秘境集落歩古丹/ポコタンではない
皆さんこんばんは。つです。今回は マシケ町の歩みこた集落に行っています。 歩みこたは真け町にかつて存在した集落で 町内別海の集落から西雨 と日崎の感度を海岸に暮らしました。人材 は国道231号が開通しておりますが、 集落は崖下にあり、到達は容易ではあり ません。その方が楽しいので行ってみ ましょう。国道231号の日方ド前 トンネルを抜けますと2つのみ先に出ます 。 [音楽] 右の明位は増家ちょうど増家三道線国道の 球道であり季節限定で解放されます。間も なくして左手に駐車できるスペースがある ので車を折ります。 [音楽] 今からこの下に向かいます。 何か建物が見えます。あれは小学校の音 です。 [音楽] 北道の日方止まいトネルが見えてきました 。その横には球道が見えます。あ、コ端 トンネル。手前の橋は適去されています。 国道の橋の脇から返して向かいます。常に お気づくかもしれませんが、この撮影は 以前やった球東の動画と一緒に行ったので 途中まで内容がしております。着を稼ぐ ためじゃ初めてご覧になる方にも分かり やすいように崖下までの位乗りをお見せし ます。 こちらが球道のアみコタントンネルになり ます。で、トンネルの横にある平場を開い ていきまして、ここで平場が途切れるので 斜面をずるずると歩いていきます。 [音楽] 先なので全然楽なんですが、言うまでも なく夏場やで大変でしょうね。下の方が 平場になっているのであそこまで降ります 。 球道に行くにはあっちですが、私は主な 方向へと進みます。 枯れた板取りが目に刺さったりしそうで 油断できませんとはいえなんとなく道 っぽくなっているのがありがたい小物が 歩いているからでしょう。アミコはアワビ をいつも取るところを見にするが言われた ます。松浦しの西蔵日記ではIBコ端まで 登場し、当時からバインなどがあり、夏 から秋に暮れて愛の人々がパービーを取る 場所でした。明治以降は西料で栄え、学校 も開行。しかし集落は交通不便で主な手段 は海ましからお風館を往来する定期戦の経 でした。定期線も不印になるとほとんどし そうなると江戸試合からの3度を使うしか なくなるのですが配道に等しい状態で6に 通るものではなかったようです。昭和41 年時点では長世体が居流しており、アービ の他にウニや油子、ソイなどの法量の地 でした。国道231号の建設がQピッチで 行われていたその頃は国道開通後の新しい 観光士として注目されており数ホステルの 建設計画もあったようですが南光寺のため に道路はなかなか開通せずっカリ アヌコ弾間の三道が開通したのは昭和48 年そのコ路には集落は水体一重観光地下も 実現はしませんでした。昭和49年の とある資料ではその当時すでに低住者は なく道路建設の関係者と季節的な事業者が わずかに滞在するのみも昭和46年に並行 しています。 さて海岸が途れて沢が流れております。 これはさっき国道の橋の下を流れていた やつか。 ま、気をつけながら超えていきましょう。 つまんないところで気がしたくないし。 気のせいか道があったような雰囲気がある ような内容な道路建設の関係者が滞在して いた事件もあるようなので工事現場と おらいする道筋があったのかもしれない。 さてからはゴロゴロした浜歩きです。嫌だ な。足首が痛くなりそう。 あみ子タ集落は東方の映画ジャコマント鉄 のロしとして使われたそうです。北海道の 女村部隊に出稼ぎ医療の吸ったものが描る 内容であるようですが、この映画私は昔 からタイトルだけは知っていてというのも 私はゴジアのテーマなので知られる作曲家 のイ福部秋の不安で死がこの映画の音楽を 担当しており所有しているCDに曲が入っ ております。日本海の荒波みと漁師たちの 気象を表すような豪快な曲でした。有名な ゴジアのテーマはゴジアの第1作では防衛 隊が活躍する際に流れた曲でいわば人間側 のテーマ曲でした。ちなみにあの印象的な フレーズは自福市のバイオリンと還元学の ための競争風調子局が諸出で唐突に会う テーマが出てきて驚きます。ちなみに私が イの曲で1番好きなのはサンダガイラの 作戦待ちで時点でゴジアvスデストロイア で使われたX3のテーマです。って言って も分からんよな。ゴジラ映画の曲で言えば 杉山高一師によるゴジラVビュランテの スクランブルマッチも好きです。あの映画 は日本のバブリーな頃の雰囲気も感じられ てノスタルジーを刺されるんだよな。 さて、もう1つ差を渡ったところで、これ は住居の後ではないか。分かりにくいです が石明が詰まれて平場が形成されています 。 あ、向こうに建物が見える。どうやらあれ が国道から見えたあみ子小学校です。 これが学校への道か。 これは何の後だろうか。 幸いにして板取りは潰れているんだが、 おい、おい、道は放落している。 うわ、横から迂すなんてお前も天になった もんだな。というか放落の先も道が めちゃらくちゃだ。仕方ないから通学から 外れよう。人生には道から外れる時もある もさ。あ、そうですか。 はい。このように学校が残っています。と 言ってもこれはもう過労して建物の形状を なしてるようなもんだな。ま、今更言い ますけど、私は4年前にもここ訪れており まして、その時よりも明らかに口ており ます。学校だったと言われても分からない くらいですが、それでも見ていけば教室 だった雰囲気が感じられます。 コタ小学校は明治25年開。PX時の データが分かりませんが、昭和34年時点 での自動数は10名1クラスのみ教員は1 名でした。 [音楽] 学校出たらすぐ明け下に海というのも すごい景色です。ここに帰った子供たちに は当たり前の景色やったでしょうけど。 こいつはブランコだったんだろうか。 ジャングルジムよりジャングルしておるわ 。 上手にはトイレ、そして煙突がありました 。 こりゃ古いおもちゃだな。国道から捨てた もだろうか。 ここにも何か残っている。エントスと建物 の基礎か。学校との位置関係からすると 教員住宅だろうか。ここに不入してきた 先生は大変だったでしょうね。私ならまず 普段の暮らしでギグアップしそう。 学校の裏手さらに奥にも何かがあったで あろう広場コンクリートの一部が残ってい ます。このような場所に建物を建てるのも 相当なものです。船で資材を運んだん でしょうが大きな船つ場があるわけでも なく小舟で地道にやったのだろうか。 [音楽] 坂瓶は初期が転がっている。これは集落の 人々が使ったものでしょう。祖父母の家に あったものなんかを思い出します。この 地方は各地で異様が取れたそうで、崇タで も1950年代に採掘の試みがえました。 ただ詳しい経緯は踏めながら祝で終わった ようです。国道開通以前で輸送の問題も あったんだろうと思いますが、もし工業が 発展していれば運命が変わっていたのかも しれない。ちなみにその異光と思われる レ外校も以前撮影したことがありました。 また学校跡よりももっと東側にも石垣とか 電中の跡がありました。 これ明らかに石が残っていますね。その 傍原には電柱らしき跡が転がっている。 こっちは町屋駅の外でしょうか。向こうに も何かありますね。おお、これも明らかな 石が組まれているバ屋でもあったん でしょうか。 バイヤー島らしく近くに階段の跡があり、 登っていくとここにも中級跡がありました 。 ん、なんだこれは?もしかして椅子だろう か?ちょっと失礼して ここに座ってこの景色を見ていたん でしょうね。きっと めんどくさいんで斜面を登って国道に戻る ことにしましょう。に大したことありませ ん。そういえば集落と崖上とをつなぐ水道 があったらしいです。道路工事などにより 今後方もないようですが残っていたら大変 移行だったことでしょう。無事国道に戻っ てこれました。こんなところでしょう。 ということで今回は町にある 集落の後に行ってみました。最大の移行で ある学校ともあと何年見られるんだろうか 。この動画が1つの記憶になればと思い ます。では以上です。ありがとうござい ました。 [音楽]
今回は増毛町にかつて存在した歩古丹集落跡に行きます。
X(旧ツイッター)
BGM、効果音素材
DOVA-SYNDROME 様
https://dova-s.jp/
PANICPUMPKIN 様
http://pansound.com/panicpumpkin/
MusMus 様
https://musmus.main.jp/
甘茶の音楽工房 様
https://amachamusic.chagasi.com/
36 Comments
廃墟もその歴史的背景とともに紹介していただくとその重みを感じます。北海道もまだまだ知らないことが
いっぱいです。虫が苦手な私は絶対いけない場所をいつも見せてもらっているのでありがとうございます。
伊福部昭と言えばむかし、HBCラジオの深夜から明け方に流れてた「ウポポ」を思い出す😮
子ども心に何かコワイ思いがありました。
ぽこたんしよ
ポコタン小学校楽しみにしていました。廃ですねぇ~♪
ここまでは探索に行けないと思いますが、増毛山道線はいつか走りたいと思ってます。
早く行かないと、山道あるあるの永遠に冬季通行止状態になっちゃうんじゃないかと心配しています。
赴任された先生も大変だったろうな
こんな所にも生徒がいる限り学校を作った日本国の教育システムが今日の日本を作り上げた基礎なのです。日本が世界に誇っても良い僻地教育システムだと思います。感謝
ゾヌさんここらへんの廃道とか好きやん
( ゚∀゚)o彡ポコタン!!ポコタン!!
Good morning 🌄 have a good day❤
さすが4本足の犬だ!? 崖登りも朝飯前ですな。
かつて増毛のYHでのんびりしていたことがあり、大別刈までは歩いて行きました(まだ雄冬に行く道路が無かった時代です)。
歩古丹にYHがあったら、当時交通の不便なところに点在していた、一部に人気の "キ〇ガイユース " の仲間入りをする要素が満点でしたね。
最後の住人方はどんな気持ちで後にしたのでしょうか
ここで一生懸命働き、色々と悩み、喜びもあったこの地で、大袈裟ですが自分なら涙が出てきそうです。
お疲れ様です
ぽこたんじゃないんかい! って思ってからもう4年も経ったんやなぁ
うちの中学校の校歌、伊福部昭の作曲でした
当時は軍歌みたいで中学校に似つかわしくないなーとか思ってました
ゾヌ様 動画の配信、有難うござます。遠く大阪から拝見しております。
昭和48年(1973年)2月、冬季の北海道旅行の際、増毛から雄冬まで連絡船(雄冬丸200トン程度)に乗船しました。往路、雄冬丸は、歩古丹の集落に立ち寄り、一人二人の乗船客を降ろして雄冬港に向かいました。すると、その当時は連絡船の乗船場所があったのですね。
なお、連絡船が欠航のため、雄冬の集落に1週間閉じ込められましたことなど、1か月以上にわたる旅行の中で忘れられない思い出です。
人がいた痕跡があること自体凄いですね。😮
こんにちは、何時も有難うございます😊
10月から数年間、北海道に住むことになりました😂
さすがにゾヌさんみたいに本格的な廃道、廃村探索は無理なので、滞在する予定の近所の国鉄の廃線跡を探索したいと思ってます😊
ポコたんインしたお!
当時赴任していた先生はどんな生活してたんでしょうね。結婚してたんだろうか。漁師の子供達は腕白ぞろいだろうし(偏見)寂しくはない生活だったとは思いますが。ところどこに見える春の新緑がなんともありがたいですね。
最後の椅子から見える風景がなんとも。
よくぞここまでニッチな場所に行ってくれたと思います。なかなか動画でも見たことがありません
北海道では、2年目くらいの新人の先生は焼尻などの島や、生徒数が少ない学校に行かされるとか、知り合った先生が焼尻に赴任して校長と自分しかいなかったそうです。校長と一緒に雑務などいろいろやったそうです。
お疲れ様です。
古地図を見ると例の謎の隧道は昔の山道だったかもしれません(位置的に合致してる)
映画から伊福部昭氏の話になり、更にすぎやまこういち氏の話にまで及び「おいおいまだ続けるか」と思わず突っ込んでしまった。最後は哀愁漂う感じに纏っていたので安心。(
同じコタンでも、昨年のことでイメージが悪くなってしまい残念なカムイコタンですが、綺麗なところですのでゾヌさんにレポートを厚かましくもお願い申し上げます。
走古丹は有名だけど、歩古丹もあるのか
、、、じゃなかった、と
慌てて訂正してるの笑ってしまいました(笑)
ポコタン読みだったら全国的に【めんこいキャラクターみたいな街の名前】って有名になってたのかなぁ(笑)
ぶっちゃけ日本は硫黄は自給出来るのだが、
原油の脱硫で賄えてしまうので衰退してしまったのでしょうね。
増毛、あと正直留萌も、行こうと思わなければまず行かないんだよな。北に向かうのも風が強くて何も無いオロロンラインよりも12号線で。
それはもう明治生まれの祖父ですら言ってたくらいで、祖父曰く当時から「漁師しかいねぇよ」とw
お待ちしておりました‼️よろしくお願いします
何度見ても急斜面のアプローチは凄いです👍
海岸に面した小学校跡地、集落跡地も何とも言えない哀愁を感じます✨
いつも楽しく拝見しています。今回の歩古丹小学校はニシン番屋跡地に'65年5月に新築されたようなのですが数年で閉校になってしまったのですね。地区の電化は'64年からだそうです。
釣れそう🦈
椅子らしき所から眺めた景色は素敵でした😊
いつも楽しい動画をありがとうございます。
生まれて初めて行った映画館で見たのが「サンダ対ガイラ」でした。
大学時代に師事していた先生の師匠が伊福部昭でした。まさかゾヌさんの動画で話題になるとは!😮
私の出身中学校の校歌の作曲が伊福部氏でした。何の縁があったかのか当時も今もよく分かりません。
いやぁ…感動です。
何十年も前から、国道からあのオーシャンブルーを眺め、この下はどうなっているのだろう…と、国道を通る度、気になっていましたが、車を停めたとて、歩くには人目が憚れ、崖を降りるのも命を捨てるようなものに近いだろうと、残念な気持ちでいました。
驚きました…まさか、あの場所に興味を持っている方がいらっしゃるは…。
想像すらすることのかなった歴史を知ることができ、感動と、感謝です。
約100年前の建築物がここまで残ってるのも凄い。海沿いだから劣化も激しいでしょうに
ホコタンだと思ってました、反省😅