【戦後80年/昭和百年】終戦後にモンゴルで抑留された山田秀三さん(107)

【戦後80年/昭和百年】終戦後にモンゴルで抑留された山田秀三さん(107)

[音楽] 守れるとこはね、え、大体 70 のこと言いますけどもね、寒であるということね。 い されて、え、ものない国ですわにもないん。 うん。うん。 交通の便もあんまありますね。ね。 はい。70 年前のた行の行った時の状況をうん。だからね、今パのになったけどまず寒いと 寒い
ね。もで寒い30°あるんですよ。 そ、そこ、ま、それに、え、された時は私の学された時はね、え、あの、え、あ、いや、そ、研修いや、そ、その話から言わあかんけど ね。九州の飛行場のた あね。 うん。飛行場のった。飛行場のって終われたわけ。 その飛行場へ全部あの終集まってた。 あれ、あれ理そん時それでそこで全部武装書解除も取ったね。あった。 [音楽] それと全部帰て山戦車はこういろんなもがそこの山中とあ あ、それでま、あの先生は終わってこれであったでどうなもんかな思っておでてそれがそれがねもんだからまの 列子が張ってきたね。 その列車に鮮命部隊にお、え、その天士の 集合しただけね。解除されたもんがね。 うん。それは鮮明なるま 、ま、帰るなと思った。うん。 マンデの信用
信用ね。 その来たところがね子供に とかそういうもんが乗ってこて車これです ね。うん。車 あ違になった
あそろ日本買われないなと。 うん。うん。いうことで分かった。うん。 そこでされた。うん。うん。うん。そこで された。うん。全部だ。それからえ、北 からされたらどうな松 の林の中をね12月の初めやったわ。あれ かされた。その松県が終わってね。終わっ たら今度に出てきたわ。え、草原に出て たらそたら引いても守る引いたとこだ。 うん。 うん。もりてり上に捕まってそ。それでそれまただんだどんどん荒がされてあれまた荒れかされ食料も何年がまだ荒れかされたで楽者おる。 俺はね、ま、でね、あれありけ言われ、それで大ぶな何で行ったもんからね。何百さんわからんけどそこ下ろされたん うん。 下ろされたらどうなったかたれた野菜造がこっち離れたね。 その野菜で全部入れられてなら別に野菜いた真らけのもんのあそ食料はどうなる?スが食料はねあ、また当たら負けうん。 [音楽] そ、困っちゃんのはね、あでごからその穴中におった。 ね、その穴中にて帰れてないや。水がないもんだから ね。だから水はないわ。そ、せべはないわ。それでその交流を飛んでまたどにかこにかあがだけ取ってそれが 5まで
うん。 その野菜とこで食料は許ないけどあのええ中国から受れた後乱とあの文句の落のあの蝶の はい。
うん。うん。それが出しになって 25歳のねえ秋の男やったわ。 [音楽] なくなった。
うん。Ja.

中国東北部・錦州の飛行場で終戦を迎えた富山県南砺市の山田秀三さん(107)は武装解除後、貨車に乗りハルビンからソ連に連行された。貨車がモンゴル国境近くに着くと降ろされ、何十キロも歩かされた。待ち受けていたモンゴル兵に引き渡されると、飢えと極寒、重労働のモンゴル抑留が始まった=取材:東京本社社会部 戸田貴也、撮影・動画編集:東京本社写真部・加藤学 2025年7月1日公開

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