真幡神社(まはたじんじゃ)(黄幡社(おおばんじんじゃ)/地蔵寺) 被爆建物 被爆時の名称 地蔵寺(爆心地から3,440m) 広島市南区北大河町23-16  #広島 #広島市 #神社 #被爆建物 #寺院

真幡神社(まはたじんじゃ)(黄幡社(おおばんじんじゃ)/地蔵寺) 被爆建物 被爆時の名称 地蔵寺(爆心地から3,440m) 広島市南区北大河町23-16  #広島 #広島市 #神社 #被爆建物 #寺院

黄幡神社の右隣りには、光明山地蔵寺があります。 曹洞宗のお寺で、本尊は、延命地蔵菩薩です。

真幡神社(まはたじんじゃ)(黄幡社(おおばんじんじゃ)/地蔵寺) 被爆建物 被爆時の名称 地蔵寺(爆心地から3,440m) 広島市南区北大河町23-16  #広島 #広島市 #神社 #被爆建物 #寺院
20240113  @akibingo

人類史上最初の原子爆弾が昭和20(1945)年8月6日午前8時15分広島市中心部の上空約580mで炸裂し、一瞬のうちに街は焦土と化しました。地元では黄幡社として親しまれている真幡神社も、昭和初期に建替えられた神殿と拝殿の屋根が吹き上がり、柱も折れるなどの大きな被害を受けました。戦後応急修理がなされましたが、拝殿の柱や床板の腐朽が進み、土壁も崩れ落ちるなど危険な状態になりました。このため平成12(2000)年地域の方々の善意と広島市被爆建物等保存・継承事業の助成により、保存工事が実施され被爆の惨禍を後世に伝えています。

真幡神社の御由緒
御由緒書きによると「当浦は、荒天の際は海陸ともに往来が極めて困難であって、災難を受けることが度々あった。」とのことです。という事はこの辺りはかつては海辺だった、という事なのでしょう。

その神助を仰ぐために元和3年(1617年)、社殿を建立したのが創建とのことで、当初は「黄幡社(おうばんしゃ)」と呼ばれていたそうです。
御祭神は「泉津道守神(よもつちもりのかみ)」ほか2柱。

昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾投下の際、爆心地から3.44kmの距離で被爆している被爆建物とのことです。

「邇保姫神社(にほひめじんじゃ)」の摂社にあたるとのことで、御用の際や御朱印を希望される方は「邇保姫神社」へご連絡ください、とのことでした。

付近の道路はけっこう狭いので、参拝の際はお気をつけください。
(少し歩いたらコインパーキングもあるので、運転に自信が無い方は歩いて参拝しても良いかもしれませんね)

真幡神社の概要
神社名
真幡神社
主な御祭神
主祭神
泉津道守神(よもつちもりのかみ)

相殿神
寒座三柱神(さやりますみはしらのかみ)
金山毘古神(かなやまびこのかみ)

光明山 地蔵寺(曹洞宗)
地蔵寺
御本尊 延命地蔵菩薩
御真言 おん かかか びさんまえい そわか
御詠歌 よしあしの つくりしつみの ありながら たのめたすけん ぢぞうせいがん

縁起
 寛永元年、旧二月二十三日、大河浦の住民にて「ハル」と云う人が、浜へ貝を堀りに行き、籠の中に這入った古木を持ちかえり、延命地蔵大菩薩として祈念した所、大火の災難をのがれ、村中の大評判となり、其の後、伝染する悪病が大流行して頓死する者少なからず、戦々恐々としていた所、夢の御告げに依り、御団子を作って地蔵尊に御供へし、御祈祷をして多くの人に与へていただかされれば、伝染する事なしとあり、其の様にして皆悉く災難をのがれたとして多くの人の信仰する所となり、毎年四月の第一日曜日午後三時よりは祈祷会を開催し、おだんごマキを行い春季大祭とし、又九月の第一日曜日午前十一時より施食供養を修して、秋季大祭とし、年中行事として行なって居ります。

義人 三代十郎兵衛の由来
三代十郎兵衛は寛政の頃(1789~1800)大河の地に生れたが早くして両親を失い主水町の御水師方の養子になる。そこで成人した十郎兵衛は身長2m余りとなり力も抜群に強くそのことが藩主浅野候の耳にとまり御手廻り御道具役に召抱えられ昇進して籠夫となりました。そして一年経った頃浅野候が参勤交代の為江戸に上ることになり十郎兵衛もこれに従いました。
或る日将軍の意向で角力の御前試合催され三家の抱力士(将軍、奥州、安芸)が出場しましたが安芸藩力士が大敗したことを聞いた十郎兵衛は浅野候に申出て許しを得て飛入りで出場し二家の力士を土俵に沈め安芸藩の名をあげましたが十郎兵衛は将軍の前で将軍家お抱え力士を倒したことによりその復讐をおそれその夜の中に江戸を逃れて一人広島に帰り生地大河に身をひそめておりました。
やがて浅野候も江戸の勤めを終へて広島に帰城され十郎兵衛をお呼び出しになりました。十郎兵衛は死を決して登城しましたところあにはからんや浅野候は満面に笑みを浮かべ満足げに御前試合で勝った事を非常に喜ばれ十郎兵衛に対して「そちの望みのものは何でも適へる」との御言葉に十郎兵衛は夢見る心地して「別に望みはありませんが私の生地大河近海の海上権を下され」と申しました。候はこれを承知せられ佐伯郡地御前鰯浜より安芸郡坂村松ヶ浜に至る間の海上権を許可せられました。爾来大河住民はこの海から多くの利益を得たのであります。この時浅野候から賜った海上権の証文(御墨付)は金屋町の広寂寺に所蔵してありましたが火災の為焼失したと言われておりますが、又一説には後年になって浅野家に没収されたとも言われております。この後、江波村等との争いが起こりますが肝心の証文がない為漁区がはっきりせず江波との紛争がたえなかったといわれます。
安政二年の大阪屋庄助の事件もその犠牲者の一人と云えるでしょう。爾して十郎兵衛のこの偉業によって大河住民は百有余年の間生計を支えてこられてことは実に大河の一大恩人と云うべきであります。この故人の偉業を偲んで大正初期から毎年旧三月三日の節句には境内に土俵を築き供養祭りに角力大会が催されていましたが現在では黄幡神社の秋祭りの日にその供養祭が行われるに止まっていますが、この史蹟は永久に保存されるべきものでありましょう。この墓は三代十郎兵衛が現役時代に広島城から一人で肩に担いで持ち帰り黄幡神社前の橋の根石に使っていたものを明治の中頃心ある人達が現在地に持ち上って墓石にしたものでありますがこれを見ても故人の力量の非凡なるを知ることもが出来ます。大河文化財保存会 昭和46(1971)年10月吉日

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