【伊江島】戦跡訪問&映画木の上の軍隊ロケ地訪問
どうもこんにちは。週末探検の小池です。 ま、非常に今なんかこう長編動画を作るの は懐かしくて久しぶりに動画を回してるん ですけど、あの今日今日いるのは沖縄県の あの元部ま、いわゆる北部ですね。北部に ある家島という古藤に来ています。家島 っていうのは皆様沖縄来たこと来た時に海 水族館って行くじゃないですか。白海水族 館から見えるその特徴的な山、グスク山 って言うんですけど、グスク山をあの持っ た非常に個性的な山です。あの島です。で 、今週から大体何キだっけな?ま、船で 30分かかんないぐらいすね。対岸まで3 4kgぐらいだった気がしますね。3 4kmでいけるので、ま、割とすぐに 34kgで人だけだったら7800円 でいけます。で行けるので是非あの来て くださいと言いたいとこなんですけど、ま 、今日目的なのはダイビングツアーに昨日 まで来ててで昨日まで来ててでそれであの ま、家島に入る前にワールドダイビングの その空さんっていう人に小池さん今度木の 上の軍隊っていう映画が上映されるんです よ。これ先に予習してから来てくださいっ て言われて、うん、なんだと思って、で、 実際調べてみるとなんと沖縄での放送がね 、沖縄でのあの、ま、上映が6月の23 だったかな。6月の23からで、あの、 あの、本土での放送が、あの、女映が7月 25とね、1ヶ月も下がったと。だから僕 はあのこっち沖縄に飛んできてからすぐに その木の上の軍隊を見てでワールド ダイビングのそのダイビングツアに参加し たみたいな感じなんですね。ま、海の中は とても綺麗でで、ま、あの地形が非常に 面白が面白い場所でしたね。うん。地形が 面白い。もうあと給流がすごいも本当に 流れが早いとこあったりとかま、なかなか ダイナミックで非常に面白いとこでした。 ま、話はそれましたが、え、本日やろうと しているのはこの第2次世界大戦家島と いうところは、ま、どういうとこだったの かと言うと、家島というのは沖縄県があっ て、沖縄県の、ま、すぐ近くにある、ま、 比較的開ったくて面積が広いあの島なん ですけど、そこを第2次世界大戦の末期に 飛行場として開発して、日本軍の南方の 防衛拠点として、え、 ま、考えられていた場所なんですね。で、 ま、映画の中で で、あの、木の上の軍隊の中で、あの、 家島の私と常官っていう私と官感が出て くるんですけど、ま、基本的に2人だけの あの駅なんですけど、私と常官が出てきて 、で、私、これはあの山田さんですね。私 と包慎司さん長官が、あの、飛行場を作る んです。飛行場と飛行場を作るところが 始まるんですね。で、家島に飛行場を作る ために 確か宮崎かどっかあの出身であのこちらに いらっしゃってで飛行場を作っていてあの 2人が出会うっていうとこからやっぱ 始まりますね。ま、出会いはあんまりあの いいインプレッションじゃなかったみたい ですけど、ま、その辺は映画の内容になる んであんまり喋らないようにするにして ますね。で、ま、その出会ったのが家島。 暴空拠点の家島なんですけど、暴空拠点の 家島で、で、あの、ま、色々と準備を、ま 、戦争のために準備をしたりで激しい戦争 になったりするわけですね。で、今回は その木の上の軍隊に出てきた実際の聖地の 巡礼をしてみたいなと思って、あの、 バイクを借りて、で、今回ロードムービー 風にちょっとやってみようかなと思ってい ます。ま、でも気を気を抜いてね、あの、 家島のその戦績とあと、ま、何があったの かとあと木の上の軍隊の、ま、ロケ地とか を巡ってみようと思います。 すいません。ロードムービーとは言いまし たが、先に家島のアクセスの方法について 見ていきましょう。家島前のアクセスは 沖縄県北部の元、ま、ここは海水族館の あるエリアだと思っていただいても大丈夫 です。那覇からバス、車で2時間です。 那覇空港県庁前からも高速バスが何本も 就航しているので非常に便利です。 バスの料金は大体当たりから 1500円から高くて2000 円ぐらいだと思っていただければ大丈夫です。フェリーターミナルに入ってみましょう。マスコットキャラのタッチンが出迎えてくれました。僕たっちん気に入ったんで帰りにタオルを買って帰ったです。めちゃくちゃ可愛くてね、今も気に入ってます。 噂話で聞いたんですが、家島は予算に比較 的恵まれていて、ま、他の離島と比べて フェリーそのものとも関連する施設も すごい綺麗らしいですね。 料金は片道720円、往復で1370円 です。通常運行時は1日往復4便してい ます。時期によっても異なるんで調べて から行ってみるといいと思います。 え、現在8時59分合いが解き放たれまし た。出行です。 午前9時出行。その日1番早い家島への フェリーに乗りました。 生底大橋の強客越に家島が見えてきました 。旅の城を感じさせる一駒でした。 グスク山は島の中央やや東寄にある標 172mの岩山です。タッチとも呼ばれ 古くから当民に親しまれている家島の シンボルです。エボシを思わせるような 独特な形から古くから近海を高校する船が 根印にしていました。 そんな特徴的な形をしたグスク山ですが、ずう宝の家館長のジャ花越え越え子さんが興味深い話をされていました。 千はあの山が裸に乗ってこうして登って真っ白い衣装をけた呪が乗ってやるという大行事があったわけだから戦争であの形になったからそんなことはできない。 もう綺麗に登ってやる山であったわけだからそうで形変わったんですか?あれは 形が変わってんですか?100% その根元に日本軍の軍隊が陣地を作ってあのご山の下にいるわけ敵が。 だから周りから打ち込んで中の新だけが今残ってる。 ああ、 大きな山だったよ。 裸に乗ってあれをえっと女神が乗ってま登って降りる大行事も宣伝はできたんだよ。 米軍の激しい攻撃によって山の形が変わったという話をされていました。米軍側から激しい攻撃があったようですね。ここが港ですね。港。 ま、基本的にこの島の交通物流の 拠点になっています。 で、ここが本土、ま、強度資料館です。目 の前に強度資料館とあと平和資料館があり ます。 ま、今から、ま、とりあえず攻撃しって いうその家島が攻撃受けた後に唯一残った 建物があるんですね。そこに向かって みようと思います。 すごい酒ある。酒屋。ここの酒屋は現役で 使えてるんですよ。ま、ま、あの、開い てんの見ました。酒屋があってガソリン スタンドがある。してなんとコンビニが あるね。危ねえ。危ね。信号した。 ファミリーマートの家島店か。うん。 家島にはコンビニが2つあって、しかも どっちもファミリーマートです。 そして2つのコンビニの距離が意外と近く なんと500mしか離れてないんです。 びっくりしますよね。 結構信号が多いですね。 結構信号多い。 あ、救急車ある。救急車。救急車ある。 ここ村の医療センターのようにですね。 救急車が2台ぐらいあるのかな。 あ、 あの建物は役場っすね。役場。 役場が見えました。 ここどうやらなんかこう島の行政の中心 っぽいすね。これを左に曲がる。 うう。 雪山もあんなに大きく見えますね。 多分そろそろ攻撃です。 タッチ ありました。ここだな。 80年前戦争で 被害を受けた建物が未だにこんな形に残っ てるとは。 え、区役所の方から許可を得てちょっと中 、ま、中というかあれですね、区役所の 敷地内に入らせてもらうことになりました 。 ああ、やっぱすげえな。 やっぱも々しいっすね。 ダンコンとか あと あの右上にあるちっちゃいのは漢方射撃か なんかが完通した後なんじゃないかな。 でも 中って結局コンクリート上になってるから これは多分せその後に補強したやつですね 。 東壊することがないようにこういう風に 補強してあるんでしょうね。だから今は もう崩れる心配ないと 石巻のあの防災調車みたいな感じになって ます。 え、ここの上の部分なんですけど、あの ダコが密集してますね。これは多分飛行機 の基重、航空機の基重ではなく光景の 大きい銃弾で固定された基準で打たれた ものなんじゃないかなという感じがします ね。 公視野は海とグスク山の間にあります。 先ほどの話でグスク山の麓元には日本軍の 陣地があり、米軍の激しい攻撃を受けてい ました。このため公は海のある南側の側面 に大きな方撃の後受けた無数の断痕が今も 生々しく残っています。村は傷ついたこの 建物を公民館の隣に移すことで平馬学習に 役立てています。 さて、次は、え、グスク山。沖縄では城の ことをグスクと言うみたいですね。確か 那覇の方でも富グっていうところがあって 、あの富じって最初読んでるんですけど、 トミグって呼らしいです。ここら辺は なんか ここら辺はなんか歴史ある古い 建物というか建物が古いっすね。この辺は ね。あった。福山登山口 海が綺麗に見えます。 これか。駐輪場はこの先。 え、このグスク山のこの麓りっていうのは 旧日本軍が、え、人狼辺りでもあるんです ね。だから映像ではグつく山目方 射機が行われていたりとか 昨日行った反線資料館のお母さんの話では 福山は漢方射撃で形が変わってしまったと おっしゃってました かな? 沖縄きて初めての登山ですね。 綺麗。これがグ山の 1 番山頂に近い登山口。車で来れるとこだと思います。う、でっけ。 よくま、テレビとか出てくるのはここの ここら辺の音ですよね。 ここはネタバレにならないと思うんで話し ますけど、あの、ま、映画内で私、ま、 山田さんが演じる私が海の方をちらっと見 て大量の米軍の船がバーっていたのを見て 、ま、出望するシーンがあるんですけど、 ま、米軍は船を使って大量に上陸してきた わけですね。で、当時あの見た本当人の話 によると、海がこうバーって、ま、沖縄の 他の戦場でも言えることなんですけど、海 にこうすごい数の船が並んでいてすごい 怖かったっていう風な話が、ま、あります 。で、ここに見えているのは、ここに見え ているのは激戦区のあった中学校の第地 ですね。ここで相当かなり激戦があった みたいです。 さて、標高172mのグスク山に挑戦して いきます。麓元のお木上の軍隊のポスター があります。やはり話題にはなっている ようなんですね。 他にもなんか今年の1月頃に家島部隊とし た絵がカ三道というものも、え、上映され ているようです。僕そっちの方も知りませ んでしたね。 それでは家島のグスク山登山口に着きまし た。ま、ここも開発結構あるから多分 そんなに登んなくて済むんじゃないかなと 思いますけどね。うん。それではちょっと 行ってみます。ハブ怖えな。 どうせ早送りだ。よしょ。 やっぱジャングルが濃い。 ま、こうやって見てみると米軍が漢方射撃 しまくった理由がよくわかりますね。 もう緑が濃いんですよ。緑が濃すぎて こんなところに隠れられたら絶対にわから ない。 こんな山の中で2年間もよく 過ごしてよな。 お、ひら、超綺麗だ。開けてきた。 おお、 綺麗。 マジ超綺麗だ。 標高172m。 砂キビ畑から海まで全部見えますね。 めちゃくちゃ綺麗だ。 8号目。 いや、気持ちいい。 いや、まだいる。 こんにちは。こ 登らしてもらいます。すいません。こんにちは。 こんにちは。すごい。すごくな。お、超ジじゃん。 5分ぐらいか。 5分ぐらいで女つけました。 わあ、綺麗。 私が今いるのはグスク山の山頂です。え、 見てください。あっち側は、えっと、米軍 側がある方ですね。米軍が上がる方って いうのは元港、つまり港から反対方向に 米軍が上がります。えっと、見えるか わかんないですけど、あそこ今1番大きく 見えるのが、え、家島、家島空港で、 さらにその奥に日本軍、ま、米軍確か米軍 補給路と言われているあの滑走路急日本軍 が作って米軍がその接取して、え、輸送路 として使ってたあの滑走路があるんです けど、ま、それは後で行くとして、で、 その国さらに米軍のその、ま、どうやら ここってあの、ま、島の効果訓練、例えば 離島に空艇が降化するのに現代も使われて いたり、離島に降化するように使われてい たりとか、あと空母の空母と同じサイズの 滑走路がここにあるんですよ。で、その 空母に着干するような練習をやっていると 聞きましたね。はい。 こっから見ると本当に綺麗な街ですね。 過去に悲惨な戦争があったとは思えない ぐらい綺麗で 青い弓にそして、え、パネルをはねたよう にタイルカラフルなタイルをはめたように 畑とか農作地方値とか混じり合ってすごい 綺麗な色を出しています。 バイバイ。グ山 ちょっと雨降ってきたな。もしかしたら 逃げるかも。 話は変わりますが、家島で亡くなっ有名な 米軍の記者がいます。アーニーパイルです 。沖縄線が回線した際に日本軍は水際での 戦闘を選択せずに沖縄本島での陸戦を選択 しました。空爆射撃を沖縄の剣な自盤に 潜りやり過ごして奇襲やゲリ線のできない 水際での戦闘を避けたのです。そのため アメリカからしたら想定を超えてはるかに 簡単に上陸できたことになります。特に ノルマンディ上陸作戦にも同行した アーニーパイルにとっては快適な作戦に 感じたと思います。無傷でアメリカが上陸 できたことをまるでピクニックのようで あったと書き残しています。アーニー パイルは家島線で日本軍から基重を受け 亡くなっています。そのためアーニー パイルが戦士した場所に立てられているの が家島にあるアーニーパイルの日です。 なんだろう。OSDコンパウンド家島 レンジ 射撃症だと思うんだよな。 OSEコンパウンドイレンジとは?OSE はアメリカの国防省だったらしいですね。 レンジは広い空間、細長い空間を示す単語 であること知っていたんですけど、あの 飛行場を示しているとは知りませんでした 。初めはアメリカ軍の射撃場だと思ってい ましたからね。昔のあれだ。 直するとアメリカ国防省の復合走路ということになります。 現代のアメリカ軍が使用している活走路のことらしいですね。なるほど。 アメリカ軍は1945年の4月に6 日間日本軍と戦い家島で戦闘、そして勝利をしました。 そしてこの飛行場を選拠し、自分たちの 本土攻略の攻撃拠点にしたわけです。 ちょっと走ってみようと思います。ちなみ にここは立ち入りが可能で、ま、なんか 可能で方法的にも問題がないようです。 ただ道路扱いではないみたいです。遠くに はほら島が見えます。 戦前家島には主に日本軍が作った3本の 滑走路がありました。家島の飛行場は沖縄 線直前の昭和19年に日本軍が整備した 滑走路路が全進となっています。その3本 の滑走路は米軍の沖縄上陸木前の昭和20 年3月10日らの手で破壊滑走路には無数 の溝や残が刻まれました。そのうち1つは 東走路。現代では家島空港となっている ところです。1974年の海洋博覧会期に 解説されて運行となりました。家島空港は YS11も飛んでいたようです。しかし、 1977年になり運行便は運行を停止、 現代は小型機の訓練やチャーター機、緊急 半送時などに使用されています。上駐職員 もいるらしいのですが、現役の空港には 正直見えませんでした。2つ目は中央 カ走路。中央カ走路はここの映像に出て いる米軍家島補助飛行場カ走路後地です。 一応現代も米軍の管理に置かれているもの の実際には滑走路としては使用されてい ません。現状回復がされないまま村民の 生活をしも利用されており基本的に自由に 出入りができます。周辺は工作地となって いますが一応米軍の管理の敷地で工作は 目認状態のようです。一応米軍の管理に あるということで道路交通法が適用される のか疑問なところです。3本目は西側 滑走路はフェンスに囲まれた米軍の敷地 内体にあります。2018年にはLHD デッキ、ランディングヘリコプタードッグ デッキと呼ばれる教習感の飛行カを持した ものが完成したため訓練場内の滑走路は2 本となっています。 さてお昼を食べてカメラを充電しました。 今は島の北側にある和ジという脇水の ポイントに移動しています。 ワージというのは島の貴重な脇水が出る ところなんです。家島にはありませんので 炭水は貴重なんですね。ブ山の症状から見 た時にあっちこっちに水がありました。 あれは多分農業用に使われるものだと思い ます。島の北海岸に位置し、水が湧き出る ことから湧く水と書いてワージと言います 。このワージは昔から島の大切な水源で あり、今日も島の陰形水として利用されて います。この場所は当時村人が岩間を通っ て水を行っていましたが、戦後米軍らの手 によって総水艦が設置され、くっそ便利に なり、水不足も解消しました。よくある 戦後のアメリカ有能エピソードですね。 現在家島の水はこのワージと沖縄本島の 元部からの総水によって賄われています。 このワージ一体は60を超える段外絶壁が つまり、塩の感長や空の色によって様々な 姿を見せ、家島の景観を見せてくれます。 共 来ましたわ。 確かに昔米軍が作ったって言われるぐらい なんか古い感じがしますね。 はい。ワージに着きました。昨日潜った海 がありますね。とても綺麗でした。うお。 ああ、魚の死骸。 歯がめちゃくちゃリアル が落ちてますね。で、ここに、ここから 島ず1の脇水が出ていたらしいんですけど 、ま、今この通りコンクリートで固められ ています。ちょっとこのコンクリートの 構造物、ま、なんか 第2次世界大選がしますね。そしてなんか これ多分ね、この石が落下してきて多分 戦後すぐにあったと思われるこの建物 っぽいやつ。ま、これ以上行くと危ないん で行かないですけど。建物っぽい瓦礫ま、 建物を潰してますね。 鉄筋が入ってないかな。あ、入ってるか。 敵入ってるか。でもだいぶ古い構造物で あるのは確かですね。この下掘り返したら 色々面白いものが出てきそうなんですけど ね。で、多分この果で、え、村あたりに 遭水をしてるんでしょうね。 ま、ただ今家島の事情は もう元部から水を食ってもらっているんで 、あんまり困ってないっていう風に言われ ていますね。 家島の環状線を進んでいます。とても綺麗 な道で気分がとても爽快になります。今 から覇車川に向かっています。 前の軽トラックが時速30kmの原付 バイクである自分に道を譲ってくれました 。非常にのどかで気持ちのいい光景でした 。 ああ、超気持ちい。 あ、発車。 覇者川1945年米軍が新軍した当時、え 、ここに、ここであの沖縄県のその集団 事決があった場所とされています。えっと 、防衛隊員、あの、ま、その陸軍の兵士と 、あの、現地で聴収したその、ま、防衛 隊員島の防衛隊っていうのがいるんですね 。防衛隊の方がここで爆雷という、ま、 比較的大きい爆弾と思ってもくださっても いいんですけど、その爆雷をここで爆発さ せて150人の方が亡くなったというお話 があります。で、生存者は20名だ。多分 170mかま、そんぐらいいたんだろうな という感じです。で、ここのあ、アシャガ はあの戦後すぐに掘り出しを行われずに 戦後は埋まったままだったそうです。で、 埋まったままで異骨回収は15、1970 年に1970年頃に異骨回収を行ったとさ れています。 出しかここら辺とか火炎歩射機とかで戦闘 中にやったから焦げてるのかなとも思った んですけどどうなるのかその辺はちょっと わかんないですね。ただ上の方がけて見え てみ見えるのはやっぱ火炎放射で戦った 可能性もあるなってちょっと思ってます。 ま、やっぱりこの辺来るとちょっとこう念 を感じますね。 しい空気を感じます。 やっぱりあの 戦いに曲げてその原住民に自血をしら なければいけない状況っていうのはやはり あの軍にとってももちろん国にとっても軍 にとっても相当なもう負けいくですよね。 もっと住民を巻き込まない戦いができ なかったのかっていうのは思いますね。今 から80年前アメリカに捕まったらそれ こそ補助になって何をされるかわかんない とやっぱ言われてたのでそれが嫌でみんな やっぱこうやって集団自血をしてい るっていうのもやっぱあると思いますね。 うん。そういう洗脳みたいなのって 恐ろしいなって思っちゃいますね。 みんな豪の中心に集まって家族後と並んで 防衛隊の人が爆雷の神刊をパーンと押し ました。 すると豪の上の壁が崩れて石がバラバラと 落ちてきてみんなもう死んだと思いました 。気がつくと自分は生きていました。 続いては方の塔へ向かっています。 高校の党は沖縄線で犠牲になった党民と軍人 3500 人が祭祀。家島での戦闘は沖縄線の典底的な事例とされ、沖縄線の祝と言われています。 その縁は戦闘の試列さや大な住民生最も早い時期での非向上建設住民の疎会調用と勤奉士空衆と観光射撃防衛隊友隊の戦闘参加などが挙上げられます。 そのため軍人2000人と住民1500 人と多くの犠牲者が出ています。黄の党はそれら早 3500人が合されています。 反戦平和資料官バナ子官長は 方向の塔について次のように話します。 昨日反省 この家島に日本の国は戦争準備をやったんだ。 うん。 家一見1 本残さず総全滅になったらこの家島だ。だから未だに国を恨んでます。 はい。 私は昭和の初めの人間だ。 戦争準備から生きてるから戦争とは罪も ない人間を片っ端しから殺して勝った負け ただ。これは悪魔の政治だ。力いっぱい 怒りを持ってます。家族全部殺された。 で、家島に戦争で殺された門がちょうどあのナ那覇の石と同しあ、 やっておられるからなんとか営島に来たならばそこまで行ってもらいたい から今まで私も今度初めて言ったからこれは観光だけではすまんぞと いう風なことを感じた 同じが10名も14 名もみんな並んで殺された一家族 が一緒に展示されてるわけ。 だから見たからさらに怒りが出た。昭和の初めの人間だ。戦争準備から来て現在にいるということは殺されたあの状態なんか来たら怒りしかない。 うん。 住みもない人間を殺したというのは何があるか? 確かに理事長さんが言う通り同じあの名前がいっぱいありましたね。 同じ苗字の 名前がいっぱいあって、で、やはりそれは 集団事の 、ま、実際あったっていうことらしいん ですけど、確かに信憑性がありました。 家族、ま、大体昔の家庭だと、ま、8人と か6人兄弟とか多いかもしれないですけど 、今ざっと見ただけで6人なくなってたり とか、多い場合だと8名いない場合があっ たりとかありましたね。日本陸軍の命令で そうやって住民が自血を余儀なくされた。 そういった事実はやっぱり繰り返しては いけないとはやっぱ思いますね。軍人が やっぱり目的のために守るべき一般市民を 殺さなんてやっぱり会ってはいけないこと ですからね。ま、当時は陛下のいるこの 日本を守るっていう大きな目きがあったか もしれないですけどね。それでもやっぱり 住民が助かる道ってなかったのかなって 思っちゃいますよね。 最初出発した港まで戻ってきました。最後 になりますが、実際に撮影したロケ地に 行ってみようと思います。 例画公開間近であるので島にはロケチは あちらですと書かれた看板がいっぱい立っ ています。それを追ってみようと思います 。そこに撮影地であるガジ丸がありました 。 ここから水 さて見覚えのある景色はあるかな? さて 水園に引きました。ここに撮影のロケ地が あったとされているんですけどね。あ、 やべ、見つけたかもしんね。 昨日レンタバイクのお兄さんから教えて もらったところは確かにこの公園のこの辺 だという話だったんだけど 話でしたね。あ、ちょっと待って。なんか 書いてある。 うん。 あった、あった。看板かった。 中に入れます。 ここか。 はい、入っていきます。 こっちって書いてあった。ああ、これ、 これっぽいな。これだな。こ れっぽいっつか。多分これだな。 ここで撮影してたんだ。 あ、 木の上にカンカラがある。 ああ、間違いない。ここで撮影したんだ。 うわ、クソでけ行くもでかすぎだろ、お前 。 間違いないね。ここだね。 これ木の上乗ってみたとかやっていいのか ?いや、だめか。 うん。え、というわけで1日かけてこの ガジ丸にたどり着きました。もう本当ね、 映画見たまんまです。見たまんまでした。 はい。で、このガシュマロなんかさっき あのお姉さんがここで写真撮りに来てきて て、あの世間話したんですけど、これ2本 、2本を組み合わせてこの巨大な木のよう に見せかけているっていう話でしたね。 確かに近く寄ってみると切り込んだ後が あってであ、なるほど。これで1本で 合わせてあるんだなっていうのが分かり ます。で、ここ見てみると映画のファン サービスなのか上のそのま、なんだろう。 つ慎司さんが寝てたあのベッドにしてる ようなあの板 の板をこうやってスノコ場にしてあるやつ がまだ残っててであとあのカラ明りにして たカラもそのまま残ってますね。で映画の 雰囲気本当にそのままでしたね。はい。 ファンサービスなんでしょうね。で、なん か下に、下になんかこう 缶詰の缶が落ちてて、で、あれもあれ、 これ映画のやつかなと思って見てたんです けど、何も書いてなかったから、もしかし て不法登記なのかなと思いつつちょっと 撮ってみました。何なんな?何なんだろう なあれ。はい。ま、木の上の軍隊、あの、 ま、本土では朝言った通り7月の25日か な。結構だいぶもう先なんですけど、先っ つってもあれか、この動画が出るぐらいな んですけど、あの、ま、本当にいい映画 ですので、あの、是非見て欲しいと思い ます。もちろん、あの、戦争の悲惨さが あって、で、その悲惨さや悲惨さやあの 過酷差の中にやっぱりあのコミカルな部分 がやっぱ出てくるわけですね。そこを うまくあの伝えてる映画だなと思いました 。ま、僕は絶対に経験はしたくないです けど、あの2人の山田さんと罪しさん、 えっと、私と城官のその中がどういう風に 変わっていくのか、装備とかも含めて、 外見も含めてどういう風に変わっていくの かっていうのをあの見ていったら楽しいの かもしれないですね。うん。 そもそもこの話は井上久しさんが書いた 舞台劇ですが、元の話は若干異なるパート もあるようです。 動画では映画の撮影で使われたガジ丸には 行きましたが、実際に2人が隠れていた ガジ丸があるはずです。そうあるんです。 三井公園を少し登った民家の道路脇きに ガージ丸というガジ丸が植えてあります。 この木が木の上の軍隊2人が登った木なの かって思いますよね。以下看板に書かれて いた文字をそのまま記述します。 西洋戦争でウ市出身の佐田さん、当時28 歳と宮崎県出身の山口静尾さん、当時36 歳の2人の日本兵は母国の敗戦も知らずに 先中戦後2年間 1945年の4月から1947年の3月 まで米軍の目を逃れて周囲にあるガジュ丸 で受情生活を送った。厳しかった事情生活 の様子はマ辺かず子直1991年8巻の ugず宝木の上で暮らした2年間に記され ている 宮崎県出身の山口静尾さんは最初この ガジ丸に身を寄せていましたが米軍の銃弾 を受けて破風風にかかり意識猛老となり木 から落ちそうになったのをさ田さんが 気づき別の場所に隠し食事を運び、一面を 取り止めました。2人が近くにいると米に 見つかる確率が高いと判断し、山口さんは 別のガジュ丸に移り、生き残ることはでき た。現在そのガジュ丸は存在しない 2023年9月。調べてみると、なんと 2023年にモデルとなった山口さん、 さんが実際に登っていたとされるカジュ丸 は台風で投北していたのです。しかも気に なる教述が。2人が近くにいると米に 見つかる確率が高いと判断し、山口さんは 別のガジ丸に移り、米軍の目を逃れて周囲 にあるガジ丸で路上生活を送った。現在は そのガジ丸は存在しない。2023年9月 。以上のことを整理すると映画のように1 つのガジュ丸で暮らしていたわけではなく 特定のエリアで複数のガジュ丸を点々とし て暮らしていた。映画のように2人で1本 の木で暮らしていたわけではなく別の木で 暮らしていたということなのでしょうか。 そして気になるのはその木は現在存在し ないという記述です。気になって調べて みると2人が登って暮らしていたとされる ガジ丸は2023年の台風で投北していた のです。投北した後に上直しが行われた ようですが、猫倒れた2番カジ丸を再び 上直すことができたのでしょうか。どこの メディアでも植え直したという情報より 詳しく記述されていませんでした。気に なって家村役場の観光症候家に電話で 問い合わせをしてみました。 そうすると以下のように怪が帰ってきまし た。倒れたガジュ丸は再生しませんでした ので他のガジュ丸の木が植えてあります。 木の上の軍隊のロケ地である三水井公園に 埋めてあるガジュマロの1本をここに植え たそうです。現在そのガジュ丸は存在し ないということはそういうことなんですね 。さらにここにそもそも植えてあった2番 風丸。これは戦前からここにあったものな のでしょうか?役割の方にその質問をして みましたが、詳しくは分からないそうです 。ただミ水公園やカジ丸が植えてあるこの エリアはそもそも多くのガジ丸が自生して いて、2人はこの周辺で戦後2年を過ごし たと考えられるので、植え直された ガジマルの2人が過ごした可能性は十分 あります。 長い間ご視聴いただきありがとうござい ました。木の上の軍隊は面白いので是非 ご覧になってください。また家島も自然が 豊かでとてもいいところなので沖縄に いらした際は是非行ってみてください。
★以下、若干ネタバレになります
沖縄県の本部港からフェリーで30分、沖合方向9kmに行った地点に独特の山を持った大きな島があります。人口約4000人、周囲22kmと比較的大きな島は今から80年前の大東亜戦争末期、沖縄戦において熾烈な戦場になりました。伊江島は大東亜戦争末期、米軍の本土上陸が近いと危機迫った際に南方防衛の防空拠点として米軍の侵攻の約1ヶ月前まで飛行場が建設されていました。米軍は事前の偵察飛行でとっくの昔に伊江島に急ピッチで飛行場が建設されているのは知っているので、当然伊江島も明確な攻撃対象とされました。一時は東洋一の飛行場を持つとされた伊江島ですが、結局大本営は伊江島の飛行場が奪われ米軍に利用されることを恐れて侵攻まえに溝や塹壕を掘って破棄しています。しかし米軍の国力を使えば破棄された飛行場を修復するのはあっという間だったといいます。本作品中で反戦平和資料館館長の謝花悦子さんは「家一軒も残らなかった」とおっしゃっていますが、これは極端に言っているわけではなく、伊江島が占拠された後に米軍が飛行場を拡大したので住宅が本当に一軒も跡形もなく残らなかったということがあります。
そんな悲しい歴史を持った伊江島ですが、伊江島で実際に起きた出来事をベースとした映画が2025年に公開されることになりました。木の上の軍隊です。作家・井上ひさし原案の傑作舞台を映画化したもので、舞台原作ということもあって厳しい状況の中でもシュールでシニカルな笑いがあり、楽しい映画となっています。舞台は1945年沖縄県伊江島。米軍が侵攻してくる前の伊江島で、上官と私が飛行場建設に従事しているシーンからはじまります。日本軍は南方での連戦連敗が続き、次は台湾か琉球なのか?という場面になります。映画では史実通り沖縄の硬い地盤を爆破しながら作った飛行場を破壊するシーンも出てきます。大本営は沖縄での防空は諦め、米軍に強力な飛行場を提供することになるので、伊江島の作った飛行場の破棄を決定したのでした。
空爆や艦砲射撃によって始まる戦闘パート。激しい戦闘が展開される中、2人の日本兵が命からがら木の上に身を潜めます。その木が今回の映画の中心的なロケ地であるがジュマロです。ここで2人は2年間援軍が来るのをひたすら生き延びながら待っていました。ここからだんだん木の上での日常パートが始まります。上官と私が過酷な状況の中でだんだん変わっていく様は非常に丁寧に描かれており楽しかったです。そうして生き延びていくうちに、日本の敗戦を知らぬまま2年もの時間が流れ、2人は敗戦を知り、終戦後の日本に帰っていくというある意味浦島太郎のような物語です。そんな衝撃の実話が昔あったのですね。本動画にもさっくり出しましたが、このガジュマロの木は実在しており、2023年の台風で倒木しましたが、現在では植え直しをしてあります。
そもそもこの話は井上ひさしさんが書いた舞台劇ですが、元の話は若干異なるパートもあるようです。本動画では映画の撮影で使われたガジュマルには行きましたが、実際に2人の隠れていたガジュマルがあるはずです。そう、あるんです。ミースィ公園を少し登った民家の道路脇にニーバンカジィマールというガジュマルが植えてあります。この木がこの木が「映画木の上の軍隊」の2人が登った木なのかぁーって思いますよね・・・。以下看板に書かれていた文字をそのまま記述します。
★看板
宮崎県出身の山口静雄さんは最初このカジィマルに身を寄せ潜めていたが、米軍の銃弾を受けては破傷風にかかり意識朦朧になり木から落ちそうになったのを佐治田さんが気付き別の場所に隠し食事を運び一命を取り留めた。2人が近くにいると米兵に見つかる確率が高いと判断し、山口さんは別のカジィマルに移り生き残ることができた。
「現在はそのカジィマルは存在しない」
2023年9月
太平洋戦争でうるま市出身の佐治田秀順さん(当時28歳)と宮崎県出身の山口静雄さん(当時36歳)の2人の日本兵は、日本の敗戦を知らずに戦中、戦後の二年間(昭和20年4月〜22年3月)、米軍の目を逃れて周囲にあるカズィマールで樹上生活を送った。
厳しかった樹上生活の様子は真鍋和子著(1991年)「ぬちどぅたから木の上で暮らした2年間」に記されている。
なんと2023年にモデルとなった山口さん、佐治田さんが実際に登っていたとされるガジュマルは倒木していたのです。しかも気になる記述が・・・・。
「2人が近くにいると米兵に見つかる確率が高いと判断し、山口さんは別のカジィマルに移り」「米軍の目を逃れて周囲にあるカズィマールで樹上生活を送った」「「現在はそのカジィマルは存在しない」」
以上のことを整理すると、映画のように一つのガジュマルで暮らしていたわけではなく、特定のエリアで複数のガジュマルを転々として暮らしていた。映画のように2人で一本の木で暮らしていたわけではなく別の木で暮らしていた。
そして、気になるのはその木は現在存在しないという記述。調べてみると2人が登って暮らしていたとされる木「ニーバンガズィマール」は2023年の台風で倒木していたのです。気になったので調べてみるとどうやら倒木した後に植え直しが行われたらしいです。しかし、根こそぎ倒れたニーバン ガズィマールを再び植え直すことができたのでしょうか?どこのメディアでも「植え直した」という情報より詳しく記述されていません。気になって伊江村役場の観光商工課に電話で問い合わせてみました。
「倒れたガジュマルは再生しませんでしたので、他のガジュマルの木が植えてあります」との回答をいただきました。木の上の軍隊のロケ地であるミースィ公園に生えているガジュマルを一本ここに植えたそうです。現在そのガジュマルは存在しないとはそういうことだったのですね。さらにここにそもそも植えてあったニーバン ガズィマール。これは戦後ここに植え直されたものなのでしょうか?役場の方にその質問をしてみましたが、詳しくはわからないそうです。ただ、ミースィ公園やニーバン ガズィマールが植えてあるこのエリアはそもそも多くのガジュマルが自生していて、2人はこの周辺で戦後2年を過ごしていたと考えられるので植え直されたガジュマルの木にも2人が過ごした可能性は十分あります。
戦争の悲惨さを描きつつ、2人の関係をシニカルにコミカルに書き切った傑作映画「木の上の軍隊」ぜひ劇場でご覧ください。
(2025年7月19日)
04:32~本部港から伊江島港へ
まずは伊江島へのアクセスについて説明したいと思います。伊江島へのアクセスは沖縄県北部の本部、ここは美ら海水族館のあるエリアだと思っていただいても大丈夫です。那覇からバス、車で約2時間です。那覇空港、県庁前からも高速バスが何本も就航しているので、非常に便利です。フェリーターミナルに入ってみましょう。マスコットキャラのたっちゅんが出迎えてくれました。たっちゅん気に入ったので帰りにタオル買いました。うわさ話で聞いたのですが、伊江島は予算に比較的恵まれていて、フェリーも関連する施設もきれいらしいですね。料金は片道720円、往復で1370円です。通常運行時は一日往復便4本就航しています。午前九時出港、その日一番早い伊江島へのフェリーに乗りました。瀬底大橋の橋脚ごしに伊江島が見えてきました。旅の情緒を感じさせる一コマでした。伊江島の城山は沖縄戦の際に麓に日本軍が陣を構えており、おびただしい数の艦砲射撃、空爆を食らったといいます。城山は島の中央やや東寄りにある標高172mの岩山です。タッチューとも呼ばれ、古くからとう民から親しまれている伊江島のシンボルです。えぼしを思わせる独特な形から古くから近海を航海する船が目印にしていました。
②07:55~公益質屋
公益質屋は、海とグスク山の間にあります。先ほどの話で、グスク山の麓には日本軍の陣地があり、米軍の激しい攻撃を受けていました。このため公益質屋は、海のある南側の壁面に、大きな砲撃の跡、受けた無数の弾痕が、今も生々しく残されています村は、傷ついたこの建物を公民館の隣に遣すことで、平和学習に役立てています。
③13:22~城山
島の中央やや東寄りにある標高172mの岩山。イージマタッチューとも呼ばれ、島民から親しまれている伊江島のシンボル。
④21:45~米軍伊江島補助飛行場滑走路跡地
話は変わりますが伊江島戦で亡くなった有名な米軍の記者がいます。アーニーパイルです。沖縄戦が開戦した際に日本軍は水際で戦闘を選択せず沖縄本島での陸戦を選びました。空爆、艦砲射撃を沖縄の堅牢な地盤にもぐりやり過ごして、奇襲やゲリラ戦ができない水際での戦闘を避けたのです。そのため、アメリカからしたら想定を超えてはるかに簡単に上陸できたことになります。特にノルマンディ上陸作戦にも同行したアーニーパイルにとっては快適な作戦に感じたと思います。無傷でアメリカが上陸できたことを「まるでピクニックの様であった」と書き残しています。アーニーパイルは伊江島戦で日本軍から機銃掃射を受け無くなっています。そのアーニーパイルの戦死した場所に建てられているのが伊江島にあるアーニーパイルの碑です。
【OSE compound IE range】 とは
OSEはアメリカ国防総省だったらしいです。レンジは広い空間範囲を示す単語であることは知っていたのですが、飛行場を示しているとは知りませんでした。はじめはアメリカ軍の射撃場だと思ってました。直訳するとアメリカ国防省付属の複合滑走路ということになります。現在のアメリカ軍が使用している滑走路のことらしいすね。
戦前、伊江島には主に日本軍が作った三つの滑走路がありました。
伊江島の飛行場は、沖縄戦直前の昭和19年に日本軍が整備した3本の滑走路が前身となっています。米軍の沖縄上陸を目前の昭和20年3月10日、自らの手で破壊。滑走路には無数の溝や塹壕が刻まれました。
一つ目は東滑走路。現在では伊江島空港となっているところです。1974年の海洋博覧会を機に開設され運行されていました。伊江島空港ではYS11も飛んでいたようです。しかし1977年になり定期運航便は運用を停止、現在は小型民間機の訓練、チャーター機、緊急搬送時などの時に使用される。常駐職員もいるらしいが、現役の空港には見えませんでした。
2つ目は中央滑走路は、「米軍伊江島補助飛行場滑走路跡地」です。一応現在も米軍の管理区域に置かれているものの、実際には滑走路として使用されていません。原状回復されないまま、村民の生活道路としても利用されており、基本的に自由に出入りできます。耕作地となっていますが、一応米軍管理下の敷地で黙認状態だそうです。
西滑走路はフェンスに囲われた米軍の敷地内にあります。2018年には「LHDデッキ」Landing Helicopter Dock デッキと呼ばれる強襲揚陸艦の飛行甲板を模したもの。が完成したため、訓練場内の滑走路は2本となってます。
⑤27:47~湧水(わーじ)
わーじというのは島の貴重な湧き水が出るところのことです。伊江島には川がありませんので淡水は貴重なんですね。だから島中に貯水池があったんですね。島の北海岸に位置し、水が湧き出ることからわくミズと書いてわーじといいます。昔から島の大切な水源であり、今日も島の飲料水として利用されています。この場所は当時村人が岩間を通って水を汲みに行っていましたが、戦後米軍らの手によって送水管が設置されくっそ便利になり、水不足も解消しました。よくある戦後アメリカの有能エピソードですね。現在、伊江島の水源はこのわーじと沖縄本島の本部からの送水によって賄われています。このわーじ一帯は60mを超える断崖絶壁が連なり、潮の干潮や空の色によってさまざまな姿を見せ、伊江島随一の景観を見せてくれます。
⑥31:33~アハシャガマ
⑦36:05~芳魂之塔
⑧39:48~ロケ地
⑨45:00~ニーバンカジィマール