懐かしい町並 大町市大町
大町は北アルプス鹿島槍ヶ岳に源を発する鹿島川のつくった広大な扇状地の扇端部と、北の木崎湖から南下してくる農具川のもたらした沖積地に立地している。
大町村は仁科氏が現天正寺の位置へその居館を設置した鎌倉時代初期以来、町造りが行われたもので、居館前が十日町、それから東へ六日町・九日町と続き、南に折れ、上仲町、次に下仲町の南で、西の高見町、東の八日町になり、八日町の南で五日町となる。これが町造りで一番早く開けた所と思われ、市日が町名となって今に残っていて、中世の宿場と城下町の原型を留めている。
仁科氏の滅亡後も大町村の重要性は変わらず、近世における物資の集散地として、千国街道(糸魚川道・大町道)の上下荷物の継荷宿としての役割を果たしてきて、特に麻問屋の活躍は目覚ましいものがあった。江戸期を通じて松本藩領で、町の中心地には松本藩の御他屋が設けられ、塩蔵・麻蔵が併設されていた。
千国街道が町中を通っていたが、宿場ではなく、間宿であったが、宿駅機能は持っていたようで、大町宿を中心に、北は牛、南は馬による運輸が行われていた。特に糸魚川の信州問屋との交易は盛んであって、塩の他に多くの諸荷物を扱っていた。
家数・人数は寛永15年(1638)195・826、慶安2年(1649)250・人数1,420、貞享4年(1687)2,055人、元文4年(1739)350軒、安政2年(1855)579・2,763とある。
古い町並みは、一か所に纏まってあるのではなく、歴史ある町らしく町のあちこちに散らばっていた。
漆喰塗込めの商家建物、板貼り屋根がそのままトタン張りになった民家、塩問屋だった重厚な商家、造り酒屋の酒蔵、海産物の貯蔵倉庫などで、ナマコ壁の家屋も見られる。旧千国街道沿いには本卯建を揚げた家屋も見られた。
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音楽:中北音楽研究所