尼崎中心部の商店街とその歴史

尼崎中心部の商店街とその歴史

阪神尼崎駅東の大物と西の出屋敷の間 つまりこの阪神尼崎駅周辺が尼崎の歴史的 な中心部になります近世の城下町にして 近代の工業都市そして現代のゴッサム シティ尼です 田辺子 尼崎は不思議な町であるのない町で特徴はと言われても口ごもってしまう南の浜川は工業地帯北久部は農地と住宅地大阪と神戸の間の通過都市私の感じで言うと尼崎も大阪のうちで向こう側を起して西宮市に入ると神戸弁になる 尼崎が特徴のない町なら日本に特徴のある 町なんてほとんどないんじゃないかという 気もしますがとりあえず田辺さんがいた 終ったということでしょうか 阪神電車の踏切りがひっきりなしになって そこから東へかけ闇市上がりの商店街が雲 の巣のように質 発達3話に行ったら何でも 揃うということで今回は阪神尼周辺の中央 商店街と3話市場を中心に回ります中央街 この商店街自体は戦後すぐにできたものですが ルーツは江戸時代以前の本町通り商店街にあります昔はこっちの本町通りが尼崎の中心街でした東町と西町の商店街がつがって全長 2km に及び神戸と大阪の間阪神では最大の繁街だったそうです 辰橋 あっちに渡ると大阪でこっち側西宮神戸 方面です この阪神高速3号線国道43号線沿いが昔 の中心街本町通りです今は昔のおかげは ほとんど消え去っています 室町の時代から戦前までずっと栄えていた ようです 江戸時代の家が一件奇跡的に残っています 当時はこんな立派な家が通り沿いに いっぱい立ち並んでいたんでしょう これは旧ヶ崎防石本社事務所現在のユです 明治23年の建築爆末から明治初期の さびれた浄化町が近代の工業都市に飛躍 する最初の一歩でしょう 本町ビル大正12年地区旧尼崎教立銀行 です 尼崎信用金庫記念館こっちも立派な レガ作りの近代建築です 明治30年代の地区大正10年に旧尼崎 信用組合の本社事務所になりました 商店街東側はこの桜井神社付近まで広がっ ていたそうです すぐ近くの日の出雨多分唯一昔の場所に 残った店じゃないかと思われます明治11 年の創業水雨のお店です持ち米を発酵させ て作られていて砂糖を一切使っていないん だそうです喉に良いということでお客さん には著名な歌手や話さんもいるそうです 尼崎の死偽舗の1つです 本町通り商店街は大米戦争の時代昭和20 年に暴空緑地を設けるために商店街の南側 部分が撤去されてさらにその後の空で完全 に消滅 八野原にポツンと商店街復興建設地の標が 立っていますしかしここに商店街が復興 することはありませんでした地は国道43 号線になり生き残った店の多くはこっちに 引っ越してきて昭和21年11月中央商店 街ができました 場所は変わりましたが歴史的には最も古く から続く商店街と言えるかもしれません 喫茶パこの辺は昭アロー喫茶店の方向でも あります 1964年昭和39年の3 番街日輪と向かいの時計宝石の大島が現存しています日林現代のカフェには絶対出せない重向きがあります [音楽] 780 年代ぐらいの雰囲気のセヌなんだか宝塚っぽい名前です じゃあこっちは神戸の北の坂辺たりにありそうなレトロ洋風の佇まいです はいます道はいえ関係もさんでしたありがとうございました [音楽] [音楽] から [音楽] の第ここ [音楽] なんかれたね栄養だここは大なんと日本最古のラーメン屋だそうですラーメン好きな人には有名なのかもしれませんが私は今回初めて知りました大正元念外国人地で創業 [音楽] ラーメンの呼び方としてはそばとラーメン の真ん中華そばの時代です あと当時の場所がちょっとすごいです旧 距離打ちの66番地今はこんな感じです 町のラーメン屋としてはめちゃくちゃ 間違いな感じです もしかしたら南京町の中国人や旧距離打ちの西洋人が多分に来たこともあったんじゃないでしょうか当時の彼らのラーメン表もちょっと聞いてみたい気がします大正時代から続いているラーメン普通の醤油味よりずっと濃厚な感じがありました 創業時から継ぎ足しで受け継がれたれが使われているそうです [音楽] え500回でえ打ち切りとなりますので [音楽] お早め [音楽] ああ [音楽] はい シャンティカ元カ田市場昭和28年設立今 はスーパーマーケット形式になっいます 右は戦後すぐの昭和22年設立の内数市場 最近潰れてしまったようです この南北の通りが3話本道理商店街 こっちがナイス市場の反対側の入り口は ギリギリ生き残っています です月曜メンバーに皆さんをくださるんでねまさに売るほどあります私の家の食品庫にはと話しました前をどうですか?るんですよですよないで押されちゃいけない 昭和39年3 話本通り3話処防と向いの果物山を 亡くなったようです この辺りの商店街を全部まとめて3 話というそうですかつてここに来れば何でも揃うと言われた 3話です [音楽] ます [音楽] ここから西側3和西町商店 [音楽] 街っ神波新地の初地があります 戦後青線と呼ばれていた非合法の風俗街 でした 1950年頃から割と最近の2021年 まで存在していたようです 時代の流れと共に衰退して最終的には コロナがとどめをさしたんでしょうかこれ らの建物ももうすぐ取り壊されるようです [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] この左の筋は3話筋 確かに商店街が雲の巣のように質発達です 色々ありすぎて全部まとめて3話でいい だろうとなるのが分かります 3話市場 この3話市場は1番歴史が古く戦後の闇一 発症ではなく戦前1936年昭和11年 設立の公認市場です 神戸の東田で2つの市場を成功させたと いう大川高光一さんと他2人の人が協力し て立ち上げて3人の輪を大切にするという 意味で3話と名付けたそうです これがこの辺一体を指す3話という名称の 始まりです [音楽] [音楽] 戦前は線路の南側で大いに反映した本町商店街に対して北側ではここが唯一の市場として栄えていたんでしょうその後米戦争でこの 3 話市場も南の本町通り商店街も一旦壊滅して闇市一の時代になります [音楽] 乗車必水の断りあり降因屋のご年という 感じです [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 昭和39年の写真サンロードが全身の 新三話の表記になっています [音楽] さらに遡ると昭和23年頃までは3話復興 市場と言ったそうです闇市の時代です 終戦後はまず阪神本線から北の方へ3話 通りの空地などで闇ができて偉い賑やかに なりました誰でも商売がしたいと思えば 売るものさえあれば地面に敷き物を敷い たり台を置いたりし売り始めました私は 小さい弟の森をしながら毎日のように闇を 見に行きました手作りの団子やパンや餅ち それに何の肉かも分からない怪しげな肉を 測って売っています あれは敵屋というのか嫌にいった顔みたい な男が毎日毎日23人で闇を回って馬線と いうのか台というのかお金を集めていまし た この茨った顔たちというのは高木組という 地元のヤザのことです 闇一にはヤザがつき物ですが当時は元公員 や引き上げ者在日朝鮮人などの間で争いが 絶えず高がそれらを抑える役割を果たして いたそうで現在ではヤザすなわち反社会 勢力という感じですが当時は混沌とした 社会情勢の中でヤザも全悪合わせもった ごった谷な感じだったようです 闇一は昭和21年の終わりに3話復興市場 となりました 南部再生2016年8月後伝説の闇市に よると高木組がバラックを100個建設 分乗場して3話復興市場と名付けたとあり ます 審議不明ですが地元の方の話では高木組 なんて何もしてなくて池田誠一がやったん やとのことです 池田誠一さんはここで選拠店をしていた人 です 笹川涼一さんや原健郎さんと兄弟文で当時は V イブイていて地市の道路の上に勝手に商店街を作って分乗場したんだという話もあります 頭折尼の歴史によるといかの通りです バラック建ての市場は池田の店を中心に果物や昆布や雑貨家や飯やなど 100 件近い店が締めき合い気組のアーケードも作られました 市場の周りにも露店が増えことに現場北の 町を流れるドブ側の上には板を渡して米 雑国などの食料品や日曜雑貨古着などを 広げる店が締めき合っていました商人と 言っても繊細で焼け出された人など素人が ほとんどで田篠山あたりまで買い出しに 行く人や闇物資ュのブローカーカラー 買いる人など仕入れ方法も様々でした強制 経済にあった当時青線食料品は手に入り にくく専業の配給も尼崎にその割り当てが 来ることはほとんどありませんそんな中 池田は仲間と共に四国や明で魚を買い付け 夜中に中崎や東浜から陸上げして小売業者 に売りさきました 市内はもちろん阪神間各地区は京都からも 買手が集まってきたと言いますその誕生 ぶりは当時を知る人々の語り草となってい て公務員の初人級が数千円だった昭和 234年頃池田の店の売上は1日10万円 をくらなかったという証言さえあります また彼は警察や高木組などともうまく 折り合いをつけ界隈で大きな力を持つよう になっていきましたとのことです この右側が池田さんの選拠店左が高木組の 事務所だったそうです ここに池田さんが混流したという神社が あったそうですが残念ながら現在は 取り壊されてしまった後のお用です [音楽] この辺もだんだんと普通の住宅街になって いくんでしょう 順番としては戦後すぐにここ3話に闇位置 ができ昭和21年の終わり頃に行き前の方 で中央商店街が発足この闇市も3ロードの 全進3話復興市場となり続いて戦前の降 市場3話市場が復活やがて3話本道理商店 街などもできてという流れのようです3話 復興市場は昭和24年新和市場になり25 年に統制経済が解かれると公設市場に食料 品が流通し出して新三和市場は医療品中心 3話市場は生食料品中心になっていったと いうことです 闇という扱いだった商人たちも新しい時代 に適用していったんでしょう尼崎氏も水路 を暗許化して整備を進めて水路の上を占し ていた商人たちに土地を晴れ下げていき 昭和26年本通りにスズラントを設置昭和 29年アーケードを設置立派な商店街に なっていきました [音楽] そこに今のシャンティンの全身の神田市場 やナイス市場が加わって今見るような姿に なっていったようです というか今見ているのは残念ながらその後 迎えたであろう全盛紀を過ぎた後のお姿 です観光地としては今の方が不勢があって ずっといいんじゃないかという気もします が世間的にはこういうところは全然 ポピュラーな観光地として認知されない ようです新しくはなく古さも一般的な人の 感覚ではまだレトロというほど熟成されて いないということなんでしょうか とりあえず今のところは感度の高いレトロ 商店街愛交可能地といった感じでしょうか ちなみに近以前の城は明治初め頃の廃上 例報に認定され始める昭和初めまでが ざっくり70年ぐらいなので昭和の商店街 も仮に全盛期が1970年頃だとすると 2040年頃まで待てば再評価が始まって 大人気になるでしょう知らんけど [音楽] ということで尼崎中心部のレトロの商店街 でした ああああ [音楽] [音楽]

阪神尼崎駅周辺
戦前からの本町通商店街と三和市場から戦後の中央商店街と三和周辺まで

00:00 近世から戦前まで 本町通商店街(ヒノデ阿免ほか)
04:39 中央商店街 (喫茶ジャワ・日本最古のラーメン店大貫・戦前から続く中村園・枡千など)
11:30 三和本通商店街・ナイス市場・三和西町商店街・かんなみ新地・三和栄筋
18:09 三和市場・サンロード(新三和市場)と周辺の戦後史

引用と参照
・ふるさと「尼崎」のあゆみ
・尼崎歴史博物館
 https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/index.html
・南部再生
 http://www.amaken.jp/
・図説尼崎の歴史
 https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/
音源
・MusMus
 https://musmus.main.jp

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