鹿児島県の県名の由来となった、天津神の故由を語り継ぐ名社:鹿児島県・鹿児島神宮(Kagoshima Jingū | The Ichinomiya Shrine in Osumi Province)

鹿児島県の県名の由来となった、天津神の故由を語り継ぐ名社:鹿児島県・鹿児島神宮(Kagoshima Jingū | The Ichinomiya Shrine in Osumi Province)

▼チャプターリスト(目次)
0:00 オープニング
0:22 社号碑、一之鳥居
0:38 三之社
0:54 二之鳥居、神橋
1:20 御門神社周辺
1:52 御神木・大楠周辺
2:21 手水舎周辺
2:46 勅使殿
3:29 拝殿
4:09 本殿
4:33 社殿周辺摂末社
4:51 末社 稲荷神社
5:41 御神田
6:01 摂社 石體神社
6:54 末社 保食神社
7:10 高屋山上陵

どうも、管理人のヒロリンです。

鹿児島県霧島市に鎮座する大隅国一宮・鹿児島神宮(かごしまじんぐう)を紹介します。

まず、鹿児島神宮という社名。これは「鹿児島県にある神宮」が社名の由来と思われがちですが、実は違います。旧薩摩藩の領域に鹿児島神宮が鎮座しているから、現在の「鹿児島県」という県名がついたのです。つまり、鹿児島神宮は鹿児島県の県名の由来となった名社なのです。

「鹿児島」の語源は、当社の御祭神である天津日高彦穂々出見尊(あまつひたかひこほほでみのみこと)(山幸彦)が海神宮(わたつみ)に行く際に乗った舟が鹿児山で作られたという説や、「神籠もる島」という説、「カゴ」は崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説、など諸説あります。

錦江湾こと鹿児島湾の奥に鎮座する鹿児島神宮は、山幸彦とその妃である豊玉比売命(とよたまひめのみこと)主祭神をとする悠久の古社。同社の歴史は古く、一説によれば創始は初代天皇・神武天皇の御世。主祭神である山幸彦の崩御に際し、その宮殿だった高千穂宮を、孫の神武天皇が霊廟としたのが起源です。同社の北西13kmほどの地には、山幸彦の陵墓とされる高屋山上陵(7:10)も広がっています。

山幸彦は、天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と、山の神の娘・木花咲弥姫命(このはなさくやひめのみこと)の息子として誕生。三つ子の兄弟の末っ子であり、長兄の海幸彦と諍いを起こしたことで有名です。このいざこざは山幸彦が兄の大事な釣り針をなくしてしまい、必ず見つけ出せと責められたもの。山幸彦は海の神の援助で難題を解決し、豊玉比売命(とよたまひめのみこと)という美しい伴侶まで得ました。そして子孫にも恵まれ、孫は長じて初代天皇・神武天皇となります。

山幸彦は海の宮の豊玉比売命を娶り、現地で3年を過ごしました。そのため、大漁満足などの海に関するご神徳があります。また、豊玉比売命は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)を素早く生み落としており、安産の神としても崇敬されています。

そんな鹿児島神宮は同社の北東端の摂社・石體神社(6:01)が旧地とされています。現在の社殿は1756年造営で、薩摩藩主の島津家24代・重年の寄進。本殿・拝殿・勅使殿が一直線上に並ぶ社殿は鹿児島県最大の木造建築であり、外壁には獅子や牡丹なども描かれ、豪壮な美が薫ります。

拝殿には、薩摩の絵師・木村探元が原画を描いた天井画が存在(3:29)。格子ごとに違う絵が描かれていて、「メロン」、「サボテンの花」、「バナナ」、「ケイトウ」など、当時の日本では物珍しい西洋の植物が多数見受けられます。絵は数百にも上り、鎖国時代の1755年に完成したもの。この天井画を見ると、外交貿易が盛んだった当時の薩摩が想像できます。

Kagoshima Jingū is a Shinto shrine located in the Hayatomachi-uchi neighborhood of the city of Kirishima, Kagoshima prefecture, Japan. It is the ichinomiya of former Ōsumi Province.

According to the shrine’s legend, the Kagoshima Jingū during the Age of the Gods, as Takachiho Palace, the residence of Hikohohodemi no Mikoto, the third and youngest son of Ninigi-no-Mikoto and Konohanasakuya-hime and ancestor of Emperor Jimmu. It was moved to its current location in 708, and Setsusha Sekitai-gu (Ishitai Shrine) is currently located on the former site. Takaya-no-yamanoe misasagi, said to be the mausoleum of Hikohohodemi no Mikoto, is located 13 kilometers northwest of the shrine.

The first mention of the shrine in reliable historical records is in the Engishiki, compiled during the reign of Emperor Daigo, which lists it as the only Shikinai Taisha in southern Kyushu (Hyuga, Osumi, and Satsuma). During the Kenkyū era (1190 – 1199), the shrine’s territory was over 2,500 chō, and it held estates with 1,000 koku until the end of the Edo period. The shrine was patronized by the Shimazu clan of Satsuma Domain from the Sengoku period.

Archaeological excavations have been carried out since 1994. Within the current precincts a large number of shards of Chinese and Thai ceramics from the 14th to the first half of the 15th century have been found, indicating that the shrine was involved in overseas trade with mainland Asia from the Kamakura period to the Muromachi period.

2 Comments

  1. 此処も広そうですね。壁画や天井画見るとお寺みたいなかんじがします。
    鹿児島はいかんせん遠くて、残念ながら、なかなか行こうとは思えません。
    飛行機怖いですから。

  2. とても立派な神宮ですね⛩
    鹿児島では霧島神宮と照國神社だけ行きました。
    他にも、こんなに立派な神宮があるんですね😳
    知りませんでした‼

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