#文覚 #以仁王 #源行家 THE 13 LORDS OF THE SHOGUN のちに、江間次郎(芹澤興人)は戦死します。その後、八重(新垣結衣)は北条義時(小栗旬)に嫁ぎ、御成敗式目でおなじみ、のちの3代執権 北条泰時を出産します。時代考証 創価大学文学部 坂井孝一教授の本に書かれてある説が脚本家 三谷幸喜さんに採用されれば、そうなるでしょう。

鎌倉殿と執権北条氏: 義時はいかに朝廷を乗り越えたか (NHK出版新書 661) 新書 – 2021/9/10
坂井孝一 (著)
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00:00 治承4年(1180)北条と江間が狩野川(かのがわ)をはさんで対峙
00:34 怪僧・文覚は実在の人物です 詳しくはのちほど
00:47 河内源氏 源為義の十男 頼朝の叔父 源行家
01:25 後白河法皇の第三皇子 以仁王と摂津源氏の長老 源頼政
01:55 言仁(ときひと)親王の誕生 立太子 治承三年の政変で以仁王は城興寺領を没収
02:24 以仁王の乱と八条院 以仁王は猶子 源行家は蔵人 源頼政は大内守護
02:45 言仁(ときひと)親王が践祚(せんそ) 以仁王は源頼政と共謀 平家追討の令旨
03:06 安徳天皇が即位 源行家が最勝親王こと以仁王の令旨を源頼朝に届ける
03:28 御教書(みぎょうしょ)?令旨(りょうじ)にした理由 前伊豆守 源仲綱の名義
04:10 北条政子が情報漏洩を心配
04:36 熊野別当湛増が挙兵計画を通報 検非違使別当平時忠に源頼政の養子 源兼綱も同行
05:34 長谷部信連が孤軍奮闘 以仁王は女装して三条高倉邸を脱出 園城寺へ
05:43 園城寺大衆(おんじょうじだいしゅ)は以仁王の身柄引き渡しを拒否
06:05 大将 源頼政と平家 平頼盛 教盛 経盛 知盛 重衡 維盛 資盛 清経で園城寺攻撃決定
06:44 宇治川 平家物語 橋合戦 足利忠綱が渡河 源頼政は宇治橋を捨て平等院へ撤退
07:06 源頼政ら平等院で自害 以仁王は山城国相楽郡光明山の鳥居前で討死
07:46 伊豆国知行国主 源頼政と伊豆国守 源仲綱が戦死 以仁王の乱は失敗
08:03 のちに源頼朝や源義経と共に平家と戦う伊豆国目代 源有綱は奥州へ逃亡
08:21 伊豆国知行国主に平時忠 伊豆国守に平時兼 伊豆国目代に山木兼隆
08:46 堤信遠は伊豆国目代 山木兼隆の一族で後見人 第4回で最初に血祭り?
09:46 伊藤祐親と八重と江間次郎
09:57 八重は北条義時と結婚?のちの3代執権 北条泰時を出産 江間次郎が戦死後の話
10:16 時代考証 創価大学文学部 坂井孝一教授の本にある説 概要欄にリンクあり
10:30 鎌倉殿の13人の登場人物を調べると阿波局が二人いることに気づく
10:40 長女 大姫誕生 勝ち誇った北条政子が笑顔で手を振る 八重は複雑な表情
11:12 後白河法皇が源頼朝の夢枕に登場 平家追討の院宣(いんぜん) 夢のお告げ
11:57 三善康信が平清盛による源有綱追討令を源氏追討令と勘違いして源頼朝に急報
12:22 吾妻鏡 京都大番役帰りの三浦義澄が後白河法皇の院宣を北条館に届ける
12:56 源義朝の髑髏 後白河法皇の院宣を届けたのは文覚?平家物語
14:55 源頼朝は挙兵を決意 伊豆国目代 山木兼隆の山木館を攻撃目標に決定

[略年譜]
安元2年(1176)3月ごろ、源頼朝と北条政子が結婚。
治承元年(1177)6月、鹿ヶ谷の陰謀発覚(鹿ヶ谷事件)。
安元3年(1177年)6月、鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)。京都で起こった平家打倒の陰謀事件。
治承2年(1178)または同3年、源頼朝・北条政子の長女・大姫、誕生。
治承3年1月19日、山木兼隆、解官(山槐記 (さんかいき)は、中山忠親)。
治承3年(1179)11月、平清盛、クーデターを起こし、後白河法皇を幽閉、院政を停止(治承3年の政変)。
治承4年(1180年)4月9日、以仁王が平家追討の令旨を発する。源頼政と謀った以仁王は、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。皇太子どころか親王ですらなく、後白河法皇の第三皇子、すなわち、王に過ぎない彼の奉書形式の命令書は、本来は御教書(みぎょうしょ)と呼ぶべきものでした。以仁王は、「最勝親王(さいしょうしんのう)」と自称して、権威のある令旨として、発したのです。原文は『吾妻鏡』や『平家物語』に納められています。令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同がある。内容は自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえ、皇位をだまし取る平氏を討って皇位に就くべきことを宣言しました。
治承4年4月9日、源行家は令旨の日付と同じ、京を立ち、諸国を廻った。令旨を伝達する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(源為義の末子)が起用された。行家は八条院の蔵人。八条院の猶子・以仁王と近い関係にあった。
治承4年4月27日には、山伏姿の行家が伊豆北条館を訪れ、源頼朝に令旨を伝えた。
治承4年5月26日、宇治川を挟んで両軍は対峙。『平家物語』の「橋合戦」。頼政軍は宇治橋の橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦。『平家物語』には、頼政方の五智院但馬や浄妙明秀、一来法師といった強力の僧兵たちの奮戦。攻めあぐねた平氏の家人・藤原忠清は、知盛に河内路への迂回を進言。下野国の武士足利俊綱・忠綱父子はこれに反対。「騎馬武者の馬筏で堤防を作れば渡河は可能」と主張。17歳の足利忠綱が宇治川の急流に馬を乗り入れると、坂東武者300余騎がこれに続き、渡河を許した。頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦。頼政方は次第に人数が減り、源兼綱は討たれ、源仲綱は重傷を負い自害。源頼政はもはやこれまでと念仏をとなえ、渡辺唱(わたなべ となう)の介錯で腹を切った。源仲綱の嫡男・源宗綱、頼政の養子・源仲家(木曽義仲の異母兄)、その子・源仲光らも、相次いで戦死や自害。以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出。藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城国相楽郡光明山こうみょうざん鳥居の前で、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られた(『吾妻鏡』)。以仁王と源頼政が敗死(以仁王の乱)。
伊豆国の知行国主は、源頼政から平清盛の妻・時子の兄・平時忠に変わった。伊豆国の国守には、平時忠の息子・平時兼。そして、奥州へ逃げ出した、源頼政の孫・源有綱に変わり、伊豆国目代として、山木兼隆が入った。山木兼隆が、伊豆に下った際は、位階はあるが、官職がない、「散位(さんに)」、「前廷尉(さきのていい)」にすぎなかった。廷尉(ていい)は 九卿の1つ。検非違使の唐名。在庁官人として、源氏とつながりのあった、北条時政、狩野茂光(かのうしげみつ)らは、急速に立場を悪化させた。
治承4年6月2日、摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸。行宮(あんぐう)が置かれた。
治承4年6月27日、都で大番役を務めていた三浦義澄が、相模の所領に戻る途中に北条を訪れました(『吾妻鏡』)。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
第3回 挙兵は慎重に
2022年1月23日(日)放送
治承4年(1180)4月、源頼朝(大泉洋)と引き離された八重(新垣結衣)は伊東祐親(浅野和之)の家人・江間次郎(芹澤興人)の元へ嫁がされていた。対岸の江間館を見つめる北条義時(小栗旬)。そんな折、頼朝の叔父・源行家(杉本哲太)が北条館を訪ねてくる。怪しがる北条政子(小池栄子)。しぶしぶ対面する源頼朝だが、源行家は平清盛(松平健)へ反旗を翻した後白河法皇(西田敏行)の御子・以仁王(木村昴)の令旨(りょうじ)を携えていた・・・。

第4回 矢のゆくえ
2022年1月30日(日)放送
治承4年(1180)8月、ついに挙兵を決断した源頼朝(大泉洋)の一党は、伊豆国の目代・山木兼隆を討って初戦を飾るべく戦支度いくさじたくを始める。しかし、頼朝の乳母子である山内首藤経俊(山口馬木也)に助力を断られるなど、強大な平家の威光の前に思うように兵が集まらない。強気な兄・北条宗時(片岡愛之助)とは対照的に、自身の浅慮を後悔する北条義時(小栗旬)。そんな中、対岸の江間館で暮らす八重(新垣結衣)が義時に声をかけ・・・。

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