【ytvドキュメント】『時計の針 ~亡き母へ 阪神・淡路大震災29年~』

[音楽]
毎年1月になると訪れる場所があり
ます男性は阪神淡路大震災で母を
なくし兄とも生き別れになりました
ここに立つと自分がま素直になれるという
か自分のいいとこも悪いところも報告
できるのでまそう意味では自分を見直す
場所でもあります
し祠に祀られているお地蔵さん幼い頃母と
暮らした記憶がここにあります
開した
建物家失われた
命29年前の地震で
6432人が亡くなりましたもうちょっと
前出てからはい
はい一瞬にして消え去った
日常地震は大切な人と過ごした思い出も
時間も奪いまし
た北斗
今年1月17日の追悼集会で男性は遺族
代表として思いを語りまし
た震災の日5歳の私と母と兄の3人は階の
神戸料の建物の1回で生活しまし
たでが開して私は生きになっており知ら
ない人たちが私を助け出してくれまし
た母はその時すでに死んでおり兄は無でし
た震災
を私と兄
は父の音に引き取られたのですが
私だけ
が自に預けられまし
たその
から私と家族の時計の針は止まりまし
た兄は私に今まで何をしてあげれなかった
ことにして責任を感じており今
よな顔をして会えばいいかわからない
と私は兄に会いたいと思いまし
た兄と弟の時計の針は止まった
まま亡くなった母へ阪神淡路大震災から
29年の報告です
鈴木悠一さん35
歳服や雑貨を輸入して販売する小さな会社
を営んでい
[拍手]
ます悠一さんは29年前神戸星料で被災し
ました
5歳の時のこと
です神戸星料は夫の暴力や貧困障害など
困難を抱えた母とこのための福祉
施設駆け込み寺のような場所でし
た36人が支え合い暮らしていた小さな家
を自信が襲いました
おしなかったやっぱり考えてるそうな
の優一さんは母と兄3人で暮らしていまし
たここにはいでも1階が完全に2階に
押しつぶされてだからもう一体2階が1階
になってる状態で僕1階に進んでたん
でで全く動けなくてもうそんな時間が何
時間も経って誰かがここに人がおるって
言って僕を助けて出してくれたんですよ
その瓦礫の下
から昭和にできた木造の家は激しく
崩れ落ち母2子供2人そして職員の合わせ
て5人が亡くなりまし
[音楽]
た悠一さんの兄は自力で逃げ出し一命を
取り止めましたが母とおさんは冷蔵庫の
下敷きとなり亡くなりまし

お母さん全然違うところにいたんですよで
パッて見たらもう布団にくるまってる状態
でもう死んでると分かりましたね見た瞬間
もうなくなってました
はい母のとおさん暴力を振るう夫から子供
を守るため神戸星料へ世話好きで周りから
も頼りにされる存在でし
た何より一さんと兄2人の息子を大事にし
ていまし
た悠一さんの手元に残る1枚の写真は神戸
の牧場に遊びに行った時の
もの当時まだ5
歳母の記憶はおぼろにしかありません
母をなくした優一さんは児童養護施設神戸
実業学院に預けられまし
た父親は子供を2人も育てられないと兄
だけを引き取ったの
です悠一さんは5歳から二十歳までこの
児童養護施設で暮らしまし
た僕ここのベッドでしたどここの下
のはいここで机もここで最初多分ここの机
でしたねここで生活しました懐かしいです
こすぐ寝れ
るっていうけどなんか2階のベッドの方が
いいみたいなのありましたねこの階段登り
たいみたいな
はいどうして自分だけ
離れて暮らす父親は時々施設に面会に行き
ましたでも1度も一緒に暮らそうとは言い
ませんでし
た感情の表現がそんなにまみなそうなん
ですできないましてあのお母さんをそう
いう状況でなくしたっていうのはすごく心
にこう大きな傷っていうかベースになる
ものがなくなってるわけですからその辺を
少しでも周りの大人が埋めて
[音楽]
いく中学生の時7つ年上の兄が1度だけ
施設の悠一さんを訪ねてきたことがあり
まし
た兄貴に関しても1回なんか僕は中学生
ぐらいの時に僕と親父とちっと住みたい
みたいなことを聞いてきてでま僕は分から
ないで分からないって言ってでそれでそれ
から
また来週ぐらいに来るわて言われてまそっ
からも2度と来なかったんですけどだから
その時ぐらいからもうま自分の中でなんか
そういうま親子とか兄貴とかになんか期待
するのも結構疲れてきてそれだったらもう
自分でどうにかしようと思っ
て施を出る
作業て
なくなっていたことを理事長から知らされ
まし
た兄の居場所もわからないままでし
た一さんは仕事の合間を乗って月に一度
施設を訪れ
ますここで暮らす子供たちは兄弟のような
存在です
ちゃんとってどういう作用があってどう
いうなんて言うんかなこのなんかとにかく
何でもいいから目の前にあることをがもし
に合っていくっていうことが大事だなって
今の経験の中ではほんまに思うから目標
持ってないから俺は今頑張れそうそうそう
いうこと目標って別なやけどもうなんでも
いいのもうしょうもないえなんかおります
家族のいない自分だからでそのために
があとっますそういうこと常になんか目標
が欲しいと思そうそうだ僕の中で家族って
いう存在が実は分からなくてまそれは
ずっと分からないんです
けど自分の中でそういう存在の人がい
なかった分自分が求めていた

そのま自分の下の子にはそうしてあげたい
なっていうか
ま結局は
多分自分自身を救ってることになってると
思うんですけどま自分がそうし欲しかっ
たっていうことなんで
これこれですねマフラーと時計なんです
けどはいまマフラーは普段冬は一さんの
手元にある母の片時計はちょっと女性も
神戸料の職員がずっと預かっていたもの
です
一緒に手紙が入っててあの鏡で笑ったらま
僕の顔はお母さんにそっくりだよってこう
手紙書いてました
はいイの方の手紙ていうのは名前とかも
書いてあったあ書いてましたはい本さん
ですね
はいいつも膝の抱っこして可愛がってくれ
てたよみたいな話でしたねはいあ自分は
大事にされてたんだっていうところが
すごい嬉しかったですね
はいけさん見てもらったよねはい先生すい
ませんあのこちら神戸バ料と申します今日
今ね9度以上の熱が出てしまってお母さん
オロオロしてるんですがはい先生ところに
もう1度神戸料の指導員岡本ゆさん
いですか自信で施設が全開して場を失った
母とこの2年間の避難生活を支えまし
たあ夜中にパッと起きて怖いとか思うよう
なことも
ないなんかなんか自信がそう
な怖い
131415
22222今も福祉の仕事を続けてい
ますさんを自動養護施設に預けた時のこと
は1日も忘れたことがありませ
んお父さんに預けするという
ちゃんがまだなかったということと
お父さん自もう育てられないということを
伺っていて私が親になって彼を育てるって
言うわけにはいかないのでだったらもうお
預けしたんだからゆうちゃんをしっかりと
あのここへお預けして私はもう会いに来
ないでおこうとその下手に会いに行って
たらゆちゃんがこう待をしてしまうから僕
を出してくれるあの子はその1人で生きて
いかなければいけ
ない毎年自信があった1月17日は神戸星
量の跡地にある祠で手を合わせます
お母さんと2人で来てくれたうん
[音楽]
ありがとう母子料で亡くなった5人のお
地蔵さんが祀られてい
ます
[音楽]
あ地蔵は母子料の子供たちが作りました
地震が起きた夏のこと
です跡地で集めた砂で5人を追悼するため
に作りまし
[音楽]
た兄弟のように育った
友達2人の
お作ってくれた職員への思いを込めまし
たでこれがバーバかほらパパね似
てるこれがね静かちゃん2歳から3歳笑っ
てるもん笑ってるね可愛いほらこれがね
あのゆ君のお母さん
ですおお母さんにそっくり
5年前岡本さんは一通の手紙を地蔵の前に
置きまし
た震災の後父親から
引き離し別の施設に入れ
た悠一さんに当てたもの
ですゆうちゃん小さかったのでねお母さん
の思い出っていうのが思い出せるのがね
おぼろじゃないかなと思っていのででき
たらお母さんやそれからお父さんと私も
関わってきたんでそのお父さんの思い出と
かもこう話してあげたいなと思っ
て悠一さんも年に1度震災が起きた1月に
祠に手を合わせに来ていることを人に聞い
ていました
[音楽]
[音楽]
僕と一緒に学院に行く時も一緒に来てた
みたいですね僕がお父さんに抱っこされて
ニコニコと学園のも何も知にくっ
た顔を忘れたことありませんって書いて
ます
はいできるのであればまたこれ連絡
くださいということでま連絡先が書いて
ますはいでま僕の家族のこともねすごい
知ってる方なので待って話を聞いてみたい
なと思いますね
はい手紙を読んでから3ヶ月後悠一さんは
岡本さんに会うことを決めました
すいこんにちはお久しぶり
です久しぶりですいちゃん
はいはい久しぶり
です大きくなって大きくなりました
ごめんね
うごめん
ごめん幼い頃の自分を知り大切に思って
くれていた人はここにも
いきなり泣かれた僕もね泣きそう
[音楽]
ます元気そうで良かった
です元気元気はい
1回前に行かんでごめんなあいい
全然あんな自信がなかったらねお母さんと
今もずっとお母さんもすごい喜んでるやろ
しお母さんのが言い当ててたよ私にはゆが
いるから大丈夫つもってただからお母さん
はゆうちゃんを見抜いてたよそうですか
この子は頭がいいしねい
先生頼むよってねうんゆちゃんのことよく
言って
た岡本さんにはもう1つ伝えたいこと
がさんの兄かさんのこと
です震災後連絡が取れていた時期もあり
結婚もしていると言い
ますもまあ一生懸生きててうん私が知っ
てる間はすごい一生懸命生きててでう
くれたりご飯も一緒に食べたりしたんだ
けどうんあの頑張ってやってたんだけど
またなんか連絡取れなくなっちゃったのよ
どこにいるのかなと思って落ち込みやすい
子やからすごい心配なんだけどあそうなん
です
ねだからいつも俺が
薬兄のかさん地震の後父に引き取られて
からも一緒にった仲間のいる神戸
あのさんはね震の時にこなんで来るんかな
やっぱりこういう風
になんで料に来たいと思うのか
[音楽]
ななんで
[音楽]
やろは
蔵作りに参加していまし
たとおという母の
名前一文字ひ文字丁寧に記していまし
たってきお兄ちゃんからうんだいぶ前だ
けどこういう話があるし奥さんの方もあの
たった2人の兄弟だからねはい会ってみた
方がいいんじゃないのって進められてる
けどもうお兄ちゃんちょっと半泣きやった
けどはいうん僕がどの顔下げてゆに会える
んや
はい僕はゆに何もいいことをしてない兄
らしいことはしてないってうんでもう
いずれ自分を許すことができたらゆう
ちゃんに会ってあげよって言っ分かった今
は会え
ない苦しんでまし
たあ情報もらったら連絡するわねああ
わかりまし
たお母ちゃんが一さんは
が弟を支えてやれなかったと苦しんで生き
てきたことを初めて知りましたもうこう
コツコツとやりあげていってくれたらいい
かなと
悠一さんの背中には家族の名前が記されて

[音楽]
ますでなくなったの
と顔もはっきりと覚えていない父の
新一そして兄
かそれぞれの一文字を自分の周りに並べ
まし
たんでってこんな気持ち
でし岡本さんとの再会で兄の存在が少し
近づきました
悠一さんにとって唯一の肉である兄のか
さん神戸星料で被災した
後生き分かれたままになっていました
去年秋兄の消息が分かりまし
たあれあですりまし

お父親のような存在の金子理事長にます
自分の決意を伝え
ますまちょっと自分の自分の兄ああはい
はいはいちょっと会いに行こうかなと思い
ましてはい単純に会いたいなっていう
気持ちがそうそうそうはいまあるしって
いうのでうんはいま当然家族とまずあの
あの生活あのするところをそこから抜け
てるわけやからその辺をどういう風に自分
がこうあの改めて見直して認知していくか
これからの人生の中でも大事なことになる
かなと思ううん大切なことやなと思うけど
なはい
兄の苦しみを知りちゃんと少しでも心の
負担を軽くしてあげたいと考えましたよう
にしようと思いますうんはい何もでき
なかったことをうんもうなんか全然悪く
思わないで欲しいとうんでそれよりもなん
か僕はそんな気にしてないしうんうんそれ
よりも今の人生幸せに来てほしいなって
思うんではいうんうんまそれを伝えたい
なっていうのはうんはい
震災から29年が
経ち家族ができた兄左やあもうこの沿いか
[音楽]
あすいませ
んすいませんはいあこちらに鈴木かまさん
とおられますはいあおられます今おられ
ますかあ今ああそうなんですね
あああの僕弟なんですけどあゆい君
ちょっと待ってねはいすいません
はいこんばんはこんばんは初めまして
初めましてはいあの僕弟の友一と言いまし
てゆねはいはいあのりございやいやあくあ
に来たんですけどはい今いないですね
ちょっと子供とお風呂行てあ来ました今あ
あお兄ちゃんゆゆお今
ゆびっくりした会いに来て入ってうんはい
会いに来てうん
うん元気にしてる
今は元元気にし
てる喋ったらとりあえず中に入っても
カメラいいんですかあじゃあお邪ってきて
さいはい兄と弟の29年時計の針が動き
始めまし
た今年の1月日一さんは母の片のマフラー
を身につけて震災の追式店に臨みまし

北斗は遺族代表として
2のを語
さその姿を去年再開した兄のかさんが
見守りまし
た追式店に来たのは初めてですに会うこと
ができませんでした私は人に感謝をする
ことを感じて生活していくうちにがて兄が
苦労したこともになってきまし
た兄も実の母をなくし悲しい中苦労をして
当たり前だったと思うようになりました私
は兄に会いたいと思いましたそれは兄に
幸せで生きてほしいと伝えたいから
です今日1月17日私は初めて兄と一緒に
母の墓参に行き
ます29年
前ま止まった私の家族の時間が今日やっと
動き始め
ますここまで私が生きてこられたのは本当
に多くの方に支えられおになったからです
本当にありがとうござい
ますなんかそこにあったが
あこれは兄ちゃんが作て
ったら自分で作っ
てここの土で作ったよね粘土と
[音楽]

怖さはなくなりましたねこの17日の怖さ
がいろんなこと思い出したりするんが
やっぱ嫌だったんで見て
ねでもねこうやってあえてその恐怖は取れ
ました
ね兄はねずっと1月が来るのが怖いって
言ってたん
でもうこれで怖くなりなくなってほしい
なっ
て思い
ますハッピーバースデートユハバースデー
トユハッピーバースデーディア
ゆハッピー
[拍手]
バースデーおめでとう
いやあ35歳35歳おめでとう
初初誕生日初誕生日の初めてのはい小さい
時の覚えといや覚えてやってたのかな
そんなん
えどうぞありがとう絶対バンドやん
絶対揃いねお揃いやでええボナベンチュラ
のAppleウォッチの
ありがとうお兄ちゃんいいやんいいやん
おりとけすごい
[音楽]
すごい母のぬくもりをやっと兄に届ける
ことができまし
たこれなんかも六さ牧場写真らしい
[音楽]
これしばらく兄ちゃん持っとい
て俺ずっと持ってた
[音楽]
からDET

「私と家族との時計の針は止まりました」―2024年1月17日、阪神・淡路大震災の追悼行事で、遺族代表を務めた鈴木佑一さん(35・神戸市)が語った言葉です。震災で一緒に暮らしていた母親を亡くし、兄とも生き別れになりましたが、2023年11月、ついに兄との再会を果たしました。震災から29年のときを経て、ようやく「家族の時間」を取り戻せたのです。
全国各地で地震が相次ぐ中、震災の傷を抱えて人生を歩んでいく人は多くいます。大切な人を失っても人生に絶望しないために、精神的な支えとなる人が欠かせないということ、そして、そのような状況でも前を向いて生きている人がいるということ…このドキュメンタリーを見た人が、「誰かを支える」きっかけになることを願い制作しました。

#阪神淡路大震災 #阪神 #29年 #神戸母子寮 #1.17のつどい #神戸市 #NNNドキュメント #読売テレビ #ytv

▼特集動画や深堀解説、最新ニュースを毎日配信 チャンネル登録よろしくお願いします!
https://www.youtube.com/channel/UCv7_krlrre3GQi79d4guxHQ

▼読売テレビ報道局のSNS
TikTok https://www.tiktok.com/@ytvnews
X(旧Twitter)https://twitter.com/news_ytv

▼読売テレビニュース
https://www.ytv.co.jp/press/

▼かんさい情報ネットten.
Facebook https://www.facebook.com/ytvten/
Instagram https://www.instagram.com/ytv.ten/
X(旧Twitter)https://twitter.com/ytvnewsten
webサイト https://www.ytv.co.jp/ten/

▼情報ライブ ミヤネ屋
https://www.ytv.co.jp/miyaneya/

▼ウェークアップ
X(旧Twitter)https://twitter.com/ytvwakeup
webサイトhttps://www.ytv.co.jp/wakeup/

▼情報提供はこちら「投稿ボックス」
https://www.ytv.co.jp/toukou_box/

10 Comments

  1. 切ないね。
    だけど、お兄ちゃん!と
    また 会えて良かったわね。
    お母様の分まで、一生懸命長生きして下さい。

  2. 止まってた時計を此れから、素敵な時間を刻んで行って下さい。お兄さんの奥さんが『祐一君?』と言って迎え入れた事、優しいなと思いました😊

  3. 前何かで見て何で二人とも引き取らないんだろうかと思ったけれど元からDV系だったのね

  4. 本当に、本当に再会出来て良かったです!
    何より、天国のお母さんが喜んでいるはずです。
    いつまでも、兄弟仲良くいて下さいね✨

  5. お兄ちゃん辛かったね。弟さんも辛かったの凄いわかる。お兄さんの顔いつも悲しい顔してる。笑ってるのに目は泣いてる。お兄ちゃんお兄ちゃんやからって我慢しなくていいよ。弟さんにそれからの人生がどんな風だったか、辛かったこと、苦しかったこと話そう。家族だから話していいねん。話そう。そして、この先の長い人生を家族と一緒にいろんなことを乗り越えよう。お兄ちゃん話していいんだよ。弱音言っていいんだよ。あなたの心が辛いって言ってるよ。弟さんはきっと話して欲しいって思ってるよ。お兄ちゃん大丈夫。

  6. お兄さんすごく面影あるね
    一緒に泣いてるお嫁さんも優しいいい人と巡りあえてよかった
    自分も小さい時に母を病気でなくしてるけど、普通にお母さんに甘えて育つ事って あたりまえ じゃないんだよね

  7. とにかくお母さんが喜んでいると思います。優しい兄弟です、かわいい弟のことを忘れたことなんてなかったはず、これからずっと一緒ですね!

  8. お母さんが亡くなった時、お兄さんは12歳の頃だったから、お母さんとの記憶は鮮明に残ってるでしょうね。
    どんなに無念だったか。
    最後のシーンで号泣してしまいました。
    このまま幸せが続いて欲しい。