植木神社 三重県伊賀市平田
【祭神】健速須佐之男命、櫛名田毘売命
【合祀】鳥鳴海神、事代主神、火之迦具土神、品陀和気尊、菅原道真、大山祇命、猿田毘古神、弥都波能売神、健速須佐之男命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、多岐津毘売命、武甕槌命、市杵島姫命、少彦名命、宇迦之御魂命、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、大日孁貴命、鹿島御子三十八神、大物主命、香香脊男命、五十猛神
【由緒】慶長2酉年4月植木伊予守勝記す初期の社伝に曰く「人皇66代一条天皇寛弘元年(1004)出雲国意宇郡日御崎の住人桃木某3男政守と云ふ人諸国神拝遊歴し此里に止り或夜夢に神告て曰く、播磨国飾磨郡広峰山より牛頭天王を仰奉れば今流行の悪疫速に除き給ふと郷人聞きて直ちに広峰山へ登り天王を迎ひ寛弘元年9月9日出後氏天王を玉手村清水谷鳥取神社の相殿に奉勧請す」と又、文永2年(1262)4月8日の洪水の後鎮座地の争いがあった際にも「神前にある枯榊を執り所々の土中へさして神意を伺い此の枯榊一夜の中に青葉を生する所へ定めんと誓ひ給ふに不思議や山田神社の地へ指し奉る枯榊一夜の中に枝葉青々と栄へければ神慮の導き事を奉恐迅に宮地を改宮柱太敷立て如故鳥坂神社と合祭に奉斎一夜にして枯榊の枝葉茂りし神力を尊み以て植木牛頭天王と改称し奉り」と記され、更に天正年中北畠中将信雄郷伊賀国兵乱の際に神霊を存するのみにて社頭悉皆炎滅したが、その後郷人力を合せて慶長2年(1597)に元の宮地へ復興した旨記している。明治2年御府告により牛頭天王号を廃し植木神社と改称し明治40年同41年に平田神社など30社を合祀している。伊賀最古で最大の祇園祭(夏祭り)7月最終土・日曜日
~三重県神社庁教化委員会
☆巖谷一六☆(招魂碑揮毫の巖谷修)
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 – 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。
天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。
父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。幼少より能書で聞こえ版下書をして学費を補った。安政元年(1854年)水口に戻り立的(りゅうてき)の名で藩医を勤める一方、藩の儒者で藩政改革の指導者であった中村栗園に師事し、「正義党」の一員として当時二分していた藩論を尊王へと導くに奔走した。この間多くの漢学者や勤王家と交流した。
慶応4年(明治元年・1868年)4月、徴士として新政府に出仕し、総裁局史官試補を振り出しに書記官僚の道を歩み、主に詔勅をはじめとした公文書の起草・浄書に携わった。三条実美の知遇も得て、枢密権大史、太政官大書記官、一等編修官、修史館監事、内閣大書記官、元老院議官などを歴任した。1890年(明治23年)10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ、1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられた。
1905年(明治38年)、腎炎のため72歳で没した]。戒名は文簡院古梅誠修居士。その墓は京都市東山区霊山の正法寺にあり、顕彰碑「従三位巖谷君之碑」(楊守敬篆額・三島中洲撰文・日下部鳴鶴書丹 明治44年建立)が滋賀県甲賀市水口町京町の大岡寺境内に建つ。なお両親までの一族の墓所は同市水口町城内の真徳寺にある。
はやくから能書家として知られ、日下部鳴鶴、中林梧竹と並ぶ明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学んだが、明治政府出仕後は旧習を脱して、顔真卿の書を基盤とした雄渾な書風へと転じている。さらに1880年(明治13年)に来日した楊守敬から六朝書法を学び独自の書風を確立する。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。とくに閑職となってからは各地に旅行し多数の揮毫作品が伝わる。また日下部鳴鶴と同様数多くの石碑の文字を書いており、現在も全国に250基以上の碑が残っている。
~Wikipedia
WACOCA: People, Life, Style.