滋賀県大津市坂本の天台真盛宗総本山・西教寺は、豊臣秀吉が築いた伏見城の一部を移築したと伝わる「客殿」(重要文化財)の内部を、4月25日~5月10日、11月7日~12月6日の期間、一般公開する。客殿内部の一般公開は初めて。

また、客殿公開期間に合わせ、大阪府岸和田市の本徳寺が所蔵する、明智光秀の唯一現存する肖像画の実物も特別公開される。

明智光秀の唯一現存する肖像画の実物も特別公開

明智光秀といえば、歴史に「もしも」という言葉を使うなら、最も登場回数が多い人物の一人ではないだろうか。なぜ本能寺の変は起きたのか。日本史最大級のミステリーとして、今も多くの人の関心を集めている。

信長を討った反逆者という印象がある一方で、連歌などに親しんだ教養人として語られることもある。実際のところ、その人物像には今なお分からない部分が多い。西教寺は、そんな明智光秀の菩提寺として知られる。境内には明智光秀一族の墓があり、光秀の正室・熙子の墓も残されている。

さて今回は、「客殿」の内部が4月25日から初めて一般公開されるのを前に、メディア向け内覧会に参加させていただいた。見どころが多すぎたので、ここでは明智光秀と豊臣秀吉の肖像画を中心に紹介したい。

明智光秀の肖像画といえば、日本史の教科書などでおなじみだと思うが、実物となると、そう簡単に見られるものではない。

この肖像画は、大阪府岸和田市の本徳寺が所蔵している。以前、「どんなお寺なのだろう」と気になり、現地まで足を運んだことがある。ただし、寺の前まで行ったものの、実物を拝観できるわけではなく、当然ながら外観を眺めるだけだった。

本や雑誌、テレビ、ネットの画面を通してではなく、一度は実物を見てみたい。そう、ずっと思っていた。

西教寺の「客殿」(重要文化財)へ

客殿は、桃山時代に建立された書院造だ。建物の棟札によると、豊臣秀吉の家臣・大谷吉継の母と山中長俊の妻が施主となり、慶長3年(1598)12月に建てられたという。

そして驚くのは、京都・伏見城(指月城)の一部を移築したものと伝わる点だ。慶長元年(1596)の地震で大破した城の一部を解体し、西教寺へ移したと考えられている。

これまで一般公開されてこなかった客殿には、狩野永徳を筆頭とする狩野派が描いたとされる襖絵が残る。「鶴の間」「猿猴の間」「賢人の間」「花鳥の間」「上座の間」の五つの部屋に、それぞれ描かれている。

なかでも上座の間には帝鑑図が描かれており、この城の主、すなわち天下人・秀吉の御座であったとみられている。

そして、明智光秀の唯一現存する肖像画は「鶴の間」で見ることができる。

それにしても、光秀の菩提寺で、しかも初公開となる「客殿」の中で見られるのだから、なんとも贅沢な機会ではないか。

そして「鶴の間」に入ると、明智光秀の肖像画の横には、豊臣秀吉の肖像画も展示されていた。

これが、あの有名な明智光秀の唯一現存する肖像画だ。

案内によると、大阪府岸和田市にある本徳寺は、南国梵桂(なんごくぼんけい)が創建したとされる臨済宗妙心寺派の寺院だ。

南国梵桂上人は、一説には明智光秀の長男・明智光慶ともいわれる。山崎の戦いの後、密かに出家して名を改めたとの伝承が残されている。

この肖像画は、南国梵桂が父である明智光秀公の菩提を弔うために描かせたものと伝えられる。唯一現存している明智光秀公の肖像画として、テレビや雑誌、教科書などでも頻繁に掲載されている。

そして、その横には「豊臣秀吉公 肖像画(複製)」が展示されている。

これは西教寺が所蔵する豊臣秀吉の肖像画だ。国の重要文化財に指定されており、実物は現在、京都国立博物館へ寄託されている。

案内によると、肖像画は秀吉を神格化し、神像形式で「豊国大明神」として描いたもの。秀吉の家臣・山中長俊が絵師に描かせたとされ、秀吉没後2年にあたる慶長5年(1600年)、追善菩提のために西教寺へ奉納したという。

この2つの肖像画が飾られているのが、先ほど述べた「鶴の間」だ。

13面にわたる襖には、大海原を舞う鶴と、砂浜に憩う群鶴の姿が描かれている。静けさの中に確かな動きがあり、鶴の姿は見れば見るほど奥行きを感じさせる。

そして「鶴の間」の先には、「猿猴の間」「賢人の間」「花鳥の間」「上座の間」と続く。この「客殿」は、Netflix「イクサガミ」のロケ地として使われたことでも話題になっている。

この西教寺は、織田信長による比叡山焼き討ちの際に焼失し、のちに坂本城主となった光秀が再建したと伝わる。

光秀と秀吉は、ともに信長の重臣だった。しかし光秀は本能寺の変を起こし、信長を討つ。毛利攻めのため中国地方にいた秀吉は、その知らせを受けて急ぎ引き返し、山崎の戦いで光秀を破った。

そして今、この西教寺には秀吉ゆかりの伏見城の遺構と伝わる客殿があり、光秀の菩提寺としての歴史も残る。敵味方となった二人の面影が、同じ場所で交差している。そう思うと、歴史の不思議さを感じずにはいられない。

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取材許可:西教寺

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