【熊本の戦跡を巡る】まだ幼い人吉における海軍予科訓練生たちの日常とは?

【熊本の戦跡を巡る】まだ幼い人吉における海軍予科訓練生たちの日常とは?

最後に何を思ったのでしょう?では一度 モールス信号を聞いてみましょう。こちら がモールス信号となります。まっすぐには 作らず生々しい爆弾の跡が残されています 。海もない凡地に海軍の基地が存在してい たのでしょう。新ジ攻撃で使われた方と 同じ左側にはくぼんだ場所がありますが、 この役割は皆さん14歳ぐらいなので日本 だけではなく海軍基地が置かれていた。 どうも小鉄です。今回は鹿児島県の泉市と 熊本県の西町に訪れ、飛行場の完成から 選挙の悪化に伴い特攻基地へと変わって いった場所で隊員たちはどのようにして 過ごしていたのか80年経った今でも残さ れている戦績を巡りながら解説したいと 思います。特攻隊の歴史についての動画は 元特攻隊の証言と一緒に解説していますの で是非こちらからご覧ください。鹿児島県 の泉市は県の北西部に位置し、鶴のトラ市 として知られ、トライ数と種類の多さは 日本一です。江戸時代にはさ磨班の途上 現在でいう市町村のようなもので脳村で 暮らしながら武士の身分を与えられた豪子 の住宅と陣地を兼ねた武屋敷がたくさん あり、とても栄えた町で泉魚武屋敷は 400年前の街並みが残る武屋敷です。 そんな歴史ある泉市ですが80年前は特攻 基地となっており隊員も出撃していった町 でもあります。ではなぜ泉市に基地が作ら れたのでしょう?1937年昭和12年 日本海軍の軍備計画で泉海軍航空基地の 設置が決まりました。2年後には滑走路や 施設もほぼ整備されている状態になりまし た。1941年昭和16年8月には新案 攻撃のための訓練が行われるようになり ました。それから4ヶ月後の12月8日、 日本軍が新珠案を奇襲攻撃したことで太平 洋戦争が勃発しました。 3年、昭和18年航空隊として泉海外海 外軍航空隊が発足しました。この頃になる と泉の上空では毎日休式中間練習機通称赤 トンボが飛び交っており、空が赤く染まっ ていました。配職が濃厚となってきた。 1944年昭和19年には実践基地となり 、翌年4月には特攻作戦により200人 以上の特攻隊員が飛び立っていきました。 こちらが基地ハ知です。現在ゴルフ場に なっている場所に滑走路があり、斜左に 伸びていました。滑走路の右側に飛行場が ありました。工場の隣には格納庫や整備 工場、宿舎や運動場もありました。こちら が泉市特攻公園です。太平洋戦争末期では 実践基地となり、この地から特攻隊員も 沖縄に飛び立っていきました。終戦から 15年経った1960年昭和35年に泉 海軍航空隊として飛び立っていった特攻 隊員たちを慰め称えるために作られました 。こちらは照者となります。照者とは兵士 が警戒や監視などの任務につく際に詰める 小屋のことです。内部は一部違うと思い ますが、80年前のものがこのように残さ れていることが本当にすごいことだと思い ますね。よく見てみると照者には80年前 の爆弾の配変の後が生々しく残されてい ます。こちらは特攻体出撃の地です。 1944年昭和19年から翌年の沖縄線 までこの地から若い隊員たちが次々と祖国 や愛する人を守るために飛び立っていきの 空に散っていきました。今から80年前な んですよね。こちらは海から引き上げられ た日本軍のプロペラです。こちらは一式 陸上攻撃機のプロペラです。1945年 昭和20年4月26日沖縄に向かって 飛び立った飛行機の一部です。当時 エンジントラブルで海の中に突っ込み乗務 員6人が乗っていましたが全員がなくなり ました。まだ若かった彼らは最後に何を 思ったのでしょう?こちらは陸軍97輸送 機の一部です。こちらの詳しい記録は残っ ていませんが、同じく海から引き上げられ たことでこちらに保管されています。ま、 こうやってね、後ろに、え、プロペラ見え ますけども、80年前はね、ここからも ですね、特行隊員の方たちがね、出撃して たと思うとですね、今はね、信じられない ですけどね、ここだったんだなと思うと ですね、やっぱり実際にね、現地に超えて 来てみるとたくさんのね、方が本当に国の ために戦ったんだなっていうのが本当に 分かりますね。こちらは戦闘式の地下号 です。1944年昭和19年選挙が悪化し てくると施設を地下に作るようになり、 ここに戦闘式が作られるようになりました 。高さは約5mから7mほどで式、通信 施設、電話交換室の3つの部屋がありまし た。通信施設からはモールス信号で戦闘機 に指示を出したり特攻隊員からの最後の 突入の合図を受けていました。特攻隊員が 敵を発見すると発見したという合図の モール信号を送ります。そして突入する までずっとモールス信号を送り続けて音が 消えるまでの時間で体当たりに成功したか 敵に打ち落とされたかを判断していました 。しかしモールツ信号の音が消えたという ことは特攻隊員の命も消えてしまったと いうことです。自分自身で死ぬ合図を送り 続けるこんな残酷なことはありません。で は、1度モールス信号を聞いてみましょう 。こちらがモールス信号となります。 現在戦闘式の入り口は2つですが、当時は 4つの入り口がありました。入り口にも 気重の跡が生々しく残されています。 コンクリートの壁に穴が開くんですから、 人間では生きてられないですよね。中に 入るとすぐ右にも同じく爆弾の破片の跡が 残されています。この付近に爆弾が落ちた ということですよね。コンクリート性でも ありますが、砂や砂利が購入しており、 物資の少ない中での建設だったことが予想 できます。階段を降りると直角に折れてい ます。この理由分かりますか?それは爆弾 を受けても直撃を避けるようにするため まっすぐには作らず直角に作りました。 階段を降りてきましたがこちらは下がれて しまった入り口などです。現在は下がれて しまったので入り口は2つのみだけです。 中に入ってきました。ここはドーム型に なっており、部屋は3つに分けられており 、手前から電話交換室、通信施設、指揮室 でした。この通気コード前に机があり、 先ほどお話しした通信施設ではここから モールス信号で指示や命令を送っていまし た。この通気口の上に電線やケーブル、 アンテナ線が置かれ裏側に流されていまし た。地下号の中には練習機赤トンボの残骸 が残されております。この部品は赤トンボ の垂直美翼の骨格で戦後農家の方が保管し ていたものです。今日もね、めちゃくちゃ 暑いんですけども、やっぱりですね、 すごく涼しいです。めちゃくちゃ汗かいて ますけどね。80年前ですけどね、この 出来事がね、そう思うとね、なんか遠い昔 じゃないなってやっぱ思いますね。こちら は特攻費です。特攻隊員として戦死した 方々の霊を慰め、称えるために混流され ました。裏面には我らに変わり変わりなき 命を何の千ひの底に沈めし若き勇志たちを 安らかく眠れと書かれていますが、こう いう生きて帰ってくることができない作戦 の最前線にはいつも若い人だったと思うと 心が痛みます。こちらは特攻神社です。 戦事中は航空隊の中にありました。泉航空 隊の守護神として混流され、特攻隊員たち はここで手を合わせて出撃していきました 。太平洋戦争が集結すると神社も撤去され 、台座だけを残し木が美いしげって 忘れ去られていました。しかし1990年 、平成2年に家を立てるために綺麗にして いたところ、特攻神社の台座が発見された ことで母金を募り特攻神社として立て直し ました。こちらは特攻隊員像です。経済の 中に立てられた特攻隊員像です。像の下に は南方の彼へと書かれています。神社の 裏側には天皇陛下の写真を隠す避難所も ありました。とても頑丈に作られている ため80年経った今でも残されています。 あの時代それだけ天皇陛下というのは写真 であっても大切にされていたということ ですね。こちらはボイラー室です。泉海軍 航空隊の施設にお湯を配給していた建物 です。平に立てられていた2頭の建物の間 に屋根があり、そこに石炭を貯蔵してい ました。当時はこの壁が平行に立てられて おりましたが、戦後は屋根はなくなり、壁 は立ち切られました。そしてよく見てみる とここにも生々しい爆弾の跡が残されてい ます。この壁以外にも爆弾の破片や基住 操射の跡が多く残されています。ボイラー 室には井戸残されています。しかし井戸は 深かったこともあり、今でも当時のまま 残されています。井戸の中は雑草などで 埋もれており、深さなどを確認することは できませんでした。すごいですよね。爆弾 の破片の後残されておりますけども、 こんなに分厚いコンクリートのね、壁にね 、穴が開くんですから、もう人なんてあっ という間ですよね。こちらは気象観測所 です。初めは通信施設として作られました が、1944年昭和19年空衆が激しく なると気象観測所として風の向きや風の強 さ、湿度を調べる建物に変わりました。 それ以外には敵が来た時に備えるため 見張り台の役割もありました。こちらは エ体です。遠体号は空州から航空機を守る 役割がありました。1944年昭和19年 空衆が激しくなってきた頃にこのエ体号が 作られました。この延体号を作っていたの は軍人、、中学生なので作られてい ました。これは屋根がついているので有害 円号と言い、当時泉基地には15期の有害 円号があり、現在は3期残っています。逆 に土納で囲んで屋根がない号を無外号と いい泉基地には17期ありました。泉基地 から少し離れた場所。こちらは小原山 味噌舐めての日ですが、アメリカ軍が 鹿児島、宮崎に上陸を目指した オリンピック作戦に向けこの付近で練習期 による特攻作戦が経過され、小原山 み噌めての日の近くから山の傾きを利用し て滑走路を作る計画や訓練もされていまし たが、日本は無条件を受け入れたこと で、戦争は集結し、これが実現することはありませんでした。オリンピック作戦についてはもし日本土決戦が起こったらという動画で解説していますので、是非ご覧ください。続きまして、熊本県の西町にやってまいりました。 1945年昭和20年、熊本県の南部の 西町に四方を山に囲まれた凡地の中に 一よし海軍航空隊という海軍の航空隊が ありました。しかし基地は山に囲まれて おり、海から離れた場所にあったことで山 の日本海軍航空隊と呼ばれていました。で はなぜ海もない凡地に海軍の基地が存在し ていたのでしょう?基地が建設された歴史 から日本海軍が山の中に狙って作った4つ の理由を解説します。人吉海軍航空隊の 歴史吉海軍基地は1943年11月海軍 航空隊の中継基地として建設が開始され ました。この頃は選挙が悪化していた頃で もあり、日本の兵力不足を補うため、若い 学生が戦場に送り込まれる学都出人があっ た頃でした。1944年昭和19年2月、 一よ海軍航空隊が発足。飛行機のりを夢見 たよ連の教育施設として始まり、5月には 4日連生たちが入退してきました。先生 たちは山に囲まれたこの場所で後方気象 無線期待整備の基礎を学びました。人吉 航空隊では航空訓練より基礎教育を重点に 置いていました。しかし、選挙の悪化に あり、日本は航空兵を大量に必要とした ため、人吉航空隊でも大幅に訓練が増し 、燃料不足、機材不足が深刻化し、実機に よる飛行訓練がほとんどできず地上訓練 中心となっていました。1945年昭和 20年に入ると空州や選挙の悪化に伴い 教育施設から特攻訓練基地や本土防衛基地 へと変わっていきました。日本の配線と共 に一よ海軍航空隊も解体戦後地の多くは 学校や農地住宅地へと変わっていきました 。ではなぜ司法を山で囲まれた場所に基地 を建設したのでしょう?それは日本海軍が 狙った4つの理由があります。1つ目、 一得の確保。海から遠い内地の凡地は沿岸 方撃や敵の偵察にさらされにくく航空基地 そのものを見つけにくい場所でした。太平 洋マッキー日本は航空戦力の分散得 いわゆる得 飛行場海岸線から離れた内地に飛行場を 天在させる発想が強まりました。2つ目、 滑走路を置きやすく隠しやすい。人よし ぼ地は周囲を山に囲まれた平地のため長く て大きい滑走路の建設に向いており実際に 人吉海軍航空基地は全長約1500m、幅 のコンクリート滑走路を備えた本格基地と して整備されていました。周囲の山は基地 を隠すのにも適していると考えました。3 つ目、内陸でも動ける最低限の輸送路が あった。豊氏は南九州方面とつがる凡地 都市でした。内陸に寄せつつも平員資材を 鉄道で動かせるという広方拠点としての 必要最低限の条件は満たせた点も立致先定 を後押ししたと考えられます。4つ目、 地下要塞との相性がいい。太平洋には弾薬 、魚来、酸素工場、作戦室など多数の地下 施設が掘られました。周囲に穴が掘れる、 山があることは空習回避のための地下を 急ぐ上で有利でした。しかし実際には 1945年昭和20年3月18日と5月 14日に空を受けています。山の中 イコール完全安全ではなく発見されにくい 、狙わりにくいということでした。さらに 山の中の課題もあり水の確保のために川 から要水路などインフラ整備を利用しまし た。そして当時の残された移行を現在でも 保存していただいているのが山の中の海軍 の町西秘密基地ミュージアムです。周辺は 当時の意向が残されています。こちらは 地下魚来調整所です。現存する地下以降の 中では最大規模です。当時入口付近では 施設部隊設営隊という今でいう大工さんが ここで寝泊まりをしながら爪面を隠仕事を していました。しかし、上から砂が落ちて きたり、雨が降ると湿気で髪が ふにゃふにゃになってしまい、作業が進ま ないということで約3ヶ月ほどで別の場所 に移動していきました。細い線は全て人の 手で整えられた鶴橋の堀跡です。地下施設 を進んでいくと一面がコンクリートで追わ れています。なぜコンクリートで覆われて いるかと言うと、当時は地下施設の中で 魚来が調整されていたと考えられています 。なので万が一爆しても周囲の施設に影響 しないようにするためでした。この コンクリートも太平洋戦時のコンクリート となっています。こちらは91式魚来です 。新ジ1攻撃で使われた方と同じ航空魚来 です。案は水深が約12m、なんとか浅い 海でも使える魚来はないかということで 様々な工夫が施されました。そのサたる ものが魚来の後ろについています。この 板状のものとなります。こちらは カマチータと言ってどんな役割があるかと 言いますと、飛行機から魚来を切り離した 時に空中でバランスを保ってくれるように なります。こちらは地下弊車号となります 。高さ2m、幅2mで現存する中で最長の 地下施設です。こちらが当時の弊車です。 内は8本の道に分かれておりました。兵士 の方々が寝泊まりする場所となっており ます。この釘は先日のものですが、当時は 何に使っていたのかと言いますと、電線を かけるための釘でした。掘り方もツハで 掘ったような跡ではなく平っぽい感じに なってるのが分かりますか?その理由は この弊車号の高さや幅が2mでツハを 振り上げることができず平の遠具を使って 掘っていたのではないかと言われています 。当時は右側に2段ベッドがあり、14歳 から15歳ぐらいの少年、およそ100人 ぐらいがここで寝ていました。左側には くぼんだ場所がありますが、この役割は雨 が降った数日後に水が下から沸き出るため 、水を出すための排水がありました。現在 公開されているのは80の2本のみで他は 野生動物保護と岩板が緩くなっている理由 などから立ち入りを制限しています。この 日は雨だったこともあるのか豪内は湿気が すごくて汗が止まりません。上をよく見て みるとたくさんのコウモが飛んでるのが 分かるかなと思います。夜行性のため昼は 暗い場所に潜みかハエなど羽のある昆虫を 好んで食べます。兵士の方が寝泊りしてい たのではないかと言われていますが、寝る には狭いこともあり薬品などを保管してい たのではないかと言われています。こちら が地下作戦室となります。この後内から 作戦の式を発信されていた場所となります 。当時は重要な施設だったので施設の ほとんどがコンクリートで作られ出入り口 も複数あります。丸い穴の役割は汚れた 空気を外に出して新しい空気を取り込む ことでした。四角い穴の役割は無線の ケーブル関係を束ねて外に出していました 。この丸の穴の奥にもう1つ土管があり ますが、当時はここから青空を見えてい ました。ただ現在はそれを確認することは できません。これがもう1つの出入り口 です。現在は安全面の関係から塞がれ、奥 には行けませんが、明るい光も見えている のが確認できるかと思います。こちらは 作戦室となります。こちらには机と椅子 しかありませんでした。戦後はここにあっ た種類は全て燃やして処分しました。 こちらは飛行様水路です。水質が綺麗な川 として選ばれている川辺川の三を当時の 少年兵たちがこちらを掘って基地までつげ ました。なのでこれは戦治中掘られた様子 路です。多い時には6000人の隊員と 近隣の住民もいましたので水は非常に重要 なものでした。こちらは小雨湯油です。 太平洋戦争末期になると選挙の悪で入手 困難になった航空燃料の大外燃料として 製造していた作業所跡です。皆さん14歳 ぐらいなのでまだ届けない姿ですよね。 大人用のクアが10代の少年たちの体には 合わなかったので彼らのクアを作って掘っ ていました。そして掘った松の根こを みんなで引っ張っていきました。当時は ヤグもありました。最初は火薬を使って 爆破させていましたが、なかなか細かく ならないので、大きなまさかりをドーンと 落として細かくなったところをさらに皆 さん斧を振って小さくしていました。掘っ て蒸して遅れをスローガンにやっていまし たが実際には380kmの末から5L ぐらいしか取れなかったのが現実でした。 はい。行ってきました。この後ろがですね 、地下がね、あった場所なんですけども、 狭いのにあの中に何百人っていう方が いらっしゃった当時、ま、息するだけでも すごい大変だなっていうのをやっぱりこう 実際に行ってみるとすごく感じましたね。 こんなところにね基地があった。そしてあ 、その中にもね、皆さん手でね防具を作っ てたと思うのがね、本当にすごいと思い ました。こちらは3式中間練習機です。 1934年昭和9年の正式採用後、海軍 航空隊のほとんど全てに配備されました。 目立つオレンジ色から赤トンボの相性で 親しまれていました。日本だけではなく 海軍基地が置かれていた台湾や インドネシアでも見られました。上員は2 名で前に練習生で後方に先生が乗り訓練を 行っていました。1945年昭和20年5 月には特攻機として台湾から合計11機が 出撃し、アメリカの鑑定に突入したという 記録が残っています。そもそも3式の3と は何の数字かご存知でしょうか?海軍は 昭和に入ってから飛行機の名前をつける時 に初代天皇天皇の即意期限を基準とする 後期を用いるように後期年合を下2桁 プラス式プラス機種名というようにしまし た。式が正式採用されたのは後期2593 年です。この下2桁が93なので3式と いう感じにつけられました。なのであなた も1度は聞いたことがある霊式感情戦闘機 通称0または冷戦後期2600年に採用さ れたことで霊式と用いられました。この ようにね、後ろにこう赤トンボあります けども、これ今80年前ぐらいですね、 こう熊本のね、この上空をたくさん若い方 が飛んでたと思うとですね。で、そこから 皆さん特攻隊にね、行かれたりされてると 思うと、やっぱりすごい今のすごい平容 あって本当にすごいと思いますし、本当に 感謝ですね。彼らは特攻単位の一員となり 、一吉海軍航空基地で明彩職を施した 赤トンボに乗り特攻訓練を行いました。3 月に空習を受けると香川県で突入訓練を 行い、7月には鹿児島で出撃待機となり8 月10日に出撃30分待機の命令を受ける も天候が悪かったため出撃は中止。その まま終戦を迎え8月18日に解散しました 。いかがだったでしょうか?今回は特攻 関連でしたが80年も経過するとその おかげもないように変わっているものも あれば逆に今でも変わらず保存して いただいてるものもあるので80年前は 本当に戦争していたんだよなと考えさせ られます。もし特攻や戦争で思うことが あれば是非コメントで教えてください。 引き続き残されている線づきを巡りながら 命や平和の大切さを伝えていきます。ご 視聴ありがとうございました。

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2 Comments

  1. 早く見れました。
    毎回動画を見ていますが、現地に行って実物を動画に載せていただくのはとてもありがたいです。
    わかりやすい説明もありがとうございます。

  2. 味噌舐めての碑は 戦争とは関係ないと思う。明治の開墾の碑だと思うけどなぁ。記憶があいまいで申し訳ないですが😅

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