湧水・伊佐・さつまをゆく 《湧水駅~菱刈~曽木~大口~薩摩永野駅》 山野線と宮之城線の廃線跡に沿って大隅から薩摩へ

湧水・伊佐・さつまをゆく 《湧水駅~菱刈~曽木~大口~薩摩永野駅》 山野線と宮之城線の廃線跡に沿って大隅から薩摩へ

[音楽] 鹿児島県JR被殺園のディーゼル列車に 乗って駅から北へ向かって走っています。 車内には扇風機がついていて国鉄時代の おかげの残る車両です。 さて殺線は日ごとさ磨を結ぶ線という意味 です。ところがこの殺線のうち鹿児島県内 を走る部分は現在の霧島市と有水町です。 全てがさではなく大隅の国に含まれます。 つまり何反してさの国は走らない殺線です 。 [音楽] 元々この路線は明治時代に鹿児島本線とし て開通し、福岡県文字と鹿児島市の間を 結んでいました。 昭和2年海沿いに新しい鹿児島本線が開通 したことによりこの路線は日とさ磨を結ぶ 秘殺線と名前を書いたのです。ところが その5年後の昭和7年。早から鹿児島まで の部分は日方線になり、さの国の部分は 被殺線ではなくなってしまいました。その 結果さに行かない被殺線となってしまった のです。 倉庫してるうちに列車は栗駅に到着しまし た。所材地は有水町です。 列車は次の吉松駅に向けて北へと発車して いきました。 [音楽] 栗の駅からはかつて水又駅に向かう山の線 が出ていました。現在そのホームは線路も 剥がされ使うことはできません。 駅舎に面したこのホームが山線が発着して いたホームです。この写真では奥の方に 発着していました。 古選鏡を登って南の方を見てみます。 向こうが斗駅方面です。 右の方に線路の後らしきものが見えますが 、これが山線の後です。 今回はこの山野線に沿って現在のイ市市の 大口へ。さらにこちらも今は泣き宮野線に 沿ってさの長野へ大隅からさへとフラフラ と旅をしていきます。 改めまして栗の駅です。線路の北側に駅舎 があります。 改札を入ると勝ち運の金がありますが、 この金は海業の頃からあったようで、当時 は罪の運搬の時の予備輪として使われてい たようです。 改札の目の前の1番線はかつて山野線が 発着していたホームです。現在は柵があり ますが、その前には木彫りの作品が並んで います。木彫りの彫刻は町中のあちこちで 見られます。地元の木材を利用した工芸品 のようです。 駅舎とは反対の裏側、南側の出口から降り てみます。 そこには綺麗な池の周りに公園が広がって います。 この日は休日とあって多くの人で賑わって います。 この池は丸池です。 という町の名前の由来となった脇水の池 です。 この水の元は霧島連山のうちの北製側に ある栗の岳です。 栗の岳は今から30万年前から10万年前 の噴火で形成された山で人類の歴史には 記録された噴火はなさそうです。 この栗のに降った雨が地を流れ数十年経っ て脇となるそうでその脇水の量は1日に約 6万tとのことです。 池を渡るこちらの橋はレンガでできている ように見えますが、このレン下は家庭ゴミ を焼却した時に出る肺を利用したもので、 鉄の悔いとコンクリートの基礎の上にこの リサイクルレンガを積み上げ強度を確保し て作ったものだそうです。 この水路を辿どっていきますと、駅の下を くぐり抜け北側正面側に出ます。 丸池の有水から鉄道の下をくぐり抜け67 に及ぶトンネルで駅の正面側市街市地側 まで水路が引かれています。建設当時は 線路の数ももっと多かったことでしょう。 線の他の建造物と共に近代化産業遺産に 認定されています。 上側にある石材は溶血業界癌。つまり火山 から出た火災流の熱と重みで火山がより蜜 に固まった岩石です。いかにも南九州 らしい石材です。 水路は2本で半炎系のアーチのレガで作ら れています。 私が訪れた時にはちょうど地元の方が清掃 をなさっていました。 水路の出口の反対側はシ道をくぐる橋で UI橋といます。こちらは2011年に できたばかりの新しい橋で先ほどと同じく リサイクルレンガが利用されてるそうです 。 ちなみに現在の有水腸の上水道も豊富な 有水や地下水を水源としているそうです。 駅前からは南国交通の路線バスが元山線に 沿って大口方面に出ています。 また街中へ少し歩くと鹿児島空港から大口 を通って水又方面へ向かうバスもあります 。バスは後ほど乗ることにしまして初めは レンタカーで動きます。 ここは物散間に温泉や図書館もある施設 です。駅と同じく木彫りの作品がたくさん 並んでいます。 この図書館で情報収集をしてからいよいよ 出発です。 国道268号を進みます。 時々並行するのはかつての鉄道山線の配線 後と思われる自転車道です。 道路は有水町から市へ、大隅からさへと 進んでいきます。 [音楽] 市に入りました。平成20年までは町でし た。ここはかつて山線の湯野駅があった 場所です。 農産物の特売所と駐車場が整備されてい ます。その裏手が線路の後です。現在公園 になっていまして、駅舎はもう残ってい ませんが、線路が少しだけ残されています 。 保存されているのは国鉄時代の貨車です。 客者ではなく車掌さんが乗務する貨者です 。ちなみに同じ形式で今も使われているの がこれです。栃木県の東部鉄道SL体樹で はこの貨車が現役で使われています。 湯駅の後にもその車掌車が残してあります 。所々塗装が落ちけていますが、全体的に は良い姿を保ってよく管理されています。 車輪や信号機なども保存されています。 時期によっては桜が咲いてちょっとしたお 花見もできるようです。 同じ公園内には金の鉱石が展示してあり ます。 これは皮山から取れたもので住友金属鉱山 から提供されたものだそうです。この辺り のことはおいおいお話をいたします。 さて湯というからには近くに温泉があり そうです。地形図を見ておきましょう。 駅の後から北製へ1.5kmほど仙台の 下半に温泉街があります。 この温泉街は1810年頃から成立してい たようで、その頃はこの近くから温泉水が 湧いて出ていたようです。 昭和になって温泉水が枯渇して自盤が 起こりました。この地域の地質的な特性に 加え、皮鉱山が創業を始めた頃でもあり、 複合的な原因とされたようです。 そこで鉱山から温泉水を引くようになり ました。 その設備は非カ鉱山側が設営し、自治体に 寄付したとのことです。 実際ひかり口鉱山の校内では約65°の 大量の温泉水が毎分9000Lます。 この校内の温泉水が長さ6kmほどの パイプラインを通してこの温泉街に供給さ れています。 ちなみには炭酸水素沿線です。 湯温泉が面する仙台側にはカぱの伝説が あります。 カぱはこの地域ではガラッパと呼ばれてい ます。 近くの湯神社では毎年11月に無型文化罪 の湯マが模様されています。 北道268号に戻りますと、北井32°線 を示すモニュメントがあります。そこにも カッパ、ガラッパがデザインされています 。 鉱山への道があります。行ってみましょう 。 車を進めますと鉱山には2つのエリアが あるようです。本山光の方へ向かいます。 石鉱山は現在も創業中の鉱山です。鉱山は 一般人は立ち入り禁止で個人対象の見学会 なども実施されていません。今回も あくまで一般人が外から見える範囲だけを 見物します。 道路の脇にはずっとパイプラインが並行し ています。 これが先ほどお話しした湯温泉への6km の温泉水の配管なのか、あるいは他の用途 の配管なのかは分かりませんが、大変綺麗 に保たれています。 日狩鉱山が見つかったのはさほど古い話で はなく、鉱脈が発見されたのが昭和の 終わり頃。昭和56年のことです。 右側に見えてきました配管はおそらく 山田湖から繋がっているものだと思われ ます。 左側には会社のビルがあります。そして 右側のゲートから向こうが鉱山です。 もちろん一般人は立ちることができません 。 住友金属鉱山が最高を始めたのが昭和60 年。それから現在までに40年ほどが経ち ました。 一方、新潟県佐戸の金山が戦国時代の頃 から400年ほど創業して合わせて80t ほどの金を算出してきました。 これは国内の金の鉱山の累積の損失量です が、ひカリ以外は並算していますからこれ 以上増えることはありません。 金山は年間6t前後の金を算出しており、 現在を創業中ですので、いかにひりがハイ ペースかが分かります。 皮鉱山では金の鉱石1tあたり約30g から40gの金を含んでいます。これは 世界的な平均の金鉱石の1桁大きい数字 です。 このような質の高い鉱脈を掘るための現代 の行動はと言いますと、昔の鉱山の狭くて 暗くて危険なイメージとは全く違うそう です。 行動の総援長は100km以上あるそう ですが、中は明るくて広くて空気はよく 循環しており、Wi-Fiが届くところも あり、路面は舗装されてるところもあって 、大型の重機が自由に動けるそうです。 このような鉱山はどのようにして見つかっ たのでしょうか? 大昔市は川の火流で殺金が見つかったり すると一角先金を狙った山市がいかバチか 鉱脈を探していたものです。しかし現在は 様々な物理探査によって鉱脈を見つける ようです。 まずこれが鉱山付近の地質の断面です。 上半分には色々な模様のついた部分があり ますが、これらはデイトとかアンデサイト とかいうように、要は火山です。 その下白い部分はシマント塗装層という 地層です。シマントといえば四国の地名 ですが、このシマント層は九州から四国を 経て関東まで広がっている一連の地想です 。 自慢塗装の下からニョキニョキと生えて いるような黒い部分が鉱脈です。 この鉱脈を見つける物理炭差の1つが重力 炭差です。 火山の岩石に比べその下のシマン塗装は 重たいですから重力を調べることによって 地下のシマント塗装の位置を調べるのです 。 この図は重力探査の結果でまさに皮鉱山の 辺りの重力が大きいことが分かります。 ちなみに地球の重力加速度はおよそ9.8 だとよく知られています。一方、この図の 皮鉱山のあたりに15という数値が描かれ ていますが、これは9.8よりも5桁も下 の値が標準よりも15大きいという意味で どれだけわずかな値を測っているのだと気 が遠くなりそうです。 こちらは別の物理炭差非抵抗の炭差です。 地下の地層が熱水で変出すると自盤に電気 が通りやすくなり抵抗が下がります。この 図でも皮鉱山のあたりで非抵抗が下がって いて鉱脈を作るような熱水の動きというの が推定されるわけです。 これは一例を端的に出したりすぎず、実際 にはもっと専門的で複雑で膨大な探行われ 、それを元に掘って品質の光脈を 見つけ出したということです。 鉱山の北側の一般道を進んでいきます。 途中にはドクターヘリのヘリポートもあり 、万が1のケースにも備えられているよう です。 鉱山の周りの山は先ほどご紹介した通り デイサイトや安山などの火山癌です。 鉱山の横を流れるのは山田川ですが、そこ に落ちている岩ももちろん火山で金は入っ ていません。 そして外から見えるこの建造物金鉱山とし ては初めて導入されたクーリングタワー です。 光鉱山の金工は金を含む物質が地下の マグマに熱せられた水に溶け出した後 冷え固まってできたものです。そのため皮 鉱山の校内では温度の高い水が毎分 9000Lずつ輸出しています。これは 行動を深く掘っていく時に邪魔な存在です 。 踏み出された約65°の温泉水のうち およそ1/3は先ほどご紹介しました湯 温泉に供給されています。 残り2/3は水質基準を満たすように浄化 され、このクーリングタワーで温度を下げ た後、パイプラインで仙台側へと放出され ています。 岸口座にはもう1つ山田口があります。 そちらにも行ってみましょう。 と思ったのですが、こちらはだいぶ手前に 立ち入り禁止の看板があり、外から見 られるようなものは特にありませんでした 。 ひかり鉱山はこのくらいにしまして次に 向かいます。 山線の後はあちこちに残っていますが、 一旦山の線から離れ、仙台側の方へ向かい ます。 ぎの滝に到着しました。 地刑図を見ておきましょう。 仙台は先ほどの湯からこのぎの滝まで大口 凡地を流れる間にいくつもの川と合流して いきます。 そしてこの仙台側にあるのが削ぎの滝。は 12mですが、圧はその幅で210mも あり、東洋の内アがらと呼ばれることも あるようです。 この辺りの地層は格闘火災流による硬溶血 業界です。 格闘は現在の宮崎県海老市にあたり、重力 炭算によって格闘カルデラが存在すること が分かっています。 ここでは約33万年前に大噴火が起こり、 発生した格闘火災流や鹿児島市や人市など 半径50km程度に達する大規模のもの だったとされます。 その溶血業界癌を仙台側が削ってできたの が幅の広いこの削ぎの滝です。 滝の火流側は鶴田ダムによってできた大子 です。 滝から川に沿って10kmほど火流に鶴田 ダムがあります。洪水の帽子と水力発電を 目的に昭和40年に完成しました。この ダムによってできた腎臓の湖が大子です。 当時の鶴田町と大口市にメタがるために1 文字ずつ取って命名したとのことです。 滝のすぐ火流側にかかっている橋は平成 23年に完成した新ぎ大橋です。 それまでは滝の上流に削ぎ大橋があったの ですが、老朽化に加え滝のすぐ上に橋が かかっていることで景観が良くないという こともあり、駆け替えられたのが新削ぎ 大橋です。 古い削ぎ大橋は平成28年までに撤去され ました。 さて、ぎの滝のほとりには何やら人工物が 数多く設置されています。 この水路は滝の上側の高さを保って引かれ ており、現在も勢いよく水が流れています 。元々は明治39年に作られた水力発電用 の水路です。 水力発電所は水を高いところから低い ところへ落とすことで発電機を回し電気を 作る場所です。 明治39年この滝の場所の楽さを利用して 最初の水力発電所ができました。 当時近くにあった金の鉱山で使う電力を 供給し、残りは市内で使い、遠くは又市の 科学工場にも電力を送っていました。 しかしこの最初の発電所は洪水で破壊され 、ほんの3年間で消滅してしまいます。 その頃火流1.5kmの地点まで水路を 引いて第2発電所の建設が進んでいました 。第2発電所は最終的に第1発電所の8倍 ほどの発電能力を有し、こちらも地元のみ ならず市の科学工場などに総電されてい ました。戦前戦後と工業の発展に起した わけです。しかし仙台側の洪水は深刻で そのため先ほどご紹介した鶴田ダムが昭和 40年に完成しました。そのため第2発電 所は湖に水没しました。発電所は火流に 新たに建設されました。 時は過ぎて平成になり、第1発電所の移行 を利用した新たな水力発電所ができました 。平成25年のこと、一般家程の約 1000件という小電力の発電所ですが、 教育的な価値と観光資源に着目して現在も 稼働しています。この新しい発電所では元 の水路が使われ、新しい発電所の地下に 導かれ、そこで発電しています。 川に沿って夕歩道を歩いていきます。神社 の下辺りから石作りの構造物の中を歩いて いくことになります。この構造物は第1 発電所への水路の後です。 この先で川へ向かって水を落とすところに たった3年間だけ発電所があったのです。 なお、水路の後は一時期はキノコの栽培に 使われていたこともあるようです。 では、川に沿って1.5km火流第2発電 所の後を見に行きましょう。 第2発電所の移行は仙台大子の北側の岸に あるのですが、そこは通常は立ち入り禁し て夏に開催されるツアーの時しか入ること はできません。 自由に見学できるのは対岸の南側からで、 そこには展望所が整備されています。 新ぎ大橋を渡って展望所に向かいます。 駐車場を出ると薬草の森があります。 展望所への案内の看板を見て階段が150 段ではなく150mであるごとにほっとし つつ先を急ぎます。 少しの階段とあはなだらかな夕波どを歩い てきますと展望台に出ました。展望台から 川の方を見るとありました。 研ぎ第2発電所の屋根が水面から少しだけ 頭を出しています。 建物の本体の大部分は水面の下にあって、 建物の続きの部分は対岸にあります。 もちろん当時の発電機などは反出されてい ますから、残っているのは建物だけで風水 以外で壊れると修繕し補強されているそう です。 の水移は冬から4月にかけては多く、5月 頃から減り始めるそうで、夏場には建物の 本体が姿を表すようです。 この撮影をしたのは3月です。頭だけでも 見ることができてるのが良かったのかも しれません。60年前に役割を得た発電子 の建物が水面にあるというのも不思議な ものです。 の見物はこのくらいにしてクリノに戻り 電タカを返却して今度はバスでイ蔵市の 大口へ向かいます。 大口で止まったのは最近増加中のコンテナ ホテルです。 中は一般のビジネスホテルと同じで電気も 水道も使うことができ快適でした。 翌朝は街中のバス乗り場から出発します。 大口バス停留所です。ここから各方面の 路線バス、そして鹿児島空港など距離の あるところまでバスが発着しています。 この辺りのバスは鹿児島空港発着でも空港 の客だけでなく途中から途中まで乗れる 路線が多いので便利です。 流所の待ち合いの裏手の方からの写真です 。 ここから南の方へ視線を移しますと広い 敷地と共に貨車が入ってきます。 国鉄要8000型貨車掌車です。 ここに来るまでに輸の駅後でも見た貨車 ですがここにも保存されていました。状態 はよく保たれています。 してポイント。 それから腕式の信号機です。 まさしくここに鉄道があったことを記念 するモニュメントです。 鉄道があった頃の地形図として昭和41年 測料の地形図を見てみましょう。 ここにさ大口駅があります。 この地形図を現在の地形図と比較してみる とこの通りです。 当地の駅はかなり広大な敷地を持ってい ます。 貨車が展示してある辺りが駅の南の橋に 近いのですが、そこから北側へと視線を 振ってみます。 バスの停流所があって、向こうに工事中の ビルがあります。そのビルの当たりまで 一体が駅の後だということです。 この工事中の建物、イ市の身長車などの ようです。 元々ここにあった建物には鉄道記念館や 図書館が入っていて、バスを待つ間に是非 見物しようと思っていましたが、今回は 仕方がありません。 なお、現在の遺市市はかつての大口市と町 が合併してできた市です。 竜大口駅はかつての大口市の中心にあり まして、山野線と宮野城線という2つの 路線が発着していました。 山野線は栗野駅と水又駅を結ぶ路線でここ はその中間の駅です。宮野城線はここ大口 駅と仙台駅を結ぶ路線です。 宮野城線は国鉄のうちに配信なり、山野線 は10ヶ月だけ吸収でその後廃止されまし た。 ここからはかつての宮野城線さ長野駅の後 を目指します。とはいえ路線バスはさ長野 駅付近を通らず概道267号を通ってその 先の宮野城に着いてしまいます。 さ長野方面に行くには宮野城から別のバス に乗り換える必要があります。まずは 宮野城に向かって路線バスで進みます。 [音楽] 宮野城駅はかつての駅の後に宮野城駅鉄道 記念館が立てられていました。 この駅は国鉄がJR九州に変わる直前に 廃止されました。 国鉄のシンボルのつばめは3月のこの日 すでに元気に飛び回っております。現在は JR九州バスが鹿児島中央駅や天文館に 向かうバスとして発着しています。 目の前の交差点は今も宮野城駅前のまま です。 宮野城はさ町の中心です。 さ町は3つの町の合併でできました。 ここ宮野城の他鶴田のある鶴田町そして 後ほど向かう長野地区のある漢字のさ町 です。その3つの町の中でも宮野城が人口 の半分以上を閉め昔から栄えていた中心の 町と言えるでしょう。 宮野城駅鉄道記念館は各方面へ発着する バスターミナルの役割を果たし、飲食物や お土産品などの売店、観光案内所があり ます。そしてかつての宮野朝鮮の展示が あります。 中には宮崎実験線を走ったリニアモーター カーの模型もあります。 宮の上線の保安装置、そして単線の線路の 通行表であるタブレット。 当時の時刻表をプリントしたお皿は目を 引きます。 [音楽] 記念間の建物の裏手は線路が通っていた 場所でしょう。信号機などが残されてい ます。 隣の土地には少しだけ線路が敷かれ、蒸気 機関車のお顔が見えます。 457C57型蒸気機関車です。 ボイラーが細く整った形をしていること から寄父人と呼ばれた機関車です。 現在でも観光客を載せて万越線や山口線 などで走っています。 ここ宮野城に展示してある機関車は昭和 50年に西島宮崎間の運転を最後に引退し 、そのカットボディがここに置かれました 。 これは宮野城駅が廃止されるよりも10年 以上前のことですから、おそらく駅が現役 だった頃からここに展示されているの でしょう。 さて、目的地のさ長野への路線バスは便数 も少なく、特に日曜日は走っていません。 一方、悪値泉から鹿児島空港に向かうバス は宮野城と長野を通り、途中から途中まで でも乗車が可能です。本数もそれなりに あるのでこちらを利用します。 とはいえ路線バスよりも停流所が少なくお 目当ての場所は通りすぎて長野定流所に 到着しました。ここから道に沿って1km ほど戻ります。 歩いている途中にはさ町の直売所もあり ました。 しばらくして着きましたのは下場のバス停 です。 路線バスは平日に1日3本、土曜日は1日 2本、日曜日は運休です。このバス停の前 に崖が広がっています。 この崖は格闘火災流による溶血業界癌です 。 先ほどご紹介した削ぎの滝と同じもので 33万年前に現在の宮崎県海老の市あたり で起こった大噴と火災流がこの場所にも 及んできてできた岩石です。 この崖の表面に何やらが掘られています。 鎌倉時代や室町時代に刻まれた真が物です 。 凡事仏教の文字が何列も刻まれているそう で、大日如来や網田如来、不動王などを 表すそうです。 このような文字が現在までよく残ったもの です。仏像もなんとか見ることができます 。こちらは風化がだいぶ進んでいるよう です。 下丁場の真外の近くは格闘火災流でできた 土地を川が侵食してできた谷間です。 その周りの風景を見物しながら再び1km 歩いて長野のバス停まで戻りました。 ここで宮野城線が現役だった当時の昭和 41年測料の地刑図を見ておきましょう。 これを見ますと、宮野城線はさ長野駅で 方向転換、スイッチバックをしています。 この付近では線路の後は道路に転用されて 残っています。 その場所を見ながら駅の後の方へ向かって みます。 まず長野バス停から北側さ大口側から伸び てくる土手は川の土手ではなく線路の後 です。緩やかにカーブしながらさ長野駅の 方へ伸びていきます。 [音楽] その道路に沿って駅の方へ向かっていき ましょう。 今度は右の方、南の方から細い道が近づい てきました。 こちらの道は仙台宮野城方面から伸びてき た線路跡です。 この辺りではまだ標がありますが、駅が 近づくにつれ、徐々に標が解消されていき ます。 そして同じ高さになったその向こうに駅の 跡が見えてきました。 目印のように腕式信号機が見えています。 その向こうがさ長野駅の後です。 線路とポイントが残されています。 スイッチバックの駅らしく両当たり線の 分岐ス クロスポイントです。 このシーサスクロスポイントの上を直に 歩けるのはなかなか楽しいものです。 ただしこれは駅が現役だった時代のその 場所ではなく展示用に移設されているとの ことです。 桜が咲き始めた時期でしたがこれが満回に なると絶景なのでしょう。 一通りの危機が屋外に情説展示されてい ます。 そして進んでいくとまたもありました。 国鉄要8000型貨車掌者です。この旅で は湯駅の後、さ大口駅の後に続き3つ目 です。 コンパクトな大きさなので配線後の モニュメントとしては置いておきやすいと いうことなのでしょう。 ここはそれだけではありません。鉄道の 保守作業に使用される車両も残されてい ます。おそらくガソリンエンジンで軌動上 を動いていくものでしょう。 その向こうにはちょっとした公園もあり ます。 ホームも一部が残されています。 ホームの上の駅名表はとても綺麗なので、 当時のものがそのままではなく新たに作ら れたものでしょうがなかなか気分が出ます 。 スイッチバックの駅らしく 同じ方向の裏表で駅目が違っているという 細かいところまでよく作られています。 [音楽] 建物は当時の駅舎ではなく廃止後に公民館 とバスの待ち合いを兼ねて作られたものの ようです。 [音楽] しかし建物の中は出殺口や改札口など本物 の駅舎らしく作られています。 長野鉄道記念館も併設されており、近所の お店で鍵を借りてくると見学できるそうな のですが、私が着いた時間はちょっと遅 すぎて諦めることになりました。 さて、この駅がスイッチバック式などには もちろん理由があります。 現在の路線バスのようにさ長野駅によらず にさ駅と宮野城駅を結べば距離が短くて 済んだのでしょうが当時はさ長野駅の東の 方3kmほどのところに長野金山野山 とも呼ばれますが金山があって江戸時代 から採掘が続いていました。 そのため人も多く住んでいたことでしょう 。鉄道としてもできるだけ長野の集落に 近づけて駅を作らざるを得ず、ここだけ東 に突き出したようなスイッチパック式の駅 になったのです。 その後金山は新たな有防な鉱脈が見つから なかったために戦後の昭和40年に並 がなくなり、そして鉄道もなくなり、現在 は静かな山合の町となっています。 駅から振り返ると2方向に向かう線路跡が かつて栄えた頃を思い起こさせます。 今回はここで終わりにします。長々とお 付き合いくださりありがとうございました 。それではまたお会いしましょう。 チャンネル登録よろしくお願いします。 [音楽] ።

栗野岳のふもとの湧水町から,廃線跡に沿って,今も操業中の菱刈金山,東洋のナイアガラ曽木の滝,そして,宮之城駅,薩摩永野駅へ。クルマとバスで動き回ります。

■主な収録内容
JR肥薩線,栗野駅,霧島連山,丸池,近代化遺産,湯之尾,菱刈鉱山,金山
曽木の滝,曽木発電所,鶴田ダム,大鶴湖,新曽木大橋,ホテルR9,
加久藤火砕流,溶結凝灰岩,鉄道記念館,下丁場磨崖仏,南国交通,
湧水町,伊佐市,さつま町,薩摩大口駅,湯之尾駅,宮之城駅,薩摩永野駅
山野線,宮之城線,廃線,国鉄ヨ8000形貨車,C57蒸気機関車

■撮影時期は,特記のない限り2025年3月です。

■特記がない限り,写真や映像は作成者が撮影したものです。素人がコンパクトディジタルカメラで撮影した写真と映像です。特に映像部分は,想像以上に手ブレがひどく,お見苦しいと思われます。ご勘弁ください。

■地図は,次の通りです。
・地形図,空中写真は,国土地理院のWebサイトで公開されているものを引用しています。旧版の地形図は,謄本を購入したうえで引用しています。

■Google earthの画像を使用しています。

■使用音源の多くはAudiostockのもので,ライセンスを所有しております。
https://audiostock.jp/

■動画作成の初心者です。今後,精進して質を向上させてまいります。
よろしければ,チャンネル登録,よろしくお願いします。

#伊佐市 #湧水町 #さつま町 #溶結凝灰岩 #菱刈 
#廃線 #山野線 #宮之城線 #地学 #小さな旅

0:00 栗野駅・丸池
7:16 湯之尾駅・湯之尾温泉
10:30 菱刈金山
17:51 曽木の滝・発電所遺構
25:15 薩摩大口駅
28:21 宮之城駅
31:36 下丁場摩崖仏・薩摩永野駅

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