(62)【日本一周修学旅行】三島に残る源氏と北条の足跡《伊豆》

(62)【日本一周修学旅行】三島に残る源氏と北条の足跡《伊豆》

おはようございます本日は5月10日の 土曜日現在地は三島大社の前に来ており ます今日は雨が降って何もできないかなと 思っていたんですが意外にね雨が降ってい ないので活動を開始していますこの三島 大社の目の前にある現在渡っている道が旧 東海道昔から東海道を通って旅をする人々 はこの三島大社に立ち寄っていましたこの ようにたくさんの人々に進行されていた この三島大社ですが今日はねどんなテーマ で歩いていくかと言いますとここに書いて ます港本の代友や北条正子そして東場吉 関連の指跡を巡っていきますこの伊豆の国 は本の代友が兵を倒して現事を再するため に拒兵した場所そもそも誤が誰なのかと いうのを確認したいんですが中に入って いってもご有意の看板がまだ見当たりませ んね経をぐるっと回ってみましたが ちょっとご有意志の看板見つけれません でした後頭で説明しますとこちらの三島 大社には小代主と大祭の2つの柱がれてい ます今年代主に関してはその名前よりも 恵比寿さんという名前の方が有名だと思い ます両の神様ですねそして大山は今回の 旅行では島街道の大島訪れましたがそこに あった大山神社あそこの神様です現在僕が いるこの三島大社のすぐ近くに伊豆の国の 国分寺があったということが知られており ましてまあ立性のもではこの周辺が伊豆の 国の中心地であったということが分かって います奈良時代や平安時代にはこの周辺が 伊豆の国で最も栄えている場所だったん ですそんな平安時代の末にこの伊豆の国に 島流市にされてきたのが本源のよと彼が 流されてきたのは伊豆の国の中でも大体 この辺りだったんですが本源の代友は現事 最高を夢みてこの三島大謝に何度もお参り をしたという風に言われていますなおこの 三島大はよ友が実際に弊する際にも関連し ている場所でして挙兵した日にはこの三島 大社ではお祭りがあっていましたよ友に 敵退していた人々というのはこの周辺に いっぱいいたんですがそんな人々がこの 三島大社のお祭りに出かけていきましてで いろんなことをやっているその隙をついて 彼らの屋敷を襲撃しに行ったんですとこと で今回はこの周辺を歩いてのより友が拒 するまでの即を辿っていきますそれでは 三島大社を出発向かっていくのはより友が 流された先である昼が小島ですさっき地図 で見た通り三島大社から南に少し離れた 場所に本のより友は流されましたでも当時 の道路事場で本源の代友が三島大者にお 参りできるということを考えるとそこまで 離れていないというのが分かってくると 思いますそもそも本源本の代友は京都周辺 に住んでいたんですがなんでこんな場所に 飛ばされてきたのかと言いますとより友の お父さんであるよ友ですね彼が平の清思い と戦った兵ジのラという先乱があったん ですがその線乱に源の吉友よ友は破れて しまいまして吉友は処刑されたんですが よ友はまだ子供だったため平の清森の義の 母がこんなに小さな子供を殺してしまうの は良くないから島流しにしようという風に 提案したところ平らの清森が確かにそうだ という風に思いましてよ友は伊豆の国に 島流しになったんでした当時の罪人は立用 に基づいてさかれまして地上ずしという5 つのバツが適用されていきます1番重い バツというのが死刑ですがその1個手前の ルケですねまいわゆる島流の系これがより に適用されて現在の伊豆に飛ばされてきた んです武ケの中にも3つ分類がありまして 金チュールオンルというま近いところえ 中くくらいの場所そして遠い場所みたいな 感じの分類があるんですが伊の国というの はオルですので本当に死刑一歩手前という 状況だったということが分かるでしょう 当時の伊豆の国と言うと本当に田ぼしか ないような場所だったと思いますから生活 も結構難しかったんじゃないでしょうか しかし現代の我々からするとより友が後に 兵器を滅ぼすということを知っていますの で平の清森の人生最大の失敗というのは この寄り友を資材にしなかったことと考え てしまいますさあ到着しましたこちらが 昼が小島です 現在では昼ヶ島公園と呼ばれているらしく 説明の看板がありました港本源の代友は 14歳の時兵ジのに破れ伊豆に入慮され ましたその後20年間人として過ごしまし たここ昼ヶ島はより友がル人生活を送った 場所と伝えられています昼ヶ島という名前 から島なのかなと思っている人も多いかと 思いますが現在はねこんな感じで部屋が 広がっているその中にポツンとある場所 です地図を見てみるとここにね川が流れ てるのが分かると思います現代では川は 同じ場所にずっといますが昔はねそんな ことはなくいろんな場所に川が移動してい ましたなのでこの周辺も多分川がこの辺り にあった頃に島になっていたんでしょう友 がいた頃に島だったのかそれとも昔の地名 が残ってそのまま島と呼ばれていたのかは 分かりませんが多分この周辺に昼が いっぱいいる小島があったんでしょうね こんな島に今日の都から流されてきた人と いうのが本のよ友で左にいるのはより友の 妻である北条正子横には説明の看板があり ました昼ヶ島の2人自称元年本の代友が 31歳正子が21歳の頃2人はこの地で 結ばれましたとはいえ当時の源のより友と いうのは罪人でここにやってきた人物です からこの放城ま正子の父である時はそれに すごく反対しますそんな反対を押し切って この放条正子は本のより党と結婚若い頃 から結構気が強い女性だったんでしょうね 後に日本で初めての幕府を開き日本の歴史 に大きな影響を与えていった本の寄り友 ですが彼の出発点とも言える場所というの がこの場所だったのですさて法条正ま正子 と結婚することになったよりですが法城師 というのはそもそも何かと言いますと法城 師というのはこの周辺にいた武士でした 兵士に味方していたんですが現事の東領で ある源の代友と結婚し決縁関係になったと いうこともありましてよ友はその後こちら にあります法条士の館この周辺で生活して いったという風に考えられていますという ことで次は北城市の館があった場所へと 移動を開始北条ま子が館から出て源のより に会いに行くことができるそのような距離 ですので全然離れていません目の前にある 山の麓にあるのが放城市の館跡です山の 麓元までやってきましたこの辺りが北城市 の館があった場所館跡がある場所まで 川沿いを少し歩いていきますすると広い 空き地のような場所に到着しますこの空地 のような場所が北城市が伊にいた頃に拠点 としていた場所奇跡北条士低跡です現在で はただの空地のようになっているさっきの 場所ですがおそらくこれが発掘調査が行わ れた際の画像たくさんの柱の跡が見えます せっかく来たんでちょっと歩いてみ ましょうか数年前に北城時2台出験ですね 彼の大ガドラマがあっていたのでその時に は多分たくさんの人々が訪れていたん でしょうけれどもう大ガドラマが終わった 後ということもありまして人は1人もい ませんね見た 感じに地中に埋まっているっぽくってま穴 が開いていたから素席じゃなくって ほった柱式の建物があったんでしょうね 素席を置くような復現というのもできない んでしょうこの周辺の前盛紀は12世紀末 から13世紀初めにかけてで源の与い友の 挙兵から鎌倉幕府が成立する頃ああ なるほど源本のよ友が力をつけていくのと 同じように包城士も力をつけていきそして この周辺にあった館もどんどん広がって いったんでしょうこの絵には思わせぶりに 赤い丸が2つあったんで何だと思って上の 方見てみると白調査で見つかったお道池 などのフレームの身を示していますガラス 面赤印と現地の食いを重ね合わせて くださいこれの奥の方見てみたらま確かに ここにね悔いがあるんですよこれが右側の クいでこれが左側のクいなかなか合わせる のが難しいんですが多分当時の光景という のはこんな感じだったんでしょうここに 高校生が書いたイメージ図があるんですが 僕が見ていた方向というのはこうですね こっちの方向から見ていますどうやらうん お掘りがありますので典型的な武器屋敷の 作りをしているようですああなるほどこの へこんでるのがそのお掘りかはいはいはい うちに法上というのは鎌倉攻めによって 滅亡してしまいますのでその後に法城一族 の女性がこの辺りまで帰ってきてお寺を 混流したそうですそのお寺があった場所と いうのがこっちの方だそうでこれもまた 向こうにあるを合わせてみると大体昔は こんな感じだったんですよというような 光景が見れます現在の光景を見てももう何 がなんだか分かりませんが何にせよ鎌倉 幕府が成立する前の段階の歴史というのが ここに行きづいていますのより友が拒兵し た際にもこの法城子の館で準備を行ったと 言われていますのでより友の戦いが始まっ た場所とも言えるでしょうしかし本源本の より友はルになった罪人ですので大義名文 がないとただの氾濫扱いをされてしまい ますそんなより共もに大義名文を与えたの が兵気追を命じる持事でした持というのは 誰かと言いますと当時政治の中数で権力を 持っていたゴ白川法王の息子でした本の友 が伊豆に流されている間中央つまり京都の 方では兵一問が力をつけておりまして兵気 1問でなければ人ではないというほどの 権力を握っていましたそのような兵によっ てゴ白川法王は有平されるというような 事件まで起こっていましたのでそのような 状況を良しとしなかったは兵の追を命令 するそういった文章をよりに届けていった のですこれはより友以外にもねいろんな 現事に届いていますこうして大義名文が 整ったため友は弊まず1番最初に向かった のが山木金たの館でしたこうしてお話は 今回の動画の1番最初に戻ります山の屋敷 というのは大体この辺りにあったという風 に言われているんですが現在確認してみる と現在はここですねここがより友が拒兵し た場所で山きの屋敷を攻めるという風に なりますとねできるだけ軍勢が少ない時を 狙った方がいいんですよということでこれ 地図には乗っていないんですがこの北側の 方ですね三島大社のお祭りがあっている日 を狙いまして山の屋敷をここから攻めて いくというのがよ友の拠兵ですその後よ友 はすぐに京都に登っていくのではなくまず は現事の拠点として知られていた鎌倉を 目指しますということでぐるっと回って 鎌倉に到着鎌倉に入ったより友はいろんな 戦いを経て最終的に兵が暖の裏にて滅亡し ますこうして鎌倉幕府が開かれることに なったのですそれでは北上低後を後にし まして山の反対側に向かっていきます北城 市の館があった場所ということもありまし てこの周辺には北城子に関連するお寺が あるんですそのお寺というのがこちら 頑丈樹です頑丈樹にやってきたんですが 驚いたことにあそこに多分野生ですよね鹿 がいますよ別に繋がれている気配もあり ませんのであれは野生なんでしょうねここ には説明がありました 頑丈時代初期北条時正によって双建された 事員です鎌倉時代の歴史書阿鏡には本の より友の欧州平泉攻めの成功を祈願して 混流されたと書かれています 州積み詰めというのは何かと言いますと この東北地方周辺を支配していました欧州 藤原市彼らが独立した権力を持っていまし たのでそこに入ってきたよ室を生という ような名目でこの東北地方に寄友が攻めて いったことです現在の頑丈順位は結構 小さくなってしまっていますが昔はね ものすごく大きいお寺だったと言われてい ますこの伊豆の国は戦国時代になりますと 伊勢葬水いわゆる法条総運彼によって攻略 されていきますのでその際に戦いに 巻き込まれて焼けてしまったようです見た 感じ本殿はコンクリート作りでしょう さっき言った北条士の館があった場所と いうのは元々ホテルがあった場所だったと かあとはこの頑丈のですねえこれは北側か 北側の方向には上土式庭園がありました けどそれは昭和の台風で埋められてしまい ましたとかいろんなことをガイドの人に 教わりましたちなみにここには初代疾場時 のお墓もありますこの周辺が港本の代友の 第1歩が始まった場所だったのです

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4 Comments

  1. 数日留守にしており、丸竹夷さんの動画を贅沢に一気見しました。頼朝、政子の歴史、西日本からではなかなか見る機会がなく、良いですね!伊豆も行ってみたいです。

  2. 大河ドラマ放送時には観光客で賑わっていたのでしょうが、今は落ち着きを取り戻しているようですね

  3. 私が観た大河ドラマと言えば「草燃える」の方なんですが北条政子さんはしっかりとされた頼りになるお方というイメージです。

  4. 北条氏邸跡もちゃんと残っているんですね。
    鎌倉時代初期のお堀は発掘の後の再現ですかね?いずれにせよ、800年以上前のそれがあったことが分かっているのに感激します。北条氏邸にあった重ねるパネルですが、史跡をわざわざ改造してレプリカを建てなくても当時の建物を想像できるので、とても面白いし良いですね。

    それから、頼朝とはだいぶ時代が離れますが、看板に見えていた韮山反射炉も個人的に気になりました。

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