この動画では1975年頃のキハ81系による特急「くろしお」上り51号の天王寺から紀伊勝浦間を7両編成で走る姿を再現しました。
特急「くろしお」は、JR西日本が京都・新大阪~和歌山・海南・白浜・新宮間を東海道本線・梅田貨物線・大阪環状線・阪和線・紀勢本線経由で運行している特別急行列車です。京阪神(関西)地区と南紀(和歌山)を結ぶ列車で、特急「くろしお」としては、1965年3月1日に天王寺~名古屋間を阪和線・紀勢本線・関西本線経由で紀伊半島を沿うルートで運行する列車として運行を開始しました。1978年10月2日に紀勢本線の和歌山~ 新宮間が電化されたことにより、新宮駅を境に系統分離され、天王寺~白浜・新宮間の列車を「くろしお」、名古屋~新宮・紀伊勝浦間の列車を「南紀」としました。
特急「くろしお」に使用されたキハ81系(キハ81形・キハ80形・キロ80形・キサシ80形)は上野~青森間の特急「はつかり」を客車から置き換える目的で、1960(S35)年に登場しました。尾久配置でした。
S43.10改正(ヨンサントオ)で「はつかり」が電車化(583系化)されると、奥羽本線経由で上野~秋田を結ぶ「つばさ」に使用されました。このキハ81系「つばさ」は長続きせずに1年(1968.10~1969.10改正前まで)で終了。板谷峠越えの急勾配がネックとなり、強馬力のキハ181系にバトンタッチされました。
そしてキハ81系は、1969.10改正から 新規設定の「いなほ」(上野~秋田、上越線・羽越本線経由)に運用列車が変わりました。しかし 1往復では非効率なせいか、新規設定の「ひたち」へも共通運用とされました。
1日目:秋田→(いなほ)→上野→(ひたち)→平、
2日目:平→(ひたち)→上野→(いなほ)→秋田、という運用でした。
一方、それ以前から関西方面では、1965.3.1改正で登場していた 天王寺~名古屋 を紀勢本線経由で結ぶ特急「くろしお」、東和歌山(現在の和歌山)~名古屋 を 阪和線~(杉本町)~阪和貨物線~(平野付近)~奈良経由 関西本線経由で結ぶ特急「あすか」がキハ82系で運転されていました。配置は和歌山機関区。
需要がどれほどあるかわからない「あすか」が1965.3改正で設定されたのは、キハ82系が和歌山に配置されたことで、1往復しかなかった名古屋行き「くろしお」の間合い運用を考える必要にせまられて設定されたようなものだったようです。
「くろしお」は人気で、1967.10.1改正では 名古屋発着のほかに新宮・白浜発着を各1往復増発して 3往復に、同時に不人気の「あすか」は廃止されました。「あすか」は1965.3.3改正~1967.10.1改正の前まで という2年7か月という短命でした。
さらに「くろしお」の需要は多く、1972.10.2改正で日本海縦貫線が電化開業して「いなほ」が485系電車化されたことにより、キハ81系は東日本方面では用途を失ったため、「くろしお」にまわることになりました。
こうして「くろしお」が増発で6往復になった1972年10月2日改正時に、「いなほ」「ひたち」からキハ81系は撤退し、「くろしお」の応援、増強に回りました。この時は天王寺~名古屋間の1往復にブルドック型のキハ81形(6両 うち4両使用)が限定運用とされました。
1978年(昭和53年)10月2日紀勢本線和歌山~新宮間の電化完成に伴い、天王寺~名古屋駅を直通していた旧「くろしお」を廃止し、新宮駅を境に「くろしお」と「南紀」に分割されました。天王寺~白浜・新宮間のエル特急(新)「くろしお」は381系電車に置き換えられ、キハ81形気動車の定期運用は終了しました。
国鉄キハ80系気動車は、国鉄が開発した特急形気動車で、1960(昭和35)年に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系26両と1961(昭和36)年以降に製造されたキハ82系358両の総称です。
1912(明治45)年に日本最初の特急列車が新橋~下関間に運転開始されて以来、国鉄の特急列車は東海道・山陽本線に限定される形で運行されてきました。戦後もその傾向は変わらず、1958(昭和33)年までは東海道・山陽本線と鹿児島本線の一部に限って特急が運行されていました。1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時は地方路線で運行すること自体が想定されていませんでした。
しかし、国鉄はようやく1958(昭和33)年10月ダイヤ改正で、それまで特急列車が存在しなかった上野~青森間に昼行特急列車1往復を新設しました。戦後復興と高度経済成長に伴う東北本線自体の輸送需要の伸びもさることながら、当時は航空機による旅客輸送が確立されておらず、青森以北についても青函連絡船との連携により鉄道による高い輸送需要があったことから特急を新設する素地があり、1949(昭和29)年から運転していた昼行急行「みちのく」を特急「はつかり」に格上げし、同年10月10日から常磐線経由で蒸気機関車牽引の客車列車として運転を開始しました。
並行して国鉄は1953(昭和28)年から総括制御可能な液体式気動車のキハ10系気動車を量産し、地方路線で無煙化・増発・速度向上・運行経費抑制などの成果をあげていましたが、1956年(昭和31年)にはその技術の延長上にキハ55系準急形気動車を開発しました。
キハ55系の最高速度は旅客用蒸気機関車同様95 km/hでしたが、1両あたり2基エンジン搭載の強力仕様とされたことで、加速力と登坂力で蒸気機関車列車を完全に凌駕しました。煤煙を出さない事に加え、それ以前の気動車の弱点であった客室の居住性も車体の大型化と設備改善である程度の水準に達しており、利用者から好評を博すことになりました。これによって、線路規格の良くない地方の非電化路線でも気動車の投入で高速の優等列車の運転が可能となりました。
またアジア鉄道首脳者会議 第1回会議が、国鉄総裁であった十河信二の提唱で1958(昭和33)年に東京で開かれました。電車特急「こだま」が運転を開始した時期でもあり、国鉄部内に特急「はつかり」を客車から気動車へ置換えて接客設備ならびに速度の向上を図るというプランが浮上し、1959(昭和34)年秋より開発がスタートしました。
1960(昭和35)年初頭には、同年10月にARC第2回会議を再び東京で開催することが決定し、そこで新型気動車をお披露目し、アジア諸国に日本の技術力をアピールすることが鉄道車両の輸出促進につながると期待されました。「はつかり」への営業運転投入は同年12月に決定し、それまでに完成させるべく急ピッチで特急用気動車開発が進められることとなりました。そして1960年に9両編成2本と予備8両の合計26両が製造されたキハ81系は、日本初の特急形気動車として誕生しました。
キハ81系の全体のスタイルは、クリーム4号の地に窓周りが赤2号のツートンカラーの「国鉄特急色」に、銀色の屋根に並ぶキノコ形キセに収められたAU12形分散式冷房装置・遮音防振のため浮床構造車体、複層ガラスによる固定窓・車端部1か所のデッキなど基本的に151系電車を踏襲しました。ただし、非電化区間ならびに交流電化区間の駅はホーム高さが低いため客用ドアにはステップを1段設置しました。
運転台を持つキハ81形は他に例のない独特のボンネット形デザインを採用しましたが、膨れて寸詰まりな形態は鉄道ファンの間から「犬顔」や「ブルドッグ」などの俗称で呼ばれました。
「はつかり」に充当されたキハ81系は、登場早々にトラブル続きで不評を買い将来性を危ぶまれましたが、その間にも旅客需要増大で輸送力改善は急務となり国鉄は1961(昭和36)年10月1日ダイヤ改正で全国に特急列車を大増発することを計画しました。この特急新設路線の多くは地方亜幹線であり、気動車による充当が必須でした。このため国鉄はキハ81系が「はつかり」運用に充当された直後からトラブルへの対策と改良を主題に開発に着手しました。新たに設計された先頭車のキハ82形と基本設計はそのままとされた中間車も含む1961(昭和36)年以降に製造されたグループがキハ82系となりました。なお本系列への製造移行により従来からのキハ81系と合わせキハ80系または80系気動車というグループ全体を意味する統一系列で呼ばれるようになりました。
キハ81系には走行機器のトラブル多発のほか、いくつかの欠点がありました。特に代表的なのは次の2点です。
DMH17系エンジンの低出力。編成内に付随車のキサシを含むことに伴う編成全体の出力不足。
先頭車と食堂車のみに電源を搭載し、先頭車は非貫通構造でもあるため編成を組成する際の柔軟性に欠ける。
これらの問題に対処するためキハ82系では、全体に信頼性向上を図った上で先頭車を貫通式運転台と電源セットを備えるキハ82形に、食堂車を走行用エンジン2基搭載の動力車キシ80形に車種変更した改良を行いました。本方式では中間車全車を走行用エンジン2基搭載とし、サービス電源容量が必要な場合はキハ82形の増結で対処することで一応の編成出力を確保しました。また同時に運転区間途中での増解結ならびに分割併合を自在にするメリットもあり、編成組成の自由度が上がりました。