(72)【日本一周修学旅行】“小江戸”川越を歩く《川越》
おはようございます。本日は5月15日の 木曜日。現在地は埼玉県の川越です。現在 僕がいるこの中町交差点から北に向かって いくこの道が通称クラ作りの町並として 呼ばれている地域で大きな観光地となって います。地域住民による保存運動の努力に より通称公道として知られるまさに江戸 時代頃の風景を残しているような街並が ここに広がっています。川越は何度か大に 見舞われておりまして、特に有名なのが 明治時代中期にあった川越大価です。周辺 を歩いているとこのように黒い壁を知った 建物が見えますが、こちらは黒シックと 呼ばれまして防火性に優れた素材です。 土壁の上にを塗り重ねることで火災の時に も炎症しにくいような作りとなっています 。今歩いてきたのがこの中町交差点から北 の方でして現在地はこの辺り。この辺りが クラ作りの街並として知られているんです がこの倉作りの街並が終わる場所はどこか と言いますとこの札の辻交差点です。普の というのは、ま、簡単に言いますと、江戸 時代頃に町のお知らせ掲示板があった辺り という意味です。この札の交差点のすぐ 近くにありますのが大沢住宅でして、この 住宅が川越大価で焼け残ったことを きっかけにこの地域に住宅が続々と作ら れるようになっていきました。の川越大は この周辺の町1/3 を燃やしてしまったと言われているんですが、その後に立てられたのがこちらの時の金です。この時の金自体は江戸時代頃からこの場所にありまして人々に親しまり続けてきたんですが家事で焼けてしまった際に立て直されています。 1/3が焼けたということはですね、自分 の生活すらままならない人がたくさんいた と思うんですけれど、そういった人々も まず最初にこれを立て直さなければいけ ないと言って、自分のことは後回しにこの 金を作ったという風に言われています。 地図で川越の位置を確認してみる と江戸時代頃に日本の中心だったこの辺り 江戸ですねからそんなに離れていない位置 にあることがわかります。しかしそもそも なぜ川越はこんなに発展していったん でしょう。全ての町には成り立ちがあり ますので、この川越が発展するきっかけと なった出来事というのを見つけるために 移動していきます。それではクラ作りの 街並を北上して移動を開始。僕は朝早くに 出発したので人は少なかったんですが、今 が10時38分。もうこの時間には たくさんの観光客が集まってきています。 川越は東京から近いということもありまし て、結構皆さんね、日帰りで訪れることが 多いようです。よってこの川越を人が 少ない時間に観光したいと思えば、日帰り 客が帰った後、もしくは来る前という朝と 夕方の辺りというのがですね、1番観光が しやすい時間だと思います。川越市として はね、たくさんの人々に宿泊してお金を 落としてもらいたいでしょうから、川越に 宿泊して人が少ないこの周辺を楽しむと いうのもいいと思います。ク作りの街並の 終点である札の辻を超えてさらに北上して いきます。すると斜め右方向にお寺が見え てくるんですが、今向かっているのは こちらのお寺です 。こちらのお寺が明字で中に入っていき ますと、このような石碑があります。何て 書いてあるか読んでみたら四指定士川越 野線跡。今回の旅行で山梨県を訪れた際に 武田神玄は武田信を追放して家を奪ったと いうような話をしたと思いますが、え、 その時ちょうど同じ頃ですね、こっちの 方向にいます法城師といった一族も家が 移っています。法条宇妻が病子したことに よりその息子の法城宇康安に家が移ったん です。当時の武田市と法城市というのは 対立するような関係になっていましたので 当首が変わったこのタイミングで和木が 結びやすくなっています。ということで 武田と法城はここで和木を結ぶんですが 問題はですねこっちにいました今川吉本 です。彼は元々北条士とえ対立と言います かこの辺りの伊豆半島あたりですね。この 辺りを放上司に奪われたというような過去 がありましたのでなんとかしてここを 取り戻したいという風に考えていたんです 。そんな時に法条士の投手が描して家が 継承されたと言いますと、いや今が チャンスだという風に思うわけですね。 こうして今川吉本は東の方向に進んでいき ましてこの辺りで戦いとなります。こう なると北条宇康はピンチです。しかも今川 吉本というのはこの北条宇安をやっつける ために北側の方からもね、援軍を要請し ましてこっちの方からも攻撃しろという風 に言っていました。ということで北城は北 からもこっちの西側からも攻撃されて 挟み打ちのような形になったんです。こう なると法条士としてはね、なんとかして この戦いを終わらせなければいけません よって放城ウジアは武田神玄にお願いし ましてなんとかして今川との戦いを 終わらして欲しいという風に言ったんです ね。で、実際に今側との戦いを終わらせる ことには成功したんですが、ま、戦いが 終わると言いましても法条士がお願いして 今川市が戦いをやめるという形になるので 今川市有利の和木条件になります。今川市 が要求していたのはこの伊豆半島あたり ですから、この辺りは今川家の領土となっ たんです。これによってなんとか今川との は和僕は結ぶことができたので北城ウジア は北側の戦いに集中するようになっていっ たんです。そうやって戦いが行われたのが この周辺川越だったのです。ここには川越 屋といった解説の看板がありますが、ま、 川越屋線はね、結構伝説上の戦いでして、 その経緯というのはあんまり分かってい ません。文字から分かります通り、伝説上 は夜に戦いが行われたという風にされて いるんですが、実際のところ夜だったのか 昼だったのかということすら分かってい ないんです。奥義上杉市というのはこの 関東の大体北の方だったかな。この辺りを 拠点にしていた一族なんですがこれによっ て滅亡してしまいまして北条士の力が どんどん強まっていきます。そして上杉市 というのはこっちにいました長岡後の上杉 健身ですね。彼に助けを求めてこれ以降 上杉市と法城士の戦いがこの関東で行わ れるようになっていくんです。このような 戦いのお話を聞いて分かります通りこの 川越周辺には昔お城がありました。川越城 は一部か現在も残っていますのでその移行 を見に行きましょう。ということで札の辻 交差点に戻ってきました。ここの交差点を 東に曲がっていきますと見えてくるのが 川越市役所の市役所前といった交差点です 。この辺りがかつて川越城の大手門があっ た辺り。つまり現在僕が進んでいるこの 辺りはお城の中です。関東地方のお城 あるあるなんですが、昔あったお掘りと いうのはほとんど埋められてしまってい まして、当時のおかげというのは全然あり ません。ま、関東はね、住む人が多いです から仕方ないというのもあると思います。 ということでやってきましたのが川越城の 後地です。駐車場に車を止めたんですが、 無料っぽいけどどこに行きますかと聞かれ て、あ、川越城の5点を見に行きますって 言ったらこういう紙をもらいました。ここ にスタンプをもらったら出れるみたいです 。一応こんな感じで案内の看板はあるもの の地図見てもらったら分かります通り ほとんどね、当時の移行というのは残って いません。唯一残っているのがこちらの 川越城本丸にあった店です。この川越城は 元々太田同身、太田同いったお父さんと 子供がいるんですが、その2人が作った ものです。関東地方の戦国士はね、 ちゃんと説明しようと思うと本当に難しい んで混乱すると思いますから、ま、分かる 人向けに説明しておきますと、関東関が 小学の足川牛に対抗するために太田同身と 太田同に作らせたというのがこの川越城の 期限です。近くの休憩所にはどうやら 川越城の地図があるっぽいな。これ京王3 年って書いてあるんで爆末頃のお話ですね 。現在ではこんな感じで小さい建物みたい になってしまっていますが、昔はすごく 大きかったようでして、この辺りですかね ?今残ってるのはもうこの1部分だけしか 残っていません。つまりこの左上の方向に 広がっていたのかとなりますと 、ま、多分昔5点があったのはこのくらい の大きさだったんでしょうね。これは17 世紀頃ですから江戸時代頃か見てみると ぐるっとお掘りに囲まれてこれは出丸か どっちが来たかがよくわかんないんで ちょっと正確なことは言いませんが周りに 大きな川があったりお掘りがあったりと 結構大きめなお城だったことが伺えます。 こちらが川越城の縄張り図ですね。下の 方向が上になっているので、ま、現代の 地図と見た感じは同じ。先ほど僕がここら 辺に大手門があったんですよと言っていた 市役所の辺りはこの辺りでずっとこっちの 方向に進んできまして、現在いる場所は この辺りです。現在の地図がこれで市役所 はここら辺にあるんでこうやってみると 本当に何も残っていないな。豊秀義の関東 攻略でこの川越城は落上し、その後徳川 イアスが関東に移る際に川越には重心の 堺井したが当てられています。それ以降も 江戸から近い位置にあるということから 徳川家県に近い重心がたくさん入っており まして、川越は江戸の北の守りと江戸への 物資の供給位置として幕府から重視される ようになっていったのです。 もしかしてという風に思ってですね、調べてみたんですが、昨日お話した県ですね。半地県の後に置かれた県なんですが、その間県の県庁として活用されていたのがこの辺りだったという風に説明がされていました。 [音楽] よって明治初期。この辺りの政治の中心 だった場所というのが現在僕が入っている この建物です。しかしこれまた昨日言った 通りイ間県と熊谷県が合併したため県庁は 熊谷に移転です。それ以降のことを読んで みると私として保存されていく方向性が この頃から進んでいったんですね。江戸 時代頃にはこんな感じで川越周辺の色々な ことを決めていたっぽいですね。今決め てるのは何かと言うと、現在の展示 イメージは江戸1警備についての相談って いうことは爆末五論のイメージだな。ここ にわざわざそれが再現されてい るってことは川越の人たちがお代場作っ たってことか。あ、書いてあるな。川越班 は新たに建設された品川大場に警備の変更 を命じられました。へえ、現在も東京に 小田場という知名が残っていますが、昔ね 、ここにはこのような砲台を多くうん、な 、何て言えばいいんだろう。人工の島 みたいなものがあったんですよ。で、川越 班が担当したのが125だそうで、この1 と2と5、あ、結構重要なポジションです よね。おお、現在の地図にかつての川越城 の移行と言いますか、縄張りを被せてくれ ています。市役所がこの辺りでさっき通っ てきた道はずっとマス、あ、ここ曲がって たんだ。で、この辺りは現在の道とかつて の道が合わさっていて、奥がいる場所と いうのがここですね。もう川越の中心地に なってしまっているから土類もお掘りも 全部なくなっちゃっています。残しておい て欲しい気もしますが、ま、それはそれで この町の歴史になっていくものですから、 我々は今残っているものを大切にしていく ということが大事だと思います。
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5 Comments
川越駅〜本川越駅は徒歩10分
河越夜戦
遺構が少なくても、古地図を使いながら楽しく解説されるのはさすがです
河越城
川越城中ノ門堀跡が、郭町1丁目8-6に、あります。市役所と川越高校の間です。