岩櫃城 ”難攻不落天然の山城・真田丸の原型といえる堅城” つわものどもが夢の跡・城跡めぐり56
岩櫃城(いわびつじょう)は、群馬県吾妻郡東吾妻町(上野国吾妻郡)にあった日本の城(山城)。吾妻川北岸の岩櫃山中腹に位置し、戦国期に、上杉謙信に従う斉藤氏と、武田信玄に従う真田氏が当地をめぐり争った。最終的には真田信之の支配下に収まり、慶長19年(1614年)に廃城となった。国の史跡に指定されている。
・築城の由緒
岩櫃城の築年代は不明である。南北朝時代に吾妻氏が築城したとの伝承もある。
・吾妻氏の時代
この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない。後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配したが、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗った。
・斉藤氏の時代
戦国時代、吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が、主君の大野憲直を討ち、岩櫃城を奪った。その子、斉藤憲広は岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍を支配下においたという。
永禄3年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)が岩櫃城を攻め落とした伝わる。その後、城は斉藤氏の手に戻る。
岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は、斎藤氏系譜と同様に複数伝わっておりはっきりしない。地元の旧記では吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広(基国)と系譜を伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対を押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を起こし鎮圧されたという。一方「斎藤氏系図」(『吾妻郡城塁史』記載)では、越前国大野郡にあった斎藤基国の子・斎藤憲行が入り、憲行の長男・憲実が岩櫃を継ぎ、他の兄弟は分家したのだが、五男・憲基の子孫たる大野氏の勢力が拡大、家臣の秋間氏を滅ぼして宗家・憲実を支配下に置いたという。その後、大野氏は大野憲直のときに、四男・山田基政の嫡孫で岩下城主・斎藤憲次の反乱によって滅び、岩櫃城は憲次が支配し、その子・憲広に受け継がれたという。
斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏による介入を招くことになる(羽尾氏・鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。永禄3年(1560年)に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾を得る。それに対して、永禄5年(1562年)に斎藤憲広は羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し、鎌原氏を信濃に追い払う事に成功する。しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。斎藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嶽山城に篭っていたが、永禄8年(1565年)に落城、斎藤氏の勢力は駆逐された。
・真田氏の時代
真田氏は吾妻地方への進出をねらい、岩櫃城を攻略した。その後、上野国北部の利根郡に位置する沼田城(沼田市)・名胡桃城(みなかみ町)と、信濃国の上田城とを繋ぐルート上の重要拠点として岩櫃城の大改造を行った。
城域は広く、その中を沼田と上田を結ぶ街道を通してある。中心部の曲輪から放射状に壕が整備される特殊な構造で、周囲に出丸、番城、砦を配してあった。
真田昌幸の時代、天正10年(1582年)に、織田信長・徳川家康勢に攻められて主家武田勝頼が劣勢となると、真田昌幸は武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとした。しかしこれはかなわず、武田家は滅亡している。
その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男の真田信幸(真田信之)に守らせた。真田家当主となった真田信之は、慶長19年(1614年)に幕府を憚り岩櫃城を破却した。以後は原町(現在の東吾妻町原町)に陣屋を置いて一帯を統べた。
・構造
岩櫃山の北東に伸びる尾根に位置し、吾妻川の西岸にあたる。また、西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は岩山で天然の要害となっている。尾根の西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、北東に出丸の「天狗丸」がある。その更に北東には支城・柳沢城(観音山城)が位置している。
・史跡指定
1972年(昭和47年)に町の史跡に指定された。また、2017年(平成29年)、続日本100名城(117番)に選定された。2019年(令和元年)10月16日、国の史跡に指定された。
・真田の進言と、武田氏の滅亡
戦国のトップ企業「甲斐・武田氏」、外様でありながら実力でその重役に列した子会社「真田氏」—。織田・徳川連合軍の甲州征伐で窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸は、「岩櫃への撤退」を進言。「守り通す」ことを約束した。しかし、結局、勝頼は、譜代重臣の別の進言を受け入れて裏切りに遭い、超トップ企業・武田はあっけなく滅亡した。
・天険の山城、岩櫃城
岩櫃城は、天険の山城。のちに真田昌幸・信繁が徳川家康を恐れさせた上田城や大坂城「真田丸」の原型といえる堅城。もし、勝頼が逃げて来たら、真田は織田・徳川連合軍を散々に苦しめたことだろう。3カ月後には本能寺の変で信長は破れ、武田・真田・岩櫃、そして日本の歴史は大きく変わっていたであろう。
・歴史
????「岩櫃城」築城。
築城年および築城主は不詳。
この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない。
1563年(永緑6)
真田勢の攻勢により岩櫃城が落城。
信繁の祖父にあたる幸隆が吾妻郡守護代となる。
1567年(永緑10)
信繁、昌幸の次男として生まれる。
1575年(天正3)
長篠の戦い。
父・昌幸の兄二人が戦死し、昌幸が真田家を継ぐことになる。
1582年(天正10)
《2月》昌幸、岩櫃山南面に、武田勝頼を迎えるための御殿(現在の「潜龍院跡」)を作るが、勝頼が吾妻の地に来ることはなかった。
《3月》武田勝頼が甲斐の天目山にて自刃。武田氏が滅亡。昌幸、織田信長に臣従
《6月》本能寺の変。織田信長死去。
《10月》昌幸、徳川家康に従属。徳川家と北条家が和睦。条件として、真田家の沼田領は北条家に引き渡される。
1583年(天正11)
昌幸、上田城の築城を始める。
1584年(天正12)
昌幸、家康から沼田城を北条氏政へ引き渡すよう求められるが拒否。
1585年(天正13)
昌幸、家康と決裂し再び上杉家に臣従。信繁、人質として上杉家へ。
昌幸、家康軍を上田城で撃退(第一次上田合戦)。
1587年(天正15)
昌幸、上洛し秀吉に正式に臣従。秀吉の命で、再び家康の配下となる。
この頃、兄・信幸が本多忠勝の娘・小松姫を妻にする。
1589年(天正17)
秀吉の裁定により真田領となった沼田の名胡桃城を、北条勢が攻略。秀吉は激怒し小田原出兵を宣言。
1590年(天正18)
小田原・北条攻め。真田家も出陣。
《8月》
信幸が沼田城の初代城主となる。諸社に寄進し、岩櫃城を除く吾妻郡の城と砦を破脚。
1600年(慶長5)
下野国犬伏にて真田家の去就を協議。
信繁と昌幸は西軍に、信幸は東軍に残る(犬伏の別れ)。
信繁と昌幸は、上田城にて、関ケ原へ向かう徳川秀忠軍を翻弄する(第二次上田合戦)。
関ケ原の戦いで東軍勝利。
西軍についた信繁と昌幸は、高野山のふもと九度山に配流される。
東軍についた信幸は沼田・上田を領する。
1611年(慶長16)
昌幸、九度山で死去。
1614年(慶長19)
信繁、豊臣秀頼からの依頼に応じ、九度山を出て大阪城入場。
「大阪冬の陣」にて真田丸を築き、徳川方の攻めを防ぐ。
同じ頃、信幸が吾妻郡に郷村改を出す。岩櫃城下平川戸宿で市が開かれ、大いに賑わう。
1615年(慶長20)
大阪夏の陣。信繁、戦死(享年49)。
同年頃、徳川家康による「一国一城令」に伴い岩櫃城破脚。
信幸は城下町を現在の原町に移した。