習近平政権に弱点はあるのか。元防衛省情報分析官・上田篤盛さんは「一強体制の強固さは、脆さの裏返しでもある。都市部と農村の格差や、不動産バブルの崩壊などによって中国社会の不満は静かに蓄積されつつある」という――。


※本稿は、上田篤盛『兵法三十六計で読み解く中国の軍事戦略 「戦わずして勝つ」台湾侵略と尖閣占領』(育鵬社)の一部を再編集したものです。


「烈士記念日」の式典に臨む中国の習近平国家主席=2025年9月30日、北京の天安門広場

写真提供=共同通信社

「烈士記念日」の式典に臨む中国の習近平国家主席=2025年9月30日、北京の天安門広場



お粥をすする時代から政治家として台頭

習近平の歩みは、まさに「挫折と再起」を原点とする権力上昇の物語である。1953年、太子党の子として生まれながら、文化大革命で父・習仲勲が失脚し、自身も紅衛兵に糾弾された。


16歳で陝西省延安に下放され、粟粥をすすりながら耐えた経験は、彼の粘り強さと現実主義的な統治スタイルを形作った。


1974年に共産党へ入党した後は、福建省・浙江省での地方行政経験を積み重ね、着実に官僚の階段を上りながら、軍との関係も深めていった。浙江省では省党委員会書記だけでなく、省軍区党委第一書記を務めるなどの軍との関わりが彼の政治的台頭を後押しした。


先の薄熙来事件が発生した時、まさに2012年秋の第18回党大会を前にした夏、一時的に習近平の動静が表から消えた。彼の健康不安説、失脚などが噂され、総書記への就任に黄色信号が点滅し始めた。実は、習近平は胡錦濤や温家宝から薄熙来事件の始末を任せられていたようである。


「幼なじみ」を排除し、最高権力へ

習近平と薄熙来は、共に「太子党」と呼ばれる高級幹部の子弟であり、父親同士――習仲勲と薄一波は古くからの同志だった。かつて習は薄を「薄にいさん」と呼ぶほど親しい間柄であり、二人は幼なじみでもあった。


2007年6月12日、中国の薄熙来貿易大臣
2007年6月12日、中国の薄熙来貿易大臣(写真=Georges Boulougouris/© European Communities、2007/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)


だが、共産党の序列上では、習が上位に立つことになる。この微妙な関係のなかで、習は冷静に薄熙来を排除した。政権の安定、すなわち“桃”を守るために、近しい関係にあった薄熙来という“李”を切ったのである。さらに、薄熙来をかばった常務委員の周永康も粛清され、習の最高権力への道が完全に開かれた。


李代桃僵りだいとうきょう

「李が桃の代わりに倒れる」という意味のたとえで、避けがたい損害を前にしたとき、価値の低いものや自陣営の一部(例えば部下や部門など)を犠牲にし、より重要なもの(組織、リーダー等)を守ることで、全体の損害を抑えつつ勝利を得る計略


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