復興の先のニュータウン化

3月11日が来ると、これだけは確実に思い出す。東日本大震災が起きてから両親との連絡がなかなか取れず、すぐには安否確認ができなかったこと。その後、母から電話がかかってきたものの、県庁職員だった父が震災の対応に追われていたため、父とはしばらく話ができなかったこと。帰郷できるようになってから目の当たりにした、道路が地盤の液状化で沈み込み、ひび割れ、波打っていた光景を(筆者の実家である一軒家はキッチンの床が崩れたくらいだったのだが、そのすぐ真裏にあったアパートはほぼ倒壊していた)。

福島県は海沿いの浜通り、内陸の中通り、日本海側の会津と、縦に3つのエリアに分けて語られ、文化、風土的にも他県かのような個性の差異を感じていた。筆者の実家は県庁が位置し、新幹線を使えば東京から1時間半で着ける中通りの福島市に(昔もいまも)あり、幼いころは家族でエリアを跨ぐだけでも大きな旅行感覚だった。

東日本大震災の震源地にあたる宮城県の牡鹿半島から、およそ110kmの直線距離がある福島市ですら当時の光景は惨状と言っても過言ではなく、大地震に加え、津波があった浜通りの“その時”は、言うまでもなく想像を絶する。

福島県に限らず繰り返された「状況」の報道。

津波による福島第一原子力発電所(以下、原発)の故障、メルトダウン。

放射性物質の放出、汚染。

主に食物、水に関する風評被害という連鎖。

時が経てば経つほどに記憶が薄らいでしまい、自責の念を抱くのだが、確か、被害・報道はさまざまな方向に枝分かれと波及をし、やがて福島は“フクシマ”と表記されるようになり、おそらく福島全土に対してネガティブなレッテルが貼られた。

しかし、生活に必要なインフラが回復し、従来同様のアクセスができるようになり、世間の話題がコロコロと変わっていけばいくほどに、被災地から遠く離れたところで暮らす人たちの記憶は彼方へと霞んでいく(残念ながら、まさに自分がそうだ)。原発が残された福島県の双葉郡には、“その時”の痕がいまだに深くあるにもかかわらず。

やがて双葉町の再生モデルが“震災国日本”の未来を救うかもしれない──「FUTABA ALTERNATIVE」レポート

PHOTOGRAPH BY TAMEKI OSHIRO

ちょうど2年前、友人を介して原発がある双葉郡大熊町の復興支援をしている方を紹介してもらい、たまたま大熊町に行く機会を得た。除染のための立ち入り規制がある程度緩和されたころで、地元だからというより「一度見てみたかった」という好奇心に駆られたのが赴いた正直な理由だ。

道路に散乱している民家の石垣。被災したときのままの学校。それらと相対する新たに建てられた施設やコワーキングスペースなどを見学させてもらったのだが、何よりも印象に残っているのは、等間隔に建てられていたあまりに綺麗な平屋の家が並ぶ一角の、奇妙なほど人気のない静けさと虚しさ。よぎった予感は大熊町の「ありふれたニュータウン化」だった。

復興で新たに町を築いていく。掲げられた前向きなメッセージの裏側にある困難な事実、実ははびこっているのではないかと想像してしまう「諦念」がくっきりと眼前に現れたような感覚。そのときとほぼ同じ時期、ほど近い場所に来る機会がまたあるとは思いもよらなかった。

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