#42#【廃村巡り】西都市寒川ダム跡地付近を散策してみた🚙人の手が入ってない本物の自然に癒されました。そして寒川集落の歴史を学び、人生の先輩たちの凄さを肌で実感しました☺
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寒川(さむかわ、さぶかわ)は、宮崎県西都市の大字で、山間部にあった集落である。1989年3月に最後の住民が離村し廃村となった。2007年には限界集落をテーマとしたドキュメンタリー映画「寒川」が製作されている。
地理
西都市役所から西に約23キロメートル、標高は約350メートル、三財川北岸の山の中腹に位置する。集落としての規模は東西、南北いずれも約500メートル[1]。麓からは川沿いに道路(県道319号線)が唯一繋がるのみであった。1878年には42世帯215人、1965年には50世帯211人が居住していたが、最末期の1989年2月には6世帯13人にまで激減し、平均年齢も70歳を超えた「限界集落」の状態であった。
集落としては1989年に廃村となったが、西都市の住所(大字)としては現存しており、平成22年国勢調査(2010年10月1日現在)やそれ以前の国勢調査において「大字寒川」に1世帯2人の居住がそれぞれ記録されていた[2][注釈 2]。なお、平成27年国勢調査(2015年)以降の「大字寒川」は0世帯0人と記録されている。
産業
寒川の基幹産業は林業であった。最末期にはシイタケの栽培が中心で、実態としては年金や親族の仕送りに頼らざるをえない状況であった。
歴史
寒川天神社は慶長2年(1597年)創建と伝えられ[3]、遅くともこの時期までに集落が形成されていたことがうかがえる。江戸時代には寒川村は肥後国球磨郡にある「米良荘」の1か村、寒川谷村(さぶかわだに)とされた。
1889年5月の町村制実施の際には児湯郡三財村の一部となった。米良荘の他村が西米良村・東米良村を構成する中での唯一の例外である。三財村は1962年4月1日、東米良村とともに西都市へ編入された。
宮崎県初の集団離村
畳が上げられた状態の廃屋
1960年代以降、基幹産業であった林業・農業は壊滅的状況に陥り、1978年には寒川小・中学校が閉校した。自家用車を持つのは6世帯中2世帯のみで、日常の買い物や通院にも支障をきたしていた。その上、2キロメートル先にある水源や、集落と県道を結ぶ道路の管理もままならないなど、集落を維持することが著しく困難となった。
1986年11月24日に、寒川集落の住民5人が市側に集団移転の陳情書を提出した。これを受けて市側は寒川の麓にあたる「福王寺」地区を移転先に決定し、市営住宅を建設した。そして1989年3月に最後の住民6世帯13人が集団離村し、寒川の400年に及ぶ歴史に幕を下ろした。市側は移転の条件として、「かまどの破壊、畳を上げること」、すなわち、再び居住することが出来ない状態にすることを住民に求めたという。
2023年時点では往時の家屋の大半が朽ち果て数軒を残すのみの状態となっており、寒川小・中学校校舎も2022年以降に玄関付近の一部を残し半倒壊の状態となった。また、2022年12月には集団移転者13人の最後の生存者が95歳で死去している。
ゆかりのある人物
米良美一 – 西都市出身のカウンターテナー歌手。母親が寒川出身で、幼少期に寒川神楽の鑑賞経験がある。
#walking #miyazaki #散歩 #ドライブ #宮崎県 #西都市 #寒川#限界集落#歴史#米良美一 #地理#廃村#移住
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映画「寒川」の案内より引用記載
私は、村を捨てた。
通い慣れた小学校の砂利道も石段も、捨てた。
栗を拾い、柿を取り、きのこ狩りをし、風呂や、
ご飯を炊く薪を拾う、里山を捨てた。
隣の人たちが、村を出る。
もうすぐ宿もなくなるという。
小さい居酒屋もあったが、なくなるという。
神楽の舞いがある秋には、町から見物人が泊まる宿もつぶれた。
村の子どもたちの学校は、やがて廃校になるという。
子どもを持つ家庭は、やむなく町に出るという。
「どげんしても、この土地を、離れんとよ。」
私は、そのとき、村を出なかった。
ある年、台風の災害で、町と村を繋ぐ道路が壊れて、
車が通れなくなった。
村の特産物のひとつであった
「お茶や炭」が運び出せなくなった。
町まで買い物に行くには、
往復20キロ5時間も掛かり、
一日の辛い仕事になった。
村を訪ねて来る人は、
一週間に一人くらいの、寂しい村になった。
心あるマスコミの人々が、
この村の消えゆく悲しさを、訴えてくれた。
しかし、道路は良くはならなかった。
1年もすると、その人たちも来なくなった。
私は、夫と二人、
愛するこの村を出ようとは思わなかった。
村に昭和53年の春が来た。
以前の噂どおり、村の小中学校は廃校になった。
日本中が、
戦後最大の「バブル景気」に向かって走り出した。
それから日本中の人々は15年、
過疎の村、非効率の村、年寄りの村を願みなくなった。
村のあちこちは、蔦の絡まった荒れ果てた家と、
静けさだけが残された。
ある日になって、
私が生まれ、育ち、仕事をし、結婚をし、
子どもたちを育てたこの村を捨てようと思った。
夫と一緒にハンマーと金槌で、
70年以上も食事を作り続けてきた流しを、
何度も何度も叩いた。
二度と使えることがないように・・・。
1時間近くも、夫と泣きながら叩き続けた。
ふるさとを捨てるということが、
こんなにも悲しいことだとは想像もしなかった。
少しの便利さと、少しの憧れで
ふるさとを捨てた自分が一層愚かに見えるから。
ふるさとの思い出も決して語りたくない。
あの村には
「必要な分だけ山を切り開き、家を建て、
必要な分だけ山の幸を採り、
必要な分だけ田畑を耕し、
必要な日だけ町まで買い出しに出る」
という生活が見えるという。
私が本当は大切にしていたものなのに・・・。
今日、息子と娘たちに手紙を書こう。
「故郷は生きている」と。
8月に、こんなお婆さんでも、
一緒に村に連れて行ってくれますか?
茶畑のある寒川で、ため池の鯉に会えますか?
2006年6月10日 90歳
外は雨
気まぐれお散歩「のぶ」さんチャンネル
「寒川渓谷散策」
👇️👇️👇️👇️👇️👇️
2 Comments
寒川(さむかわ、さぶかわ)は、宮崎県西都市の大字で、山間部にあった集落である。1989年3月に最後の住民が離村し廃村となった。2007年には限界集落をテーマとしたドキュメンタリー映画「寒川」が製作されている。
地理
西都市役所から西に約23キロメートル、標高は約350メートル、三財川北岸の山の中腹に位置する。集落としての規模は東西、南北いずれも約500メートル[1]。麓からは川沿いに道路(県道319号線)が唯一繋がるのみであった。1878年には42世帯215人、1965年には50世帯211人が居住していたが、最末期の1989年2月には6世帯13人にまで激減し、平均年齢も70歳を超えた「限界集落」の状態であった。
集落としては1989年に廃村となったが、西都市の住所(大字)としては現存しており、平成22年国勢調査(2010年10月1日現在)やそれ以前の国勢調査において「大字寒川」に1世帯2人の居住がそれぞれ記録されていた[2][注釈 2]。なお、平成27年国勢調査(2015年)以降の「大字寒川」は0世帯0人と記録されている。
産業
寒川の基幹産業は林業であった。最末期にはシイタケの栽培が中心で、実態としては年金や親族の仕送りに頼らざるをえない状況であった。
歴史
寒川天神社は慶長2年(1597年)創建と伝えられ[3]、遅くともこの時期までに集落が形成されていたことがうかがえる。江戸時代には寒川村は肥後国球磨郡にある「米良荘」の1か村、寒川谷村(さぶかわだに)とされた。
1889年5月の町村制実施の際には児湯郡三財村の一部となった。米良荘の他村が西米良村・東米良村を構成する中での唯一の例外である。三財村は1962年4月1日、東米良村とともに西都市へ編入された。
宮崎県初の集団離村
畳が上げられた状態の廃屋
1960年代以降、基幹産業であった林業・農業は壊滅的状況に陥り、1978年には寒川小・中学校が閉校した。自家用車を持つのは6世帯中2世帯のみで、日常の買い物や通院にも支障をきたしていた。その上、2キロメートル先にある水源や、集落と県道を結ぶ道路の管理もままならないなど、集落を維持することが著しく困難となった。
1986年11月24日に、寒川集落の住民5人が市側に集団移転の陳情書を提出した。これを受けて市側は寒川の麓にあたる「福王寺」地区を移転先に決定し、市営住宅を建設した。そして1989年3月に最後の住民6世帯13人が集団離村し、寒川の400年に及ぶ歴史に幕を下ろした。市側は移転の条件として、「かまどの破壊、畳を上げること」、すなわち、再び居住することが出来ない状態にすることを住民に求めたという。
2023年時点では往時の家屋の大半が朽ち果て数軒を残すのみの状態となっており、寒川小・中学校校舎も2022年以降に玄関付近の一部を残し半倒壊の状態となった。また、2022年12月には集団移転者13人の最後の生存者が95歳で死去している。
ゆかりのある人物
米良美一 – 西都市出身のカウンターテナー歌手。母親が寒川出身で、幼少期に寒川神楽の鑑賞経験がある。
#walking #miyazaki #散歩 #ドライブ #宮崎県 #西都市 #寒川#限界集落#歴史#米良美一 #地理#廃村#移住
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映画「寒川」の案内より引用記載
私は、村を捨てた。
通い慣れた小学校の砂利道も石段も、捨てた。
栗を拾い、柿を取り、きのこ狩りをし、風呂や、
ご飯を炊く薪を拾う、里山を捨てた。
隣の人たちが、村を出る。
もうすぐ宿もなくなるという。
小さい居酒屋もあったが、なくなるという。
神楽の舞いがある秋には、町から見物人が泊まる宿もつぶれた。
村の子どもたちの学校は、やがて廃校になるという。
子どもを持つ家庭は、やむなく町に出るという。
「どげんしても、この土地を、離れんとよ。」
私は、そのとき、村を出なかった。
ある年、台風の災害で、町と村を繋ぐ道路が壊れて、
車が通れなくなった。
村の特産物のひとつであった
「お茶や炭」が運び出せなくなった。
町まで買い物に行くには、
往復20キロ5時間も掛かり、
一日の辛い仕事になった。
村を訪ねて来る人は、
一週間に一人くらいの、寂しい村になった。
心あるマスコミの人々が、
この村の消えゆく悲しさを、訴えてくれた。
しかし、道路は良くはならなかった。
1年もすると、その人たちも来なくなった。
私は、夫と二人、
愛するこの村を出ようとは思わなかった。
村に昭和53年の春が来た。
以前の噂どおり、村の小中学校は廃校になった。
日本中が、
戦後最大の「バブル景気」に向かって走り出した。
それから日本中の人々は15年、
過疎の村、非効率の村、年寄りの村を願みなくなった。
村のあちこちは、蔦の絡まった荒れ果てた家と、
静けさだけが残された。
ある日になって、
私が生まれ、育ち、仕事をし、結婚をし、
子どもたちを育てたこの村を捨てようと思った。
夫と一緒にハンマーと金槌で、
70年以上も食事を作り続けてきた流しを、
何度も何度も叩いた。
二度と使えることがないように・・・。
1時間近くも、夫と泣きながら叩き続けた。
ふるさとを捨てるということが、
こんなにも悲しいことだとは想像もしなかった。
少しの便利さと、少しの憧れで
ふるさとを捨てた自分が一層愚かに見えるから。
ふるさとの思い出も決して語りたくない。
あの村には
「必要な分だけ山を切り開き、家を建て、
必要な分だけ山の幸を採り、
必要な分だけ田畑を耕し、
必要な日だけ町まで買い出しに出る」
という生活が見えるという。
私が本当は大切にしていたものなのに・・・。
今日、息子と娘たちに手紙を書こう。
「故郷は生きている」と。
8月に、こんなお婆さんでも、
一緒に村に連れて行ってくれますか?
茶畑のある寒川で、ため池の鯉に会えますか?
2006年6月10日 90歳
外は雨
おはようございます。小学校は残念ながらほとんど壊れてしまいました。僕の動画で姿を観る事が出来ます。2年前の訪問の時だったと思います。