でもあっ たということになります。ま、あの、ここ に戻りますけれども、あの、理想を求めて いった時代の、え、まさに象徴的な、え、 出来事作品だったなという場合を思うん ですね。はい。で、それでは次なんです けれども、えっと、年票をまたご覧になっ ていただきたいんですが、あの 、とですね、 この、え、1954年に、え、昔本大校が 全国で 周を取った後ですね、え、 また再びで演劇活動が展開されるまでに実 は14年間の区学があるんです。で、あの サド演劇コンクールが10回を持って 終わるんですが1957年ですよね。で、 そこからえっと1968年であ、あのまた 、え、日本村の青年団があの演劇活動 取り組むまで10年の空白があるんです。 で、この空白って一体どういうことなん だろうっていうことなんですね。まさか あの昔大子のあので起きた問題がここまで 引きずるっていうことは考えづらいんです 。じゃあどういうことなのかっていうこと になるんですがそれがその夢の時代の夢と 現実ということになってきます。で、えっ と、皆さん、あの、え、農民作家で山下一 さんっていう方ご存知でしょうか?私は 大好きな方で、えっと、よく読むんです けれども、え、その山下蒼一さんがですね 、えっと、 このような、あの、え、ことを、え、書い ていらっしゃいます。えっと、 それ、あの、1961年に、あの、国策と して農業基本が出されますよね。で、え、 その10年後に、え、自分を、え、強く、 ええ、食いたという一分になります。あの 、どういうものなのかって言いますと、え 、何年かの地には我々農民も都市労働 者並みの文化生活ができると。部活にも こう村の将来に、え、農業の未来にバラ色 の夢を描いてしまったと。で、確かに機械 化学肥料も登場した。で、農業は楽になっ たし、収穫物増えた。で、しかし生活は 一向に楽にならなかったし、予感も生まれ なかった。え、そして気がついた時借金 まで背込んでいた。で、結果機械と肥料を 使わなければ農業が成り立たなくなってい た。で、あの、加えて、え、家庭では 競そ添い合うかのようにの三種の人ですよ ね。え、テレビ、洗濯機、冷蔵庫を揃えて いく時代になります。え、ただでは揃え られません。え、確かに生活は楽になり ますけれども、またここでも借金ができ ました。そういう話です。で、あの、現金 を、え、どうしても手にしなきゃいけませ ん。そうすると出稼ぎと業化が進んでいき ます。で、それに加えて、え、私とか五藤 先生たちが同じ世代なんですけれども、 えっと、農家でも、え、長南家大学に行く 時代をだんだん迎えてきました。え、 つまり、えっと、私たち若い世代が どんどん島を出ていく時代になっていき ます。おずと、えっと、青年団の活動は、 え、停滞をしていきます。つまり、え、 青年代そのものが、え、いなくなっていく わけですよね。ま、それでも、え、2は ですね、えっと、農業ですので、あの、 まだ残ってる長の割合が多かったんですよ 。うん。で、ここが1つの大きなポイント になってくるんですけれども、で、あの、 えっと、そういう状況をですね、あの、 もう1人、もう1人というか、あの、この 当時の2の、え、青年たちも、えっと、 見つめていました。で、あの、本馬桜一 さんという、えっと、青年団長の方が いらっしゃるんですが、え、その方が残さ れた文章をちょっと見てみたいと思います 。えっと、ですね、 えっと、すいません。資料の、え、12、 え、7ページをご覧ください。 えっと、 2の青年団が再び演劇活動を再開する時期 の青年団長になります。え、で、その本馬 さんが、え、このような一群を残されてる んですね。えと、私たちの財団の頃は脳層 の大きな転換機が来ていたと。大体その 農家は、え、農業収入だけでは生活でき ないという状況があったと。で、出稼ぎが 増え、夫人の労働も負担が大きかったと。 え、嫁が来ない。息子が後をつかない。暇 がない。加えて金がないですよね。きっと ね、4台になるんですけれども、え、そう いう状況であって、え、しかも、え、これ は今でも通じるところですが、あの、あの 、米が余るからといって地流制御をち出し てくると。うん。で、え、ま、そういう中 で、えっと、家庭の崩壊の破壊がですね、 進んでいたということです。で、え、 青年活とも曲がり方を迎えていたと。ま、 そうした中で、え、なんとか青年団の日を 消してはならないと、1人でも多くの仲間 を集めて新しい社会への展望を持ち、積極 的な活動を取り組むことが必要だという 場合に、え、この当時のことを、え、書い ていらっしゃいます。で、そして、え、何 に注目したかというと、え、実は演劇なん です。で、あの、 それが証拠にですね、えっと、その資料の 11ですね。その前の資料ご覧てください 。えっと、あの、 羽たく時芸能祭20周年を迎えたていう村 団が作った、え、記念があります。これも すごい面白い記念だったんですけれども、 えっとそこにですね、え、20年間、えっ と、の、え、芸能祭の記録がまとめられ てるんです。で、それがあと当時の男女 さんの、え、回層も一緒に載っています。 で、あの、これを見るとですね、えっと、 その高馬桜一さんが、え、団長だった時に 、え、田中大輔の鬼大子をやってるんです よ。つまりかつてあの青年団で問題になっ た鬼大ですね。それをこの転換機の1番 最初の芸能祭でやってるんです。これ 大きな意味があります。で、え、その後 ですね、えっと、2本村の芸能祭は3本柱 で行われるんですね。え、お楽しみの、 これは火王省とかとかそれから、え、伝統 源呪マ人形を中心してそして毎年必ずを 行われたのが、えっと、演劇なんです。で 、これは最初に紹介しました全国青年大会 で、え、演じられて、え、上位の賞を獲得 した全国レベルの演劇を、え、毎年、えっ と、演じるわけですね。で、あの、これは 意味がありまして、え、実は青年団は、 えっと、全国青年大会で入勝することの 目的でしたけれども、1番の目的はこの、 え、最後の、え、芸能祭で村人の前で、え 、これを発表してですね、え、そしてその 感動なり、え、問題意識なりを共有したい という思いが強かったんですよね。で、 えっと、なので毎年必ず、え、そのメイン として、あの、演劇が、え、取り組まれて いくということになります。 はい。で、それで、えっと、 いよいよあの演劇の村2房が再び全国に、 え、 ま、登場していくわけなんですけれども、 えっと、その天気になったのが、えっと、 実はですね、えっと 、すいません。資料の、えっと、中の2と いうのをご覧になっていただきたいんです が、あの、第5回の、ま、芸能祭が行わ れるんですけれども、ま、ちょっと怒られ てますけれども、あの、川上一さんが団長 の時の、えっと、いわゆるあの青年団の 取り組みであったとは思います。で、あの 、 えっと、ま、鏡さんこのように回想されて ます。えっと、ま、演劇を中心とした大員 の仲間を行ったと。で、あの、すごく、 あの、おまず はそうなんだなと思って笑ってしまう ところもあったんですが、当時結婚もない 妻が家にいるのは田と稲かりの時だけと こぼしたことが思い出されるという概に 書かれています。あの、確かにそうなん ですよね。あの、1年間で、えっと、全国 まで向けて演劇3回やると、あの、軍 全国でしょ?1年通してですよね。で、 これね、そのたびに大体1ヶ月半から2 ヶ月ぐらいね、ずっとね、ほぼ休みなしに 練習してるんですよ。で、鏡さんしたら それと飲みにいたしなって話になって、 それあのその当時はあの、えっと、団長と 芸能部長があの、奢るっていう敷き体だっ たらしく、とても大変だったそうです。 それも面白いなと思ってきったんですけど も、で、あの、えっと、それだけじゃなく てダンスパーティーですとか、スポーツ 大会ですとか、え、結婚式を乾燥化し ようっていう生活改善の運動ですとかね。 そういうの1年してやるわけですよね。 それでこの芸能祭でしょ。ま、そりゃうち にいないわけですよね。本当にね。で、 あの、そういうその、ま、いわゆる青春 事態ですよね。本当にそれを、え、青年 たちは送っていただたわけですよ。で、 えっと、この、え、青年団の取り組みが何 が画期的だったかと言いますと、えっと、 8ページの方に行ってください。と、あの 、演劇研究会というのを作ります。で、 これはですね、あの、柚ずのみがあの、 こなし物、え、ブラックで作られて ちょっと問題になったのと、またちょっと 意味が違うんですね。この演劇研究会って いうのは、え、西房村青年団の中で作られ た研究会なんです。いわゆる、え、全国 大会を目指して演劇のレベルを上げて いこうと、質を上げていこうということを 目指して、え、作られた、え、 グループっていうか研究会なんですよね。 で、あの とその、え、活動の家程を、え、ここに 書いておきました。で、あの、例えば5月 2日に日本はマチアエクラブに加入をし ます。これはあの全国レベルの劇を学ぼう ということで、え、 加入をします。だから演劇の練習計画を見 てください。これはあの軍の大会に向けて なんですが6月1日から7月9日まで 317日間休みは1日だけという大体夜の 8時に集まって10時までやったそうです からで長い時は12時までやったそうなの でますごいですよねそのパワーというかで それでえっとであの全国大会ですけれども トップバッターだったんだそうですねトッ プっていうのは不利なんですよね。で、 えっと、残念ながら賞には入りませんでし た。で、あの、ではこのノル子っていう劇 はどういうものなのかっていうことなん ですけれども、えっと、14ページの方を ちょっとご覧になってください。 え、 1番下です。えっと、 こういうストーリーになります。で、農家 の満喫には中れの1人の子がいると、学園 に入園しているが式20歳でなり学園は 少しでも納作業を覚えさせたいと家に返す と仕事嫌いで負け物の密をというのがいる んですがこれが、え、ハ場で、え、マッチ のすり方をの信ぶに教えたことから、え、 は燃えるんですね。そういう事件が起き ます。で、どういう経緯で起きたかって 言うと、ま、こともあろうにこの三おが 欲傷しちゃうんですね。で、のぶ子を襲う んですよ。で、投げ捨てたタバコが、え、 稲方に燃え移ります。で、三は逃げて しまいます。で、そこに警察が駆けつける んですね。で、え、の信子がマチを手に 持っていたことからの信子が疑われます。 で、あの、満期負は親です。え、知恵遅れ でもして良いことと悪いことのことはつい ていると。で、例えしていても俺のはずは 燃やしただけだとでこます。で、しかし、 え、その当時、えっと、小学校で、え、ま 、その当時っていうか、ま、その、え、 近い時に、え、放課事件があったんだそう です。で、それを警察を疑って連れて 行こうとする、そういうご問題があります 。で、結局ね、この劇はハッピーエンドで 終わらせてないんですよ。そこにその田中 大輔があの見る現実 の問題意識があるわけですよね。え、 決してその理解はうん、障害者に対する 理解っていうのはそんなに、え、深まって ないんだということを言うわけですけれど も、これに対して、えっと、あの、当時の 成年団は、えっと、ま、演劇の大会では こういうもの出すことになっていたん だろうというわんですけれども、また 先ほどの資料にちょっと戻っていただいて でしょうかと。 です。よいしょ。 ここはちょっとメすいません。よいしょ。 はい。えっと、8ページです。 え、 演劇のぶ子の上園意図及び先行家庭という 、え、文章が残されていました。これは あの演劇の大会でおそらくこういうものを 提出しなきゃいけないだったんだと思い ます。で、その中で、え、このように当時 の、え、青年団は、え、ま、訴えています 。私たちのにもいくの社会的な矛盾がえい ていると。え、私たち青年は社会的矛盾を 恐れず衛戦に直視していかに真実を求め、 いかに矛盾を解決し、より高い人間性の 事元を追求していくか。え、そのためには 演劇を通して広く社会にその矛盾の一端を 訴えることが矛盾を解決するになると。で 、私たちはこの深刻な問題について真剣に 話し合って研究してきたと。で、不幸な 子供たちに温かい思いやりと愛の光を 投げかけてくるくれることを家庭として 上映する。非常に真摯な文章ですよね。で 、あの、で、え、田中大輔も、え、実は、 えっと、え、このような手紙を青年たちに 載せています。え、中は、え、皆様の悲願 っていうのはこれ、あの全国大会で、え、 優勝することだったと思うんですけれども 、え、達成させてあげたいという願い、え 、書いた脚本であると。で、 次のページに行きますけれども、えっと、 演劇というのは1人だけ飛び抜けて上手で あってもダメなんだと。沈黙こそ大切だと 。で、そのために遠慮しないでしないで 言おう言い合おうと徹底的に付け合って くださいと。で、あの、なぜそういうこと まで言うかと言うと、え、本当に努力し なければ本当の感動というのは得られない んだよ。で、あの、私の青春時代の感動を 皆様に差しかけたくて、あえてこのような ことを書きましたというお手紙でした。 あの、部活動の 顧問と生徒みたいな感じですね、本当に。 で、あの、私が思ったのは、あの、田中 大輔は、えっと、戦争経験者です。あの、 え、青春がありませんでした。で、田中 大輔たちは、あの、昔話鬼大子の時代に、 え、自分たちの精神を取り戻したんだと私 は思います。で、それを、えっと、この、 え、高度成長の後ですね、え、自分たちの 、ま、姿を民進しないそうになっていた、 え、青年たちにもう一度その演劇という ものを通して、え、その先春ということを 、その青春の、え、その感動と言いますか 、え、人間らしい生き方というものを、え 、あの、体験してもらいたいんだという ことなんだと思うんですね。で、え、そう いう、え、お手紙になります。で、あの、 時間もだんだんなくなってきたので、えっ と、その後、え、この、え、2の、え、 演劇はですね、えっと、燃票の方ちょっと ご覧になっていただきたいんですけれども 、あの、え、1973年に、え、日先生、 え、それから、え、で最優秀、え、それ から74年には羊で優秀賞、え、それから 75年には更新様で、え、あ、すいません 。76年ですね。え、全国大会最優秀賞。 え、77年には磯目橋で、え、全国大会の 優秀 で、え、ま、まさにあの八区の勢いと言い ますか、え、にこの時代を作っていくわけ です。で、ところがですね、えっと、徐々 に天気が訪れてきます。で、それが、え、 その 4番のところからなんですけれども、第 10回の、え、芸能祭あたりからなんです ね。で、あの、当時の土和春団長が、え、 このようなことを書いています。各大会 参加のための連日の練習の練習練習歴史の 重圧、え、地域の若者からそういうとても 大変なんだって青年団てというイメージが だんだん出てきましたっていうことなん ですね。で、それで、え、もう1つ、あの 、次のページに行きますけれども、あの、 えっと、全国大会まで1年間演劇すると ですね、100万円ぐらいかかったんだ そうですが、で、あの、1番の問題は大会 参加費をどう年出するかだったんですね。 で、この、え、父やある団長の時から時の 餌場作りを村と契約をして、え、やること になります。44万 の契約だったそうです。これは大きいです よね。で、あの、え、で、え、ま、そう いう時期を経まして、で、えっと、 で、その52年同じ、え、年にですね、あ 、すいません。これ54年ですね。その、 そのさらに2年後でですね、え、いよいよ あの 演劇活動の見直しということが行われる ようになってきます。で、あの、え、演劇 座い記録が残っておりました。当時の、 えっと、青年たちの非常に生の声を拾う ことができて、あの、感動しながら読んで たんですけども、河川部の方法をご覧に なってください。え、2月2日演劇座、え 、大会目的では私生活に影響すると1週間 に2日ぐらい休みがあったどうかっていう のと、え、それから演劇によって他の活動 が抑えられてないかということ。え、でも 体感に出場する以上は勝ちたいと元のより 物よりもより良いものを追求していたいと 。だけど演劇をやれば大会目的になって しまうでしょ。人はついてこないよ。て いうような、え、こういうその悩みが、え 、交換されます。え、2月9日の演劇座談 会、じゃあ今年の脚本どうしましょうか。 で、過去のことは考えずに新しい方向へ 行こうよと。で、これどういうことかと いうと、田中さんの脚音じゃなくて、うん 、そうじゃなくて、え、自分たちで考えて いかないって話になっていくんですね。だ けど出るからには勝ちたいよねて。で、 新潟の第1任者は田中先生だからやっぱり その作品じゃじゃないと無理なんじゃな いっていう、そういう話になります。で、 あの、だけど、え、先ほどの、え、時の 餌場作りの作業についてです。え、実は あの後でご紹介しますけれども、あの色々 この時の餌作りの作業も色々悩みを抱えて いたわけなんです、実はね。で、それで、 えっと、じゃあその悩みを脚本にしちゃっ たらどうかっていうことで、え、時山工作 っていうのをテーマにしようって話になり ます。で、次のページに行きます。で、 あの、で、結局、えっと、時山工作で出て きたトラブルをもして、えっと、斎藤 佐さんですね、っていう方に脚本を依頼し て考える時という、え、作品を作るんです よ。で、これはあの全国大会とかに もちろん行かないわけですけれども、これ が1つの、え、大きな、え、天気になって いきます。で、あの、それがですね、身を 結んだのが、え、第19回7のところです 。え と、1986年の、え、大会でした。で、 この時にですね、え、なん度、あの、え、 これは第35回の青年大会になるわけです けれども、演劇の部で、え、優秀省を取り ます。で、何が画期的だったかというと、 え、捜索脚本書もらったんですよ。で、 捜査脚本っていうのは、脚本書っていうの は何だったのかというと、田中作品では なくて青年団が作った脚本で、え、優秀省 を獲得し、さらに全国の、えっと、と、 脚本省も、え、取っていくということに なります。で、あの、えっと、この斎藤 さんの考える時を、え、みんなでこう客し て、え、作り上げたということになります 。で、あすはこうです。下の方ですが、え 、青年では毎年6月から7月にかけてる時 の作りを行っていると。え、しかし出て くるは少なくカフレはいつも同じ。え、 そのためにみんな不満だと。で、え、ま、 その時に、えっと、あの、中国から時も来 て、いよいよそのね、え、ま、え、飼育 そして自然包丁に向けた動きが始まってい たと。で、ま、色々あるんですけれども、 最後は時の餌を作り、時が大空に羽たく ことと青年団が悩みながら仲間と共に悩み ながら何かを作っていくって一緒だよねっ ていう、そういう話になっていきます。で 、あの、 で、つまりあの、自分たちの、えっと、 活動の足元を見つめて、そして自分たちの 年団をこれからどうやって作っていこうか ということをに向き合って、え、そして、 え、作った、え、脚音だったわけです。で 、つまりその田中作品ではないんだけれど も、その僕が言わせれば田中作品の精神を 受け継いでやっぱり、え、自分たちで作っ ていった作品なんだと思うんですよね。で 、あの、12ページの方に行きます。あの 、 あ、だいぶ時間があるんですね。 じゃ、最後、え、閉めていきたいと思うん ですが、えっと、すいません。もう時間 過ぎてました。あの 、え、土み子さんっていう方が、えっと、 青年団の研修会でレポートをこう書いてる んです。で、その中で、え、とても、え、 的確な一説があります。え、どういうこと となるのかっていうと、私たちの、え、 二本村青年団の演劇は、え、いわゆる同行 の死が集まるサークルにはない アンバランスな面白さがあるということも ですね。で、そこに、えっと、魅力がある んだと。で、え、どういうことなのかって 言うと、ま、 ここに生活の中からこれですね、生活の中 から、え、演劇という芸術を想像する青年 演劇の本質があると思うんです。つまり、 え、プロの完成度を目指しつつ、え、ま、 え、アンバランスな仲間たちと、え、素人 の集団でしか表現のできない人間的な演劇 を作り出す。そういう力が青年演劇には あるんだということなんだと思うんですよ ね。これはプロでもできないし、それから えっとまな、何て言うのかな、あの、そこ ら辺のただこう一般の、え、脚本を使って それを、え、ただ演じてる劇でもそれは できないだろうという具合に、え、思い ます。で、え、ここに、えっと、2部演劇 の、え、2部年劇の1つの到達線がある だろうと思います。ただしこれがこの後 どうなったのかっていうのはまだそこまで 私は、え、調べることができません。えっ と、おそらく2で、え、その当時変劇やら れた方が知っていることなので、え、私は これから話を聞いていきたいなと思います 。で、最後、えっと、田中大輔が、え、 昭和55年に島という、え、離島、え、 センターが発行している雑誌にですね、え 、佐ヶ島の青年演劇ということについて、 え、追寄せています。え、その中で、え、 大きく3つのことを言ってるんですね。私 は何のために青年劇を作ってきたのか青年 たちで1つは、え、長い人生の中でより 強烈な青春時代の思い出を残したい。だ から、え、参加するからには受賞すること を目標に努力して上位入手をさせたい。 つまり、え、青春の、えっと、強い思い出 を、え、作ってあげたいんだていうことが 1つで、2つ目は青年たちが持っている 思想を問題点として地域に提供して、共に 考え、共に解決する、え、手たに演劇を 利用しようと企んだっていうんですよね。 で、あの、え、で、それをこれを青年たち が理想とする姿にまとめて劇のストーリー に 青年が演じて見せることで住民との対話の 糸口を、え、つけようとしたということ です。あの、ちょっとすいません。時間に なってて申し訳ないんですけども、あの 13から16ページにかけて、え、田中 作品、これ私が、あの、私のが選んだこの 田中作品代表作になるんですけれども、 あの、えっと、黒くゴシックにしてある ところだけこうあの、見ていって欲しいん ですが、取り入れ時きというあの前期の、 え、代表策があるんですけど、これは 根深く残存する方険的な農村社会の嫁面 問題を、ええ、テーマにしています。鬼 大光は、え、法険的な農村で幸せに生きる 委員を尊います。これ、あの、のとこだけ ざっと見ていきますよ。えっと、3番目の は先ほど言いました。え、それから15 ページですけども、年物校の日という作品 がありますが、脳層における遺産を巡る 兄大模様を描いています。え、それから、 え、明豆子という作品ですが、え、これは 農村の高齢者問題を、え、予見的に、え、 描いています。戦い住んで日が暮れては、 えっと、当時農村の最大の娯楽と言われた 、あの、買収選挙の問題を、え、取り上げ ています。え、それから、え、7番目、土 の花嫁って。これ名作だと思うんですが、 夢不足をテーマに、テーマにですね、農業 防化の矛盾と濃の未来を通っています。 それから表という作品はゼみを持ちにして 、え、他平和への、え、思いを、え、作品 にしています。日先生は加疎化を拝見にし た医療と生命の、え、意味と重さを取って います。それから更新様は誤った民間信仰 にきざるを得なかった場とその時代につい て、え、書いています。えっと、私全部 読んだんですけれども、素晴らしいですよ 、本当に。うん。で、あの、是非こういう その田中作品を読む機会というか、そう いう場があってもいいんじゃないかなと私 は本気で思っています。え、最後です。 すいません。おさん1時間過ぎちゃった けど。うん。はい。1分だけ。えっと、 あの、最後です。えっと、じゃあ、え、私 1番最初にこの昭和の青年たち、任法の 青年たちが一体何を、え、問いかけようと したのかっていうことなんですけれども、 あの、やっぱその、え、自分たちの生きる 世界をこれ内山孝志さんの言葉から頂いた んですが、哲学者のあの、自分たちの 生きる世界を自分たちでどう作っていくの かっていうことですよね。で、あの、それ は故郷っていうのは生まれたという意味で は故郷だと思うんですけれども、え、そこ でその自分たちが、え、ま、ある種あの長 であるとこう、故郷に残るっていうのは あるじゃないですか。だけども、えっと、 故郷は僕は、あの、選び直すもんだと思っ ています。僕は残念ながらあの、え、佐藤 故郷で選び直せなかった、え、漂流もに なっていくんですけれども、え、それでも あのサダのことが好きでずっと最後まで えっとこういうことやっていこうかなと 思ってるんですが、サのこと書いていこう と思っていますけれども、あの、えっと もう1回言いますと故郷ドっていうのは 選び直すんだと思うんです。そして2の 演劇年たちは、え、自分たちで演劇を作る ことによって、え、ま、ある種湘南は 仕め付けられたとかありますよね。だけど もそのことによって任村をできることを ですね、選び直したんだと思うんです。で 、それでそのあのローカルアイデンティ ティっていう言葉があります。これはあの 、えっと、地方のらしさ、強み、誇りと いうような意味です。あの、川さんがこな おっしゃってたんですけども、いや、演劇 は誇りだったもんなっていう、そういう ことですよ。だからその、えっと、そう いう、え、仲間と共にそういう世界を自分 たちが、え、作っていけたということが、 え、地域で生きる1番の力になっていく だろうっていう場に思っていて、で、それ は、え、田中大輔が意図したことであった わけです。で、実はハがの、えっと、高橋 慎一さんも同じようなこと言ってんですね 。は、え、ま、あるの島作りのための、ま 、手とまでは言わないですけども、手段で あると1番は、え、島で、え、生活する ものが、え、美的な意識を、え、共にする 、共に作り上げることによって、え、半画 の島で生きる、え、自分自身に誇りを持っ て欲しいんだっていうことを高橋慎さんは おっしゃります。で、だからこの時代 キックもあの戦争経て生きた2人がですね 、えっと、行ってることと同じなんですよ ね。で、え、そこに僕はあの大きな意味が あると思っています。で、それを指導した のが、えっと、対象デモクラシー世代の 先行者だったっていうことも大きな意味が あります。で、あの、やっぱり戦前船中と こう、こう経てきた人達っていうのは田中 大輔もそうだし、高橋慎さんもそうだし、 もう個性が強いというか、寝げないって いうかね、本当にエネルギッシュ種で強い ですよね。いろんなことをお2人とも言わ れてきた方のようですけれども、だけど そこはやっぱりすごいなっていう場合に 思っていて、で、あの、ま、そこら辺を、 え、ま、しっかりと、えっと、メッセージ として僕ら受け取っていった方がいいなっ ていう風に思っています。え、すいません 。あの、 自分でいっぱい資料作ってて、自分で資料 に飲み込まれてて、途中でボロボロに 落としたりして情けないんですけども、 あの、えっと、長時間、あの、ご成聴 ありがとうございました。 どうも中国先生、ありがとうございました 。どうも中地先生ありがとうございました 。もういっぱいの資料でなかなかこの難し というか今日もお話の中で、え、少しずつ こう分かってきたような気がいたします。 え、申し訳ありません。時間あれですので はい。じゃあお願いします。あの感動し ました。ありがとうございました。あの時 のと演劇のが重なくてとっても嬉しかった です。で、私もあの選んで競理に戻ってき たものです。 それで質問はですね、あの女性が どのように関わってきたか、 あの初期のこれはあのどんどん無ちゃったと思うんですが、あるところからあの土屋さんを始め女性の方が関わっているようなんですがどういうように変わってたか はいこの辺多分川上さんあたりからお話しただくて [音楽] 1 番いいかなと思うんですけれども、ま、私があの理解してる範囲でお話しますとあ あの、 そもそもあの、戦後、あの、え、母親が 母親として、え、認められるようになった のは1950年代の半ばぐらいからなん ですよね。それまでは、えっと、女性と いうのは、え、労働力でありまして、家で は、え、母親ですらなかったのです。あの 、子供触ってるのはおばあちゃん、おじい ちゃんの役ですよね。えっと、1番の 働き手だったわけです。あの、女性はです ね。で、ですので、えっと、本当にあの、 え、あの、ま、 進んだ意識というか、強い意識を持ってる 人たちは、ま、その頃からも、え、その 青年段活動の方に入ってくるんでしょう けれども、やはりなかなか夜、夜多いです よね、過さんね。 夜、えっと、演劇の練習に女性が出てくる というのは大変なことで、鏡さん おっしゃってたんですけれども、島まで 送っていたりだとかっていうことを、え、 豆に、え、繰り返しながら、えっと、ま、 親とか地域の、ま、寝台を得ていったって いうようなことをお聞きしています。ま、 そうなんだろうなと思うんです。で、あの 、え、ただ、あの、それで、ま、徐々に あの、えっと、ま、女性の代は増えていっ たんだと思うんで、特にあの、後期ですよ ね。後期になるともうあの、え、変わって きてますので、えっと、その頃になると、 ま、女性のこう、あの、進出も、ま、普通 のことになってきだから、そのさっきの あの演劇座がありましてね、女性が多いん ですよね。発言してるのはそこ記録残るの 。うん。うん。だ、だからその、あの、 こんなもんがね、夜なかなか出るの大変な のにみたいな感じ。ほれで、あの、別の とこで読んだんですけども、1000年 終わったからやっと自分でができるわとか 、あの、女の人なんかはちょっとほっとし たみたいな、ここでもやっぱこう育てに やって戻れるみたいな、そういうことも あったみたいですね。 だからなかなかこうやっぱ現代に通じるような、え、問題も抱えながら、ま、えっとどんどんこう女性がそのセンダーの中にもから入ってきたっていうことなんでしょうかね。 [音楽] 鏡さん、なんかちょっとどうですか?それは今日もまあ一緒にやった仲間の方があるんですが先あの先生にもう必ず女性のところ奥に責任でこの家族でもよく出してくれたんだという風に思いてから私もま本当タウェとターウェの全に入 [音楽] [音楽] もうのはと犬だけというような余裕です。そして 1 番大変だったのは必ず前があると前番飲み替えをそれがちょっと大変だってあるんですけど、ま、それがまあ [音楽] 1 つの仲間作りに繋がっていたんだという風に思います。 [音楽] それと当時の苦労と言いますか、ま、前段としても年間の村だからの助成金はあったんですけど、ま、とてもそれじゃあ足りないということで、え、農京の、ま、え、上司とか、え、役員とかあるいはの関係のそれこそ、え、役の方々から、え、村のやなものとこ [音楽] [音楽] え、毎年給金をま、もらに行くんです。 そうすると、ま、演劇が終わるとすぐ現能 祭もありまして、現もちろんチケットも 売るんですけども、ま、それだけでは、ま 、足りないとことでともかく、え、給金、 給金、給金を集めというのが、ま、大変 なったんですけども、当時のことを出すと の給金もらうのがもう平気にな、平均に なっておりました。 でも、え、会う方からのまだかって言われたことがあります。正直です。 ま、そんなもとちょっと辛い思いもあったんですが、ま、意外とみんな教育していただいて、え、まあ、そんなにことって、え、なん人の役だなということでしてくれたんだなという風に思います。今も思いますと、あの、あの、当時としてはいい時代であったんだろうなという風に、え、思っております。

9月13日に新穂行政サービスセンターで開催された新穂ふるさと講座に参加してきました。今回の講師は知本康悟先生でタイトルは「村を見つめ共に生きる~田中大助と新穂村青年演劇~」でした。昭和30年代の新穂村青年団の演劇活動の様子を熱く語っていました。

4:50 はじめに 
22:48①少し長い序章 
40:43②「理想」の時代~前期新穂村青年演劇~ 
1:08:58③「夢」の時代とその現実~後期新穂村青年演劇~ 
1:38:48④ 田中大助と新穂村青年団演劇からの問い
1:48:29〈講演追伸〉田中大助の作品について

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