(リメイク編)伊賀多氣神社 / 五十猛命 (2020-10-31)

(リメイク編)伊賀多氣神社 / 五十猛命 (2020-10-31)

奥出雲町横田の伊賀多氣神社(いがたけ神社)のリメイク編です。スライド写真を追加編集しました。伊賀多氣神社(いがたけ神社)は出雲国風土記の「伊我多気の社(いがたけのやしろ)」と案内標識には書かれております。この伊賀多氣神社は、出雲の国風土記(733年)に「伊我多氣神社」として登場し神祗官社(中央の神祗官の神名帳に登録された社)として記載されているもので、当時は神祗令によって定められた祭祀を行う延喜式内社であった。このような延喜式内社は仁多郡内には三沢の三沢社があっただけで、この他に当時8社あったが、いずれも出雲の国庁の神名帳に登録されるのみで官社に準じて祭祀を行う社であった。

著書「出雲國風土記所載神社399社」によれば「伊我多気社」は仁多郡奥出雲町大呂の鬼神神社(おにがみ神社)であると書かれてます。詳しい経緯と関係はよくわかりませんが鬼神神社は伊賀多氣神社の比定社(後裔)かもしれません。

主祭神 : 五十猛命
配祀 : 素盞鳴尊 大己貴命

仁多郡奥出雲町横田1278
https://maps.app.goo.gl/DfwAaUvr2tG7nHZP8

伊賀多氣神社の情報
http://engishiki.org/izumo/bun/imo430801-01.html
https://www.shimane-jinjacho.or.jp/okuizumo/0f1bfdf0be5f35e3ee9f2d70db6c274d9c9ce9a4.html
http://kamnavi.jp/it/izumo/igatake.htm
https://xn--u9jta474uoyc71cky0m6xj.jp/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC/entry39.html

この伊賀多氣神社は、出雲の国風土記(733年)に「伊我多氣神社」として登場し神祗官社(中央の神祗官の神名帳に登録された社)として記載されているもので、当時は神祗令によって定められた祭祀を行う延喜式内社であった。このような延喜式内社は仁多郡内には三沢の三沢社があっただけで、この他に当時8社あったが、いずれも出雲の国庁の神名帳に登録されるのみで官社に準じて祭祀を行う社であった。

伊賀多気神社略記
伊賀多氣神社は、垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式内の古社にして、出雲風土記に神祇官社・延喜之制・小社とせられている。御鎮座地は古代横田庄と云い仙洞院御料地であった。然し乍ら戦國時代の戦火に罹り御社殿・社家共に炎上し古資料を失ったことは誠に残念てある。御主祭神は、素盞鳴尊の御子神五十猛命である。相殿として素盞鳴尊大己貴命を合せ一祀っている。父神素盞鳴尊が姉神天照皇大神のおいかりにふれられ、高天原を逐はれ朝鮮の新羅國曽尸茂梨の地に降られた時、父神と共に降られ父神をたすけられた。後に父神が本土へお帰りの折お供をし五十猛(大田市)の浦へ着かれた。その時命は曽尸茂梨より樹木の種子をお特ち帰りになった。父神と共に簸乃川上にのぼられ、稲田の里にて稲田の地頭・脚摩乳、妻の摩乳より「オロチ」の被害を聞かれ、父神と共に烏髪山(舟通山)に登られ、オロチ族の鉄穴流し(鉄の原料である砂鉄を採るため山を崩して流す)のため四方の山々が禿山となっており、これでは雨期に洪水となり人々が難澁するので・命が、父神はオロチ族に斯様なことをしない様直接談判をして下さい(オロチ退治)。私は烏髪山から乾の方角に当る地にとどまり、住民と共に樹木の苗を育て荒れ山に植樹して治山治水を行いますと申された。その地が御当杜御鎭座地角村である。命は住民に「杉及び楠」は浮舟に、「桧木」は御殿を作れ、「マキ」の木は火をたいて物を焼くのに用いよと教えられた。その後、命は日本國中に植樹造林をおすすめになられた。このため朝廷から国土経営の神として遇せられ、全国の人々から林業の守護神として崇められている。

#伊賀多氣神社

Write A Comment

Exit mobile version