八王子は本当に衰退してしまったのか?

八王子は本当に衰退してしまったのか?

皆さん、こんにちは。朝川です。今回は 八王寺市中心部の水体について考えていき ます。八王子市の中心部と言えばかつて 玉地区有数の商業地と言われていた場所 です。また東京地方裁判所の八王子支部が 設置されるなど司法行政の面でも多の 旗振り役を果たす都でした。しかしながら 近年は立川、町田など近隣の商業地の発展 。一方の八王子の中心部からは次々と百貨 点が撤退。裁判所の支部も2009年に 立川に移動するなど相対的な地位の低下が さやかれています 。またそのことから八王子中心部は近年 衰退していると指摘されることもあります 。そこで本日はかつての八王子のイメージ 像と八王子の現状を分析し、どのように町 が変化してきているのかを見ていきます。 八王子市は東京都の南西部に位置する市 です。人口は 55万8196人。玉地区の中で最も多い 人口を抱えています。面積も広くその数字 は 186.38km。東京都内では奥玉町に ついで面積の広い位置体です。面積が広い ということもあり、八王子は多様な側面を 持つ都市です 。市の西側は山産地が広がり、緑豊かな景 が広がります。また南西部には年間 300万人が訪れる超有名観光地高尾さん が立チ。その逆の市南東部は多ニュー タウンとして開発された住宅地が広がって います 。そして八王子市の中心部は市野東部JR 中央本線八王子駅を中心に広がっています 。こちらは昔より商業地として発展し、 現在も市内最大規模の商業地域として機能 しています 。では具体的に八王子中心部の範囲を見て いきましょう。定義によって変わるもの ですが、概城、この位置にある八王子駅を 中心に北側に向かって広がっています 。商業の集席の最も多い場所は八王子駅 から北製に向かってのエリア。特に 250mほど先にある大型ディスカウント スーパーの辺りまではたくさんの ショッピング施設や飲食店、娯楽施設が 広がっています 。中心部の中でもこの辺りが各になって いるエリアと言えるでしょう 。また中心部北東側には京王線の京王 八王子駅が立、中心部に立致するもう1つ の駅として機能しています。さらに近年は 駅南口側の再開発が行われた関係で南側に も商業の集席が見られます。そのため駅の 南側のこの辺りまで中心部に含まれること があります 。これらが八王子中心部の特徴。まとめ ますと八王子はとても広いし、そして中心 部は東部のJR八王子駅を中心に広がって おり、特に駅の北製側にかけて商業施設の 集席が見られる。このように言えます 。現在の八王子中心部が形作られたのは 江戸時代の初期とされています。この時期 幕府が構えられた江戸、現在の東京都部 から海の国山梨県の幸福島を結ぶ公衆街道 が整備されます。ちなみに公衆街道は現在 の国道20号の原型となった道。八王子 中心部付近も一部ルートが異なる部分も ありますが、現在の国道20号のルートが 当時の公衆街道のルートということになり ます。八王子は公衆街道最大の宿場町とし て発展して行きます。八王子宿は別名 八王子15宿と呼ばれていました。その 名前の通り非常に後範囲に及ぶ宿町の総称 が八王子宿です。その中でも特に発展を 遂げたのが横山市と洋下日市宿現在の 横山町や洋日町一体です。とわ陽海一宿区 は公衆街道と南北を結ぶ道が交差する場所 ということで中心部の各となりました 。地図で確認するとこの辺りの範囲江戸 時代の八王子の中心部というのは現在の核 より少し北及び北製側にありました。 そして時代は流れ明治時代に明治に入ると 日本全国で鉄道の不折が始まります。 八王子にも1889年現在の中央本線の ルーツとなる神部鉄道が開通し駅が設置さ れます。ただ当初の八王子駅は現在の駅 よりも300mほど北東現在の京王八王子 駅付近に立致していました。また現在より も当時の中心市街地から離れた場所に駅が できたということになります 。当駅は1901年に八王子から西野 上野原方面に路線が建設された際、現在の 場所から150mほど西の場所に移転。市 は少し異なりますが概現と同じ位置関係の 場所に駅ができます 。八王子駅の開業により中心部の範囲が 広がり、従来の公衆街道沿いだけではなく 、駅と街道を結ぶ間のエリアも発展して 行きます 。1925年には現在の京王八王子駅の ルーツとなる東八王子駅が開業 。また中心部の周辺にあたる妙人長や小安 町任長も住宅地として開発されて行きます 。 このようにして発展を遂げる八王子中心部 ですが、昭和に入ると日本は戦争に突入。 戦争末期になると八王子は激しい空を受け 、市街地は甚大な被害を受けます 。終戦後の戦後の復興から八王子の中心部 が現在に至るまで歴史の流れとしてはまず 戦後の区画整備そして中心部の核の移動と いうものが大まかにあります。 まず1948年から繊細復興の都市区画 整備が行われ、その一環として1951年 にJR八王子駅が現在の位置へ移転。 そして八王子駅から伸びる道路や歩行車道 の整備が行われます。現在駅から伸びて いる道筋はこの時の整備が基盤となってい ます。次に中心部の各の移動です。江戸 時代から長らく八王子の中心部は8日町に 存在しました。ただ1960年代後半に 入ると少し東側の横山町に移動します。 ただその後1970年代に入ると再び駅の 方へと核が移動。この辺りはやはり駅に 近い方が利便性が高くそちらに向かって 商業地が移動していったこのような流れが 推察できます。 現在のように駅前、そしてそこから北製に かけて伸びる中心部の角が出来上がって 行きます [音楽] 。このように八王子中心部の核は移動の 変遷があるものの、八王子は1990年代 に入るまで玉ちく最大のハ加火街として 機能していました 。そしてよく八王子の衰体を語る際に百貨 点の撤退というものが語られます。しかし 八王子の百貨点の歴史を見るとまず 1960年代にヨ日町周辺に地元百貨店が 2つ開用。ただご案内の通りその後中心部 の核が横山町に移転。それに伴いヨの百貨 点は1968年と1971年に停点して しまいます。 その後横山町を中心に全国規模の百貨点が 展開。ただ中心部の核の移動は続きます 。1983年には八王子エキビルの整備が 行われ、その中にも百貨点が開用。これが 景気となり、駅から離れた公衆街道周辺に あった百貨店が次々に閉店して行きます 。これら元々公衆街道沿いにあった百貨点 は店舗の希望をそこまで大きく建設する ことができなかったため、それも撤退の 要因として言われています 。ただ中心部に数多くあった百貨点の撤退 というのはこのような歴史を見ると八王子 中心部内における核の移動が要因として 大きいと考えることができます。またこの ような構造を見ると中心部各百貨点の撤退 は外的適な要因つまり立川や町田の発展と は全く関係ないとは断言できませんが関連 は薄いとも考えられます。では次に中心部 が駅付近に移った後の様子を見てその後 八王子周辺の都市の発展について考えて いきましょう。1990年代に入ると 八王子駅前や京王寺に大型ビルの商業施設 が建設され始めます。91年には駅前の 大通り沿いに大型の家電販転が94年には 地下化された京王八王寺駅の駅が開業。 また97年には駅の目の前に大型ビル 八王子スクエアビルが開用。このように 八王子駅前において多くの施設が建設開業 して行きます。しかし2000年代に入る と一点百貨点等の撤退が会い継ぎます。 2004年には駅に隣接して営業していた 丸井が閉店。2011年には長崎が撤退し ます。そして2012年には駅前最後の 百貨点であった駅設の祖合が閉店。これに より八王子の百貨点は全て姿を消すことと なります。またこのような撤退だけでは なく、八王字中心部においては事業所数、 従業者数、年間商品販売額、売り場面積 など小売業に関する数値が平成の初期から 中期にかけてき並み減少をしています 。八王子は8日町にあった中心部の核が 駅前に移動。ただその後に駅前にあった 却貨点等の撤退があり、さらに商業規模も 数字で見ると減少しています。このような 側面だけを見ると確かに衰退をしていると 言えるかもしれません。それでは次にこの 要因について考えていきましょう 。要因としては3つ考えられます。まず 冒頭から少し触れていますが、町田、立川 などといった近隣駅前の商業的発展です。 特に立川駅周辺の発展は目覚ましいものが あります。立川駅周辺は八王子のように 四場町の近くにある場所というわけでは なく、元々は町発でのかなり寂しい場所に 駅ができたという状況でした 。しかし、1922年に駅の北側に立川 飛行が解説。これにより立川は軍都として 発展を遂げて行きます 。1945年の1連の戦争集結後は立川 飛行場はアメリカ軍の施設となります 。軍都として成長を続けますが1970年 代に入ると米軍基地が変換。その後基地後 の再開発が進められ、オフィスや商業施設 、さらに広域防災施設などが建設されます 。行政や司法の施設も後地に建設され、 2009年には八王子にあった東京地方 裁判所の支部が立川に移転します。また 交通の面では1998年と2001年に 段階的に玉年モノレールが開用。交通の 血折点としての役割も増えます。このよう に2便性の上がった立川は商業地として 発展。八王子をしぐ田町最大の商業集席地 となります 。立川駅は元々から商業の集席があった ものの駅の資金に広大な空地ができたと いうことも採用し、大規模な施設を立て やすかったこと。この辺りも発展を支えた 要因の1つであると言ってもいいでしょう 。また八王子というのは立的にタ川と 比べると若干不利な面があります。立川は JR中央本線、青梅線、南部線が乗り入れ ています 。また近隣に玉モノレールの立川北、立川 南の各駅があり、玉物レールも利用できる という環境。これにより立川駅は東西南北 どちらの方向からも人を集めることが できる環境となっています 。一方の八王子ですが八王子駅にもJR 中央本線の他八光線や横浜線、また少し 離れた京王八王子駅には京王線も乗り入れ ています 。京王線と中央本線はド方向ですが八光線 は北、中央本線は東西、横浜線は南に伸び ており、立川と同じように東西南北に鉄道 路線が伸びているということに変わりは ありません [音楽] 。ただ八王子の場合東側には立川があり ます。また北側のエリアもJR青梅線の 沿線。鉄道の場合ですと、立川の方が出 やすいという一致条件になっています 。南の横浜線沿線。横浜線は横浜と八王子 を結ぶ路線なのですが、その途中で町田を 経由しています。 横浜線方面も横浜に近づけば近づくほど 町田の方が近くなり、八王子との選択に おいて町田を選ぶ方が増えてくるという 状況です 。そして八王子の西側ですが、八王子市は 地形の説明で申し上げた通り、市の西側が 3地、さらにその先神奈川山梨方面も 山深い地域が続きます。その中にも上野原 や大月といった都市が存在するのですが、 兵地の都市と比べると人口規模は少なめ、 また近年はこれら地域で深刻な人口減少が 問題となっています。かつて立川町田は 八王子よりも商業規模が小さかったのです が両都市が八王子と同等またそれ以上の 規模を持つこととなり居住エリアのより大 規模商業地が八王子ではなくなったという 地域が現在多くなっています 。このような背景から八王子は東側にある 立川町田に比べてお客さんを集めるエリア が少なくなっている。このように読み解く ことができます。 そして八王子の商業的なライバルとなる 場所は各年の駅周辺だけではありません。 近年はモータリゼーションの進行やニュー タウン増よる給料地の開発、また工場の 撤退によって生まれた空地の再開発により 高外のロードサイドに大規模な商業施設が 建設されることも多々あります 。八王子市内だけで見ても、例えば南大沢 駅周辺のアウトレットモール。2017年 に高尾駅周辺に開業した大型ショッピング モール。近隣市街に目を向けると嫌道日出 インターチェンジ近くのショッピング モールや街出し西部の倉庫型の ショッピング施設など様々な商業施設が 建設されています 。これらの施設は中心部の商業施設と比較 をすると車でのアクセスが容易であり、 自動車でのショッピングという点では 勝さっています 。また将来的な話とはなりますが、八王子 駅から3kmほど来た八王子 インターチェンジの周辺に大規模な商業 施設が建設予定 。特に現在中心市街地に存在しない映画館 が併設される予定で中心部の強力な ライバルとなることが予想されます 。まとめますと八王子中心部は江戸時代 より発展以後周辺の商業の中心地として 発展してきました。しかしながら近隣 所都市の発展やそれら都市の八王子と比較 した際のアクセス性の良さ、またロード サイド型施設の建設などもあり王子中心部 の商業的な急心力というのは弱まっている と考えられます。その意味では商業的には 衰体傾向にあると言えるかもしれません。 ただ総合的に見ると八王子中心部は現在 成長している部分もあります。次はその ことについて深掘りをしていきましょう 。八王子中心部ですが実は人口に着目を すると増加しています。1994年の 八王子中心部の人口が2万123人。この 時期まで中心部の人口は加工トレンドだっ たのですがそこからは上昇。2004年の 人口は 2万3991人、2014年は 2万7981人 、2021年の人口は 3万3232人。近年は若干横合な部分も ありますが、中心市街地の人口は増加傾向 にあります。なぜ人口は増えているの でしょうか?実は中心市街地では商業系の 施設が撤退する一方でマンションなどの 集合住宅の建設が行われていました。特に 2018年頃まではファミリー層向けの 住宅、そして単心者向けの住宅が多く供給 され、人口の伸びも大きくなっていました 。市の予測ですと現在は人口の伸びが少し 横ばえになっていますが、マンション施設 の更新によりまた人口の伸びが増える だろうと予想されています 。八王子中心部はかつての商業や業務施設 の中心部から住宅も含めた複合的な都市へ と転換してきています。また先ほど中心部 から百貨点等が撤退したと申し上げました がその続きがあります。エキビルから百貨 点のが撤退後はJRグループのエキビル型 商業施設が入居し以前変わらない規模の 商業施設が入居しています。また貨物駅の 縮小によって生まれた駅南口側の再開発も 行われており、こちらにも大型の家電両 販転その他業務オフィス、商業施設、 タワーマンション、市民会館を加備えた 構層ビル、また別の商業ビルも再開発に よって生まれています。却貨点がなくなっ たとはいえ、八王子の商業的な利便性と いうのは、まだまだ一定の存在感があり ます。ただ中心部端にある京王八王子駅の 液ビル。現在こちらは施設備日更新工事に 伴い閉状態です。工事完了後にテナントが 入居する予定とのことですが、具体的な 予定が言及されていません 。液がない状態が長く続いてしまいますと 、人の流れが変わってしまい、仮に商業 店舗が入居した後もずるズると水体の方向 に向かってしまう可能性があります。 この辺りは今後も着目をしていきたい要素 です。八王子に関してですが、衰退をして いるのかしていないのかと問われますと、 確かに前の商業、業務の集席地、そしてタ ナンバーワンのハ火街という面で見れば 水体の傾向に向かっているかもしれません 。しかし人口は増加、住宅供給も多く行わ れており、複合的な都市としてはまだまだ 一定の存在感があり、都市としては水体と いうよりは成長側の傾向にあると結ぶこと ができるでしょう。今後も八王子の都市と しての推移を注意深く見守っていきたい ところです。さて、今回の動画はここまで となります。次回はとある県頭東京都心の 距離から見る人口分析を行っていきます。 ご視聴ありがとう存じます。また次回も 一生懸命頑張ります。ごきげよう。

#八王子市 #衰退 #タワーマンション
東京都八王子市。特に中心駅である八王子駅周辺はかつて多摩地区最大の商業地として知られた街。また、裁判所等、国の司法、行政機関が集まり、多摩地区の中心都市として機能してきました。

しかしながら、近年はその地位の低下が囁かれています。司法や行政の施設は立川に移り、また商業的な面でも町田や立川など他の多摩地区の駅前が発展。多摩で一番の商業地という地位も由来できています。

このような事情から、八王子は衰退している。終わっているなどと言われることもありますが、果たしてそうなのでしょうか?本日は検証をしていきたいと思います。

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目次
0:00 イントロ
1:12 八王子中心部とは?
3:50 八王子中心部の歴史
8:17 百貨店の盛衰
12:05 3つの要因
18:51 現在の八王子中心部

23 Comments

  1. 八王子IC付近にイオンモール建設中なので楽しみです。駅からは行きづらいですね。

  2. 私は、八王子市の北東部に住んでいました。
    自宅から駅まで出るのに西東京バスで約30分、そこから中央線に乗って新宿まで約50分。
    帰りは、武蔵小金井駅留まりや豊田駅留まりの場合もあり、高尾行に乗り換えると新宿から八王子まで約65分。
    とにかく都心まで通うのに本当に遠くて通勤だけで疲れる、という不便な記憶しかありません。
    また、駅の北部にも南部にも魅力的なお店が少なく、物価も決して安いわけではありません。
    若い人が商店街で歩いて楽しんでいることを目にすることはなく、「役割を終えた死後の街」のまま衰退して終わりそうです。
    地元の人も、自分たちの努力で魅力のある街に変わっていこうという発想自体が乏しく、驚くほど保守的です。
    ある程度魅力的に感じるのは、小さな子供がいる若い家族だけでしょう。

  3. 大衰退ってまた大げさな…そんなこと言ったら都心以外のほとんど衰退だろうに😅駅近だからかもしれんが、人も多すぎず、家賃も安いしそれなりに住みやすいけどなあ

  4. 宿場町から大きな鉄道と自動車道路の結節点として地域の中心地へ、百貨店衰退と周辺都市経済の隆盛には大規模住宅地域に転換し、街のありようを変えてきた八王子の歴史は興味深いです。
    人口を横這いどころか増加させる辺りは、他所の都市には真似出来ない粘り腰を感じますね。

  5. 浦和から八王子に引っ越してきて12年経ちますが、面白いお店がここ数年でのきなみ閉店したり更地になったりしてて寂しさはあります。それでも、ゆったりと日々を過ごせるいい街だと思います♪

  6. 商業施設を百貨店でくくるのは今の時代あまり意味がないでしょうね。百貨店自体は激減しているので。
    立川は百貨店の高島屋が撤退、吉城寺は伊勢丹が撤退、府中は伊勢丹、多摩センターは三越が撤退と、今後も百貨店は撤退が進むと思います。
    また駅前の年間商品販売額は、立川より町田の方が大きいです。

    八王子駅前が複合的な都市に移行しているという指摘は合っていると思いますが、法務局の八王子支局が移転してきたり、多摩地区最大のコンベンションセンター「東京たま未来メッセ」(東京都)が開業するなど行政都市としても機能しています。
    来年には、八王子駅南口に集いの拠点「桑都の杜」もオープンします。

    八王子市は広く商業施設も駅前ばかりでなく市内各所に大型商業施設が生まれているので、今後、年間商品販売額も増えると予想されます。商都としても大規模です。

    またマンションに関しては北口にタワマンが2棟建設中。JRのタワマンは32階建て499戸、京阪電鉄のタワマンは29階建てで低層階は商業施設が入ります。あと大小様々なマンション建設が多数進められています。
    今後も駅周辺の人口増加が続くと予想されます。

    八王子駅は各種再開発によって、大規模都市として生まれ変わりつつあるというのが個人的な意見です。
    八王子駅から10位の橋本駅にリニアがオープンすれば八王子駅の利便性はますます高まることでしょうね。

  7. 江戸時代からの宿場町はどこも鉄道路線を非常に嫌がり、かなり離れた所に駅を作ったと聞きます。
    また、明治の東京は日本中から人が集まり、方言言葉で話すので理解しづらかったようです。そこで明治政府は誰でも分かる標準となる言葉を探し八王子で使われている言葉が選ばれたと聞きましたよ。では頑張って!

  8. 私の若い頃は八王子の賑わいの中心は放射線通りから行く八日町、特に千葉時計店のウインドーを覗いてこの時計が欲しいと眼を輝かせ大横町の丸木百貨店まで歩くのが楽しみでした。今でも頑張っているのは荒井呉服店ぐらいかな。

  9. 圧倒的に立川町田橋本が栄えています。八王子市駅前は道路や駐駐車場が整備されていないので、八王子市民でも橋本や立川に買い物食事に行きます。

  10. 八王子の名称はカッコいい。京王八王子などカッコええやん。定期券欲しいくらいだ。

  11. 百貨店が撤退したから衰退とはいえないと思います。八王子も撤退したのでしょうが、立川も事実上、髙島屋撤退、吉祥寺も近鉄百貨店が撤退。でも吉祥寺なんかは衰退とは思えません。百貨店業態そのものが衰退したというのが正しいと考えます。それと立川はモノレールとの乗り換え、吉祥寺は京王井の頭線との乗り換え、町田は小田急との乗り換えなど改札を出る乗り換えがあるので駅前商業施設にとって有利な条件が存在します。八王子もJR中央線、八高線、横浜線との乗り換えはあるが改札内で事足ります。京王八王子との乗り換えも若干あるのでしょうが、それほど多いとは思えません。郊外のショッピングモールとの競争はいずれの駅周辺商業施設にも当てはまりますが、 八王子郊外には郊外型商業施設ができやすい土地も多いのであまり明るい将来とは言い難いです。

  12. 八王子中心部の再開発で2件のデカいタワマン計画が進行中(中町・寺町)
    コレ供給戸数が多いので駅近の居住人口は増える
    しかし高騰しまくった東京圏マンション価格の下落の起点にもなるかも
    駅南側のJR貨物の土地にもタワマンが建つかも

  13. 最近,八王子はツキノワグマが出没するという超えてはいけない一線を超えてしまいました

  14. ニコニコ動画で有名なネタ
    一から始まって 八 王 子 で締める様式美

  15. 人口55万を維持してる都市が衰退してるなんて言ったら甲府市あたりが激怒しちゃうねw 大方の県庁所在都市の人口を軽く上回ってるでしょ。衰退してるっていうのは盛り場の分散・移動でちょっと表面的に人の集中する場が目立たなくなった程度の話でしょうよ。百貨店の撤退と言ってもそれは百貨店ていう業態自体が時代に合わなくなったからで、町自体の衰退と直結はしない。
    八王子ってそりゃ池袋・新宿・渋谷・原宿・銀座とかと比べると都市の華やかさとしては三番手・四番手くらいだ。けれどねえ、個人的な想いではユーミンの「生まれた街で」「晩夏」でイメージされる現代日本の原風景って感じがするんだよね。そこは隆盛とか衰退とかは関係ない不変なものがある。東京でそういう場所って少ないよね。
    まあ都心からの距離は下手すると埼玉県東南部なんかよりも遠いってのはデメリットかもしれんけど。

  16. 八王子って、新しいお店が出店すると嫌がらせを受けるというから。ネタ元は私が行きつけだった美容院で、同業者から嫌がらせを受けて2年で撤退していた。

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