【震災特番】母を亡くした震災遺児 「死ぬのが怖いから頑張るという状況でした」家族の存在と再び向き合う 6434人が亡くなった「阪神・淡路大震災」 発生から29年『この瞬間に祈る』

阪神淡路大心災の発生から29回目の1月
17日を迎えまし
たおはようございます関西テレビの吉原
公健
です私は追悼の集いが開かれている神戸市
の東遊園地からお伝えしていき
ます大変寒いとなりまし
たこの都は震災で犠牲となった6432人
を忍び震災の記憶を次の世代に語り継ごう
と毎年この日に行われてい
ます東遊園地には大切に守られている場所
があり
ます
1.17希望の明り
です全国の被災地などから寄せられた種火
で生まれたこの明りは追悼の思いをつなぐ
証として被災者の心に寄り添ってきまし
たこの明りが分けられた頭領で作られて
いるの
は共にという文字
です世代を超えて語り継いでほしいという
願いそして1日に発生した石川の半島地震
の被災者に寄り添うという意味が込められ
ています
はい震災を忘れたいでも忘れたく
ない忘れられないあの時
[拍手]
です
当たり前の日常が明日もやってくると誰も
が思っていまし
[音楽]
た妻

むちゃくちゃなっ
とるなんちゅうことや
[音楽]
ほんま突然襲った15秒ほどの
揺れ変わり果てた街の姿は徐々に明らかに
なっていきまし
たビルが完全に倒れておりますビルが完全
に倒れて崩壊しておりますえ阪神高速道路
の橋桁橋桁とえ同時にトラックが数台え
点灯しており
ますご覧くださいあそこにバスがもう半分
飛び出して今にも落ちそうな状況となって

ます
ここどこがた今足やろ
すぐ急するからね助かったちょっと向こ
やろおさんこれでもうみんな全部助かっ
てんのいや弟がりおります
ね崩れた建物は多くの人々の命を奪い人間
の営みも壊しました
トイレはいけるもうトイレも今水が流れ
ないだからね
牛乳することがない水もう機械も動かない
からそうだわね
うん
命を救いたいと願った人たちも被災者でし

[音楽]

またこの時を迎え
ます震災を震災を経験した町は多くの
悲しみそして苦しみと受けてきまし
たこの時だけ
はいつもは閉じ込めている感情
をちょっと表に出す方もいらっしゃい
ますそのような時間を共有したいと思い
各地と中継を結んでお伝えし
ますそれぞれの場所で祈りの時を迎える
準備が進められてい
ます
まずは神戸市東七区の森地区
です地域の方々が慰霊のある公園に集まっ
てこられ
ますこの地区は神市でも被害の大きかった
地域の1つで建物のおよそ8割が開しまし
た6歳娘をくされた方に先日お
と寒くなってくると毎年寂しい気持ちに
なるそう
です町の皆さんと痛みを分かち合って
励まし合い歩んできたのだと教えて
くださいまし
た異祭という形は取られなくなりましたが
地域の方々が自然と集まりその時を過ごさ

ます
続いて西宮市には谷本アナウンサーがい
ます私は西宮市にある高木小学校に来てい
ます震災でこの小学校に通う児童5人が
犠牲になりまし
た私の後ろには復興の金があり
ます有志の小学生などが5時46分に金を
鳴らし
ますこの場所に特別な思いを持って訪れる
ご遺族がい
ます西宮市に住む津智博
さん6歳下の弟誠さんを震災でなくしまし
た生生やけども可愛いやつっていう感じ
でした
1月16日の夜も一緒に本を買って帰って
きてお風呂に入ってその買ってきた本を
呼んでま弟が呼んでたんですけどその時に
もう11時過ぎてたんで早く寝なさい
よっって一言声をかけたのは最後です
ねまあ今から考えたらそんな言わんかっ
たらよかったと思うんですけどもっと本を
読ましてやればよかっとは思いますそこ
その辺はやっぱり悔が残ります
ね自宅は西半分だけが
崩れ落ちたまたまそこで寝ていたまさんが
下敷きになりまし
た震災の後誠さんが通っていた高木小学校
に作られた水筒の
金しかし
さんは15年間行くことを避けていまし
たやそれぐらいの同じ年の小学生の子見る
のが怖かったんかもしれないですねあれ
ぐらいやったなと思うとまた悲しんで
くるという部分だと思いますその年ぐらい
でやっと自分の心の中でね
こう受け入れることができた
今では1人の親としてあの日を迎えてい
ます娘のさきさんは誠さんと同じ高木小
学校に入学し去年初めて1月17日の朝に
追悼の金を鳴らしまし
た父さんの弟のとかなんか思うことある
もしお父さんの弟が生きていたら会ってみ
たかっ
たつかさんは親になってから気づいたこと
があり
ますこの子がもう8歳と半年ですしま弟と
一緒にいた時間にだいぶ追いついてきて
ます
しま最初の頃はこの子がいなかったので
あのなくした悲しみやっただけなんです
けどやっぱ子供ができて大きくなってくる
とこの子をなくしたらどうどうなって
しまうんやろうっていうあの親としての
悲しさっていうのも分かりまし
た一緒にあの日に思いを寄せ
ます智さんににお越しいただきました本日
はよろしくお願いしますよろしくお願いし
ます1月17日の朝をご自宅ではなくこの
高木小学校で毎年過ごされていると聞きし
ましたはいはいどういった思いでお越しに
なるんでしょうかえっと実際え長い年月が
経ってあの震災を経験してない方が過半数
を占めるようになった現在どうしても災害
というものはあの自分から遠い出来事やと
いう風な認識になりがちなんですけれども
そういう場にあの実際に災害を経験した
ものが行くことによってえ実際自分にも
起こり得る現実のことであるということを
再認識していただきたいと思いましてあの
参加しておりますまもなく5時46分の時
を迎えます今日弟さんにはどういった思い
で祈られますかはい弟にはあの家族を
見守ってやってほしいとで他の子供たちに
もあの見守ってやってほしいと思います
今日はつかさんの娘さんもはい一緒にお越
だとお聞きしていますはい娘さんと一緒に
この場所で5時46分を迎えることはい
どうお感じになってますかあの単純にや
参加してくれることはとても嬉しいですし
あのこの災害というものを次の世代その
また次の世代へあの残して災害が来ると
いうことを残していけたらと思っており
ますつかさんありがとうございますはい
ありがとうございまし
た震災の記憶思いを共有する場所は時を経
て大切な人と一緒に祈る場所にもなってい
ます当時今そして未来へ思いは繋がって
いき
ますには竹神アナウンサーがい
ます伊市の小池公園からお伝えします伊市
では震災で22人の方が亡くなりました
こちらでは昨日の夕方から夜通し追悼の
集いが開かれたくさんの方が祈りを捧げて

ますロソでは29年前と今そして未来を
つぐ思いをテーマにしたが描かれ会場を
優しく照らしてい
ます今日は都を主催するボランティア団体
の代表赤松弘樹さんにお越しいただきまし
たよろしくお願いしますよろしくお願いし
ます松さんついは今年で29回目を向い
ます耐えることなく明りを灯し続けてい
ますがこの集いにはどのような思いを込め
られているのでしょうかそうですね今この
時間12時間前え彼らが生きていた
640034名の人が生きてた時間えこの
時間を過ごすそしてえ17日えこの日を
悲しい日だけにしたいのではなくてあの人
に優しくなれる日人を思いやれる日そう
いう風になってほしいなと思っています
赤松さんは経営していた学習塾で大切な
教え語の方をなくされそのことが集いを
始めるきっかけの1つになったと伺いまし
た月日が経ちましたが今教え後の方に伝え
たいことありますかそうですね
え今僕たちはしっかりと生きれていますか
今今
はい僕たちの思いが届いていますか今
あなたの思いを少しでも受け止めれてい
ますかっていう風に答えれたらいいかなと
話ができたらいいかなと思い
ます若松さんはつい先日ボランティア団体
で半島自身の災を支援されました改めて今
震災について考えることの大切さについて
教えてくださいそうですね自然災害って
いうのはどんなことがあっても防ぐことが
できませんでも人災というのは防ぐことが
できますそれは私たちの人への優しさ
思いやりだと思いますそういったものが
広がっていけばいいのかなと思いますそう
ですねそして小池公園たくさんの方が本当
にお越しいただいていましてそして若い方
の姿がとてもますねそうですねあの私たち
は経験した僕たちは今伝承をしていますで
ももうこの29年という時間は伝承から次
継承つまり震災を知らない子供たちへ
受け継がれていこうとしています電照から
継承へということが始まっていってるなと
思っています松さんお忙しい仲ありがとう
ございましたありがとうございますこの日
に思いをはせることが時をつぎそして人を
思いやる優しい気持ちもつていますいつ
までもこの明りが私たちの心にされ続ける
ことを願ってい
ますれ協のいが開かれている神戸市の
東遊園地からお伝えし
まするに増えてました協願い東遊園地では
この後ご遺族を代表して震災で母親を
なくした男性が思いを伝えます
29年が経ちやっと踏み出せた一歩があり
まし
た神戸市に住む鈴木雄一
さん震災当時母と兄と3人でここで暮らし
ていまし
たのの
さんは兄が作ったものですはいここでま
手合わせてするとなんかま自分のいろんな
気持ちの整理になったりとかもするん
でこの場所には当時生活に困窮した母子
世帯が身を寄せる母子料がありましたが
震災で
全開一さんも兄とのさんととに下敷きに
なり富男さんをなくしまし
た兄は父に引き取られ唯一さんは自動擁護
施設
に震災をきっかけにわずか5歳で1人
ぼっちになりまし
たうんなんかもうこのままだったら自分は
1人で人生終わっていくっていうことを
すごい感じて
なんかそれがすごい怖かっ怖かったんです

ねだから
うんなんか頑張って生きるってよりかは
もう死ぬのが怖いから頑張るみたいな
そんな状況でし
たほとんど記憶にはない母の
姿それでもたった1枚の一緒に写った写真
にある母の言葉に支えられまし
た愛する勇一とっていうメッセージ
が愛しててくれてたんだなと思いますし
はいま母にとって自分は大切な存在だった
んだなっていうのは思いますね
はい家族の存在と再び向き合った悠一さん
去年兄と会う決心がやっとつきまし
たあ今は
まこの写真をま兄とも一緒に見たりとかも
できますし家に飾自分が飾るようになった
んだなと思いました
ね今日母の名前が刻まれた東遊園地でこの
時を迎え
ますに変わる人
がね自分の人生をこう少しでもあの僕は
支えてもらったんでまそういう人たちがい
るっていうことにま僕
はまそれをそれに対して感謝をしてま
何かしらその僕のま生きてることが少しで
も役に立てたらなって
いう震災が残し
てが
はて
い災は続いているのだと改めて教えて
くださいまし
た震災を経験した人々はこの29年懸命に
前を向いて生きてきまし
たそれでも心に追った傷は消えること
は5時
4し
ますまもなく午前5時46分を向えます時
45分なくなった643人の方々に思いを
はせ
て午前の4分どお知らせし
ます北斗
[音楽]
まし
おりください
[音楽]
1人1人が思いを抱いた5時46分が過ぎ
まし
たあの日から必死に走り続けてきた人の阪
1日たりとも悲しみを忘れること
なくのおを
頂戴支えてくれた人への感謝を胸に行き
続けている人がい
[音楽]
ますあの日父をなくしたフルート
者音楽で恩返しをそう思って歩んできまし

これは父と母が買ってくれた最初の手にし
たフルート
です当時高校2年生だった久保田美
さん音楽大学への進学を目指していました
が父幸夫さんは将来を心配して
反対毎日のように喧嘩をする
中が起きまし
た幸夫さんは崩れ落ちた家の下敷きになり
命を失いまし
たおいてきとるか大丈夫かって声が聞こえ
たんですけど1回声聞いてから声が聞こえ
なくなる
て一家の大黒柱だった父をなくしたみさん
自分だけお金のかかる楽の道へは進めない
と大好きだったフルートをやめることにし
まし
たもういし方
うんまどこからどうどう街を見てもまだ
ぐちゃぐちゃだし当たり前だと思ってはい
まし
た父が亡くなってから数日たってあるいを
伝えたいとを訪ねた人がいまし
た中学校で吹奏学部の顧問をしていた天野
先生
です生
がまお父さんとしてはま音楽でなかなか
食べていくの大変だかなってま僕もそれ
分かってたのでまあなかなか厳しいと思う
のでっていう話は聞いてた全然否定してる
かって言ったらそうでもなくてとても
優しいお父さんなんでまもう1回考えて
あげてくれかいうそれ僕の気持ちですけど
言った
と実は父幸夫さんは音楽大学に行った
知り合いから話を聞くなど影ながらひろみ
さんの夢を応援していまし
たいや本当ごめんねって思いましたね喧嘩
悪ついてたんであのうーん喧嘩しなかっ
たらよかったなって思いました
父の本心を知ってもう一度夢を追いかけ
始めたひろみ
さん今はプロのフルート操車として演奏を
続けてい
[音楽]
ますま思い返すと悲しいことっていうのは
別に拭いされるあの去ることができるわけ
じゃないんですけれどもそれよりも感謝の
気持ちの方が強くなったっていうのはあの
この年月とまま時間ですね時間と出会って
きた人
たちに支えていただいたことが大きかった
ので私はたまたま音学にあの進むことでえ
救ってもらったようなところがあるので
うん自分の場合は音楽を通して行動に移し
たいなという風に思っています
[音楽]
はい
ひろみさんの胸には亡くなった父や周囲へ
の感謝がありまし
た演奏で恩返しをしていき
[音楽]
ます
[音楽]

の優しいフルートの色に悲しみの先で今も
生きる意味を突きつけられる私に
はがいると知らされましたあの日もう1人
634人の尊い命が奪われたことはその
1人1人に母のお夢や未来があった
こと残された人たちが懸命に生きてきた
こと今を生きる私たちが一旦その歩みを
止めその事実に思いをはせたいと思います
のことについてもそしてさ次なる災害へ私
に私たちが大切な命を守るために次の一歩
を踏み出していきましょう感じており
今更もうちょいこっちへ
来るお風呂一晩初めてもこんだけお風呂が
今かもっ
てたです今日食べててくださいよ無料です
ね食べてて
くださいああ忘れてましたわ温かいも
食べるの忘れ忘れとりました
うんにいかがです
かい無事だっ

やそら来てねいきなり涙が出まし
た改めていろんなこと思い出しました

もう一歩深く
こうが立ったからそのことについてなんか
考えれるようになった今後どう生きて
いこうかみたいなことを
考えるいいきっかけとかにはなってます
はいこうして多くの人が集まってこうやっ
てトをしに来てるっていうことはやっぱり
忘れてはいけない事実だと思うしこれから
も災害て起きる可能性は全然あるのでま
こうしてまちょっとでもあの忘れないよう
にやっと動き始め
ますここまで私が生きてこられたのは本当
に多くの方に支えられる

【カンテレ・震災特番】「この瞬間に祈る」阪神淡路大震災 29年 2024年1月17日放送

■あの日何が…1.17の記憶

■亡き弟と同じ小学校へ 娘と迎える1.17

■母を亡くした震災遺児 29年目の変化

■「この瞬間に祈る」神戸・東遊園地、高木小学校(兵庫・西宮市)、昆陽池公園(兵庫・伊丹市)、森南地区(神戸・東灘区)各地で黙とう

■諦めかけた音楽の道 亡き父の思い

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≪関西テレビ「newsランナー」毎週月〜金・夕方4時45分から放送🏃≫

メインキャスター:吉原功兼
情報キャスター:竹上萌奈・谷元星奈・橋本和花子
フィールドキャスター:坂元龍斗
解説デスク:神崎博・加藤さゆり
気象予報士:片平敦

8 Comments

  1. 伊丹のアナウンサーが鼻啜りすぎで、話が入ってこんかった。
    あれはあかんやろ。

  2. アナウンサーさんも、震災で多くの命が奪われたのだから、悲しみが込み上げる気持ちになるでしょう。
    涙声で当たり前です。

  3. 今年で、29年ですね………
    亡くなられた方々にご冥福をお祈りします。

  4. 関東・阪神大震災、新潟、東日本、九州四国、北海道、そして今回。
    この30年間の平成の間と令和に至るまでに、被災対策は何一つ変わってない…。

    相変わらず、テントが無い、水が無い、食料が無い、トイレが無い、風呂が無い、防寒対策が無い、建物の強度が足りない、清潔で居ることが出来ないから病気が蔓延する、医療が足りない、救護の受けてが無い、道路整備が出来ない対策もしてない、海路も医療船が相変わらず無い…etc..

    個人が出来る震災対策は精々が震度5強の災害レベルまで。

    震度7の被る被災対策は、都・区と県で国から予算を貰っているのだから、少しずつ35年間やっていたら、当時の総務省や経済省の予定では今頃は、今被害に合っている割合が8割近く減っているはずだったんだよね…。

    1/1も観てみなよ、特に問題なのは、テントさえ用意されていない、防寒対策もない、トイレも無い、だから医療も崩壊する、震災で生き残ったのに、用意を怠けたという人災で今亡くなっている…。

    東日本もそうだった…。

    誰のせいって決めるのは与党なのだから、自民党公明党のせい。

    お前ら本当に35年間、経済も終わらせて、被災対策も怠けて、防衛対策も35年間対して変わってないよね。

    何してんだよお前ら!!!

  5. この出来事を忘れないためにも関西だけでなく全国ネットで放送してほしいです。改めてご冥福をお祈りします。

  6. せんそうが、おわったのに、せっかくと戦争が終わったのに、、大災害だなんて!むごい、地球はどうして、、😭