藤井義一さん(91)岐阜市 戦後80年18紙企画

2025/07/23 14:00

 戦後80年を迎え、戦争体験を直接聞く機会がますます少なくなっています。佐賀新聞など全国の18新聞社が連携し、各地の体験者の証言を共有、掲載して、1945年の「あの時」を伝えます。(随時掲載)

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 1945年7月9日深夜、本郷国民学校6年だった藤井義一さん(91)=岐阜市本郷町=は、けたたましいサイレンに飛び起き、外に出た。約2キロ東の水道山上空に黒い機影。何かを落とすのが見えた。市街地の8割を焼失した岐阜空襲。市中心部の本郷地区(旧本郷小学校区)は被害が甚大だったエリアだ。だが、恐怖の一夜は「それから続く辛苦の入り口に過ぎなかった」。

80年前に避難した長良川の堤防で当時の様子を思い返す藤井義一さん。水道山(中央奥)の上空から迫るB29爆撃機の機影を必死に目で追ったという=6月25日、岐阜市内

 「ヒューザザー」。米軍B29爆撃機の編隊からばらまかれた焼夷(しょうい)弾が、市中一面に降り注ぐ。尾っぽを振るように落ちてくる様子が「空中を赤くゆらゆら漂う『人だま』に見えた」。

岐阜空襲後、岐阜市中心部の柳ケ瀬から西方を望んだ光景。奥が本郷町方面(岐阜空襲を記録する会提供)

 自宅周辺には大通りから長良川河畔へ逃げる人が殺到した。材木商だった父は仕事でフィリピンに行っており、家にいたのは母と祖父母、妹、弟の6人。近くの堤防へと急いだ。

 

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