【東温市】ストリートビュー未収録の落人の里「水越」への道/東温市道 水越線[等速](2025.9.7)

【東温市】ストリートビュー未収録の落人の里「水越」への道/東温市道 水越線[等速](2025.9.7)

東温(とうおん)市松瀬川(ませかわ)に水越(みずこし)という集落があった。一級河川重信川水系の本谷川の支流・名越谷川に沿って作られた集落である。昭和40年代の航空写真では川に沿うかたちで山腹に20戸以上の家屋が並び、また、その周りには家の集まりの何倍もある段々になった田畑が確認できる。田畑については昭和50年には半分近くが消滅しているが、明らかに耕作されている箇所も残っている。昭和50年末期は残っていた田畑も耕作されていないと分かる。家屋は残っているものの、田畑が放棄されるのと同じ早さで人がいなくなっていると思われる。

市道 水越線が整備されたのは昭和30年になってからのことらしく、この幹線的な道以外はすべて徒歩道のままだった。県道327号 湯谷口川内線の標高285mから市道を1.05km進み、426mまで登った先に集落はあった。

詳細地図:https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1JRJeohLaz4B2uaru7GX3yDdnKqVNU44&usp=sharing

集落の入口の広場にある石碑
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由来碑

 伝説によるとここ水越は落人の里と言われている。南予一本松町土佐の県境にある篠山に城を築いていた篠森左近之丞は土佐の長宗我部の席捲にあい落城一族郎党と共にこの地に落のび住み着いた。時は天正年間のことと伝えられる。後世末裔ら住民は篠森神社を氏神として頭首左近之丞を祀って来た。
 而して安住の地を築いた住民は時代の変遷とともにこの地を後にし平成七年遂に無住の地となる。
 二〇〇〇年を期し後世のために之を記す。

 平成十二年十二月吉祥日
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このほとんどが篠森姓だったといわれる水越集落の最後の住民は篠森神社を守るために残っていたと言われている。

この由来碑について、東温市はなんの紹介もしていない。廃集落の記念碑というのは非常に珍しく、行政が関係していない、この集落の元住民によるものであると思われる。落人としてひっそりと生きてきた先祖の想いを忘れないために作ったのだろう。

☆初走行
撮影機:DJI Osmo Pocket 3
撮影サイズ:4K 30fps
撮影モード:10bit D-Log M
露出:オート(ISO Max1600)
ホワイトバランス:5500k
フィルター:ND4
編集ソフト:DaVinci Resolve Studio

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