【貧困と挫折】広島カープが直面した壮絶な失敗物語【睡眠用】

こんにちはゆっくり霊夢ですゆっくり魔 理沙だぜ今回は平成広島残念スケット対談 誌を紹介するぜ以前広島カープ15年連続 Bクラスの要因を解説した時に外国人の 入室も多かったって話をしてたもんねその 時は尺の問題で簡単にしか触れられなかっ たので今回は全力名の選手をちゃんと紹介 するぞてか貧乏すぎて入出した選手が6名 もいたのあまり古傷を痛めつけるような ことはしたくないがお金がなかったんだよ チームの運営とお金は切っても切れない 関係だからね平成広島残念スケット対談し 1人目はロビンソンチェコだチェコ選手は ドミニカ共和国出身の選手でカープ アカデミーでプレイした後に92年から カープに入団したんだドミニカ人なのに 名前はチェコなのね1度目の広島時代は 93年までの在籍2年間で1軍登板は0肘 を痛めていたこともありオフには自由契約 になったんだあれいきなり活躍したわけで はないのね94年年からは台湾リーグの 地法イーグルスでプレイ95年から再び カープと契約したんだドミニカ日本台湾 そしてまた日本と結構いろんなとこを 渡り歩いた苦労人だったのね最右男事も あまり大きな期待はされてなかったようで 背番号はなんと3桁の106番だったんだ ぜ106番ブルペン星とかバッティング 投手あとはドカベンのオリジナル キャラクターくらいでしか3桁た番号は見 ない印象だわ現在のプロ野球では育成選手 のみかさ桁番号は認められてないので3桁 番号で活躍した史上唯一の選手とも言われ てるな経歴も背番号も移植の選手だったの ねそんなチェコ選手だったがNPBの出流 戦となった4月12日の阪神戦でいきなり 4案だ関風の離れ技をしたんだクロ人がど 派手にNPBデビューを飾ったのねチェコ 投手の開進劇は続き5月12日の横浜線で も4勝目を上げた上に勝利投手になった 試合はいずれも関東でのものだったんだ 凄まじい関東能力を持った投手じゃない しかも161級の関東をした翌日に当時の 三村監督から肩の状態を聞かれた際には中 3日で登板できることをアピールして早く 投げたいと最速するほどだったそうだ今時 高校野球でもやらないような告っぷりじゃ ないでもそれまで色々苦労したでしょう から投げたくてうずうずしてたのかもね その後も勝利を積み重ねたチェコ投手は 前半戦のうちに10勝を記録してオール スターに選出第2戦で前世の先発を務める などその年の背リーグを代表する投手へと 成長したんだオールスター選出も納得の 活躍っぷりだもんねオールスター明けにも

に連勝するなどエースとして文句なしの 活躍を続けていたんだがシーズン終盤に9 回を賑わす騒動を起こしたんだ年齢詐称で もバレたのこの時期は外国人スポーツ選手 やアイドルがその手の話題でお茶の間を 騒がせてたがチェコ選手は違うぞだったら 何よ8月22日のヤクルト戦を前に新たな ボーナス契約を結んでくれなければ今後は 先発しないと突然登板を拒否したんだどう いうことシーズン途中にインセンティブ 契約を要求なんて前代未もすぎるじゃない これには広島球団側も激怒して投げないの なら2軍営行けと要求を突っぱねたそうだ そりゃそうよ成績伸びたからってシーズン 途中に都度契約変更されたら溜まったもん じゃないもんねさすがにチェコ選手側も 要求を撤回してその後も1軍で登板し続け て年間15勝を上げたんだがしこりの残る 騒動となったんだチェコ選手側ってのが気 になるわね問題はそこなんだ実はこの騒動 の後になってチェコ選手がダの村市と代理 人契約を結んでいたことが発覚したんだ なるほど何も分かっていない若い外国人に 近寄ってくる大人の存在があったわけね それだけ活躍した選手の代理人になった わけだからさかし法外な年方アップを要求 してきたんじゃないの実は年方同行では なくなんとMLB挑戦のために広島との 契約会場を要求してきたんだえ予想の 斜め上を行った要求だわこの団の村は95 年にのヒデオのメジャーリーグ挑戦時に 代理人を務めた人物としても知られていて その時にはNPB任意引退というプロ野球 協約の盲点をつく形で野茂投手のMLB 挑戦を実現させたんだ究極の選手 ファーストな代理人ではあるけど球団から したら溜まったもんじゃない存在ねこの時 もチェコ選手の契約会場を一方的に通告し メジャー球団との交渉を勝手に開始したん だぜいやいやそんなことしたら二重契約に なっちゃじゃないのよダの村市の言文とし てはチェコ選手の契約所のサイは偽造され たもので球団に支払い義務がある参加報酬 の一部が支払われていないゆえに契約自体 が不完全であるため解除は当然という解釈 だったそうだ外国人選手の契約はかなり ブラックボックスと言われるけどさすがに そんな主張が押し通せるほど雑な契約はし てないでしょうからね広島川が団の村市を 業務妨害及び名誉毀損で国訴する泥沼の 事態へと発展最終的には代理人がモリン氏 に変わり年をまたいだ96年の1月に チェコ選手の広島残留が発表されたんだ 一応は契約延長されたのねただこの契約は 翌年のMLB挑戦を容認する裏約束があっ

たとされてるぜなんだかわだかまりができ てそうな一連の事件ね翌96年もエースと しての活躍を期待されたチェコ投手だった が6月末に故障を理由に戦戦を離脱結局 後半戦は1度も1軍登板がないまま シーズンを終えたんだなんだか翌年の MLB挑戦に向けて力を温存したように 見えるわね真実は定ではないが当時は仮病 ではないかとの噂も立ってたそうだ結局 チェコ投手は想定通りに96年オフに広島 を対談97年からはボストンレッド ソックスに移籍してるんだ野茂投手が大 リーグで活躍したこともあってNPB投手 への注目も高まってたでしょうから代理人 としては掘り出しもをメジャーに輸出し たい思いがあったのかもね余談だがこの 96年といえば巨人が広島との最第 11.5ゲーム差をひっくり返して優勝し たメイクドラマが生まれた年なんだ前半 独走v一でも紹介した広島版V野根が 起こった年だったのねもしチェコ投手が 前年同様に代謝輪の活躍でチームに貢献し ていたらそんなことをつい考えてしまう 悲劇の対談劇となってしまったんだその後 の暗黒時代の到来を予感させるような 悲しい事件だったのね平成広島残念 スケット対談し2人目はルイスロペスだ このロペス選手は広島史上最強のスケット とも言われる選手なんだぜそんなにすごい 選手だったの96年に広島入りしたロペス 選手は1年目からNPBに適応来日1年目 に打率3割1部2輪25本類打109打点 をマークしなんと打点王を獲得したんだ 先ほど紹介した96年の会心劇の背景には スケットの活躍があったわけねまた タイトルや個人成績よりも僕はチームが 勝つために仕事をしているんだと語るほど の熱血感でであったとも言われてるんだ 自己中心的な選手ではなかったのねそんな ロペス選手だったが96年オフの契約公開 では複数年契約を主張ただ広島は単年契約 を望んだため最終的には1億2000万円 プラス出来高での1年契約で合意したんだ 直近で複数年活躍しなかった選手がいた から出来高をつつける形で契約したのね人 はやちから学ぶからなロペス選手は来日2 年目はさらに成績を向上させて打率3割2 部30本類打112打点OPS924の 高成績2年連続の打点王とベスト9に加え て初の最たアダも獲得したんだ めちゃくちゃ優秀なスケットじゃないこの 活躍を受けてさすがに広島も2年契約 プラス出来高かの新契約を提示したんだ 複数年働いたのを見てちゃんと長期契約を 提示したのねところがロペス選手側は

ベース額のアップを要求広島が提示した 1.5億円ではなく2.1億での2年契約 を求めたんだ俺の実力は分かっただろう 出来高ではなくベース額をアップしてくれ ってのは選手としては当然の要求よね最終 的には両者は合意に至らず結局ロペス選手 は福岡大Aホークスへ移籍することになっ たんだリーグでもトップクラスのスケット をミスミスた球団に奪われちゃったのね ちなみにロペス選手が在籍していた時期の 広島の得点数は96年がリーグ1位の 670得点で97年がリーグ2位の651 得点ロペス選手が対談した98年はリーグ 3位の578得点へと低下したんだ当然 得点力の低下は他の選手の調子の兼ね合い もあるが大約1塁種がロペス選手以下の 攻撃力だったことも影響してるな資金力が なかったことで自慢の攻撃力を維持でき なくなっちゃったのねちなみにロペス選手 は3年後の2000年に広島に復帰したん だが2002年にチームの主力であった 前田友選手と試合中に大言化する騒動も 起こしてるな何々それ気になるじゃないの よ話がそれるので今回は説明しないがいつ かチームメイト同士の乱闘士でも 取り上げるか現代の野球選手ではあり得 ないような揉め事があったのね気になる人 は是非コメント欄でリクエストをお願いし ます平成広島残念スケット対談し3人目は 姉3ミンチーだミンチ投手は98年から 広島でプレイ1年目から先発ローテの主力 格として活躍しリーグ最た投球回数となる 236イニングを投げて防御率2.75 15勝11敗の高成績を残したんだ とんでもないタフネス投手ねてか95年に チェコ96年にロペスそして98年に民地 行って毎年のように有料スケット外国人を 当ててるのね仮に3選手とも残留できて いればとんでもない外国人鳥を結成となっ てるなこの98年の広島は借金15を抱え てのリーグ超に沈んでるがきちんと外国人 を残留させていれば成績低迷は防げたかも な民地投手は翌99年こそに9敗防御率 5.75と大きく成績を下げたものの 2000年はチーム最多の12勝を上げて 復活活躍した982000年の2年は いずれも30先発以上を記録するなど仲 良日も厭わない鉄腕ぶりを発揮したんだ 一定以上の質を保ちながらイニング消化の 多さで貢献度を高めるタイプだったのね 2000年時点で年齢はまだ31歳と若く その後もローテの中心としての活躍が期待 されたがシーズンオフの契約交渉では年方 が高騰しことを理由に自由契約となって しまったんだえこんなに優秀な投手を放出

するなんてもったいないさかしかなり工学 な年方を要求してきたんじゃないの当時の 具体的な交渉内容に関する記事がないので 正確なことは言えないが2000年の民地 投手の年方は4200万円え待って めちゃくちゃ安すぎじゃない民地投手側の 要求額は不明だが1億円を超える工学契約 を嫌ったそうだなえたったの1億円決して 安くはないけど民投手の貢献度を考えたら 1億でもお釣りが来るくらいじゃない当時 ってまだ1億円プレイヤーが少なかったん だっけこれまた正確な資料がなくて申し訳 ないがあるサイトによると2000年の プロ野球で年方1億2500万円以上の 選手は36名いるんだ当時の9回最高年方 はオリックス一郎選手が5.3万円ついで にが巨人松井秀樹選手の3.5億円ちなみ に広島最高年方は前田選手の2億 1500万円で新が野村健治郎選手の 2億円3位小形光一選手の1.6億円で4 位が金本智明選手の1.5億円だな広島に もそれなりに工学選手はいるし民地投手が 1億円以上の年方を要求してもおかしくは ないわねひょっとしたら1999年に故障 で成績を下げたことも契約延長をする上で 不安材料になったのかもなベテラン投手は 故障で一気に成績下げがちだもんね加えて 民投手は仲良くか登板を好んだそうだが他 の投手との調整が困難にななることを当時 の首脳人が嫌ったとも言われてるなこれ だけの投手が中4日でイニング消化して くれるなら民地投手に運用を合わせる方が リターンは大きい気がするけどね広島を 対談したミンチ投手は2001年から パリーグのロッテでプレイロッテでも 仲良くか登板を厭わない古回転で204回 1/3を投げて12勝防御率3.26で 地震初の最優秀防御率のタイトルを獲得し たんだ防御率3.26でタイトル取れる ものなの当時はか打だったために防御率3 点台でもかなり優秀な投手と捉えるべき だろうなリーグ屈の失点抑止力を持った 投手が200イニングも投げてくれる なんてとんでもない貢献度じゃないちなみ に両リーグで2桁勝利を記録した初めての 外国人投手でもあるんだしかも言い方悪い けど当時決して強くなかった広島とロッテ で勝利系の記録を達成するなんてすごい ことね民地投手はよ2002年も230回 1/3を投げて防御率2.8号15リーグ 最多の7関東を記録したんだ30代半ばに なっても全く衰えないどころかむしろ成績 向上させてるじゃないロテ生後3年目と なる2003年も192回1/3を投げて 14昇級敗の高成績を残すなどリーグ

トップレベルの先発として活躍したんだ ちなみに民地投手移籍後の広島は慢性的な 先発の小足に苦しみ失点数も2001年が リーグ4位の5962002年がリーグ6 位の6742003年がリーグ4位の 653失点といくら本拠地が得点の入り やすい旧広島市民球場とはいえ感化でない 投手事情になっていたんだ民地投手を 引き止められていたらと考えずにはいられ ないわね年方自体もロて1年目が 1.3億円でそこから1.72.1 2.5億円と年々アップしていったようだ が貢献度を考えればそれでもなおコスト パフォーマンスに優れると言っていい レベルだからなパリーグに移籍してくれた からまだいいけどこれが同一リーグの ライバル球団に移籍してたらさらに大失態 だったよねこの時期の広島は主力選手が 同一リーグの球団に移籍することが多かっ たからその意味では不幸中の幸いかもな それでもかなり不幸度は高いけどね平成 広島残年スケット対談し4人目はエディ ディアスだディアス選手は1999年から 広島でプレイ来日1年目は打率に割6部 三輪8本類だと物足りない成績で年方 30万ドルで残留するなどは決して有料 スケットとは言えなかったんだざっくり 計算で年方3000万円くらいってかなり 格安外国人選手ねディアス選手がブレイク したのは来日3年目の2001年この年は 打率3割4輪32本類だ85打点OPS 911の大活躍をしてセカンドのベスト9 を受賞したんだセカンドでそんなに売って たのよく2002年は故障の影響で出場 機械こそ減らしたものの17本類打で OPS817とまずまずの成績年齢的にも まだ31歳と若く気象価値のある打てる2 塁種だったがオフの契約交渉が不調に 終わりチームを対談してるんだえもったい ないまこの時期の広島は主力や首のつぐ 対談と高齢化当主人の弱体化もあって チーム成績が低迷してたので無理に ベテランの工学外国人選手を抱える必要は ないという判断だったのかもな前の3名 よりは悲劇度は少ないけど単に財政なんと チーム低迷で有料スケットを保有し続け られなかった事実が身によってはこっちの 方がメンタルをえぐられるわねいろんな 意味で労働環境が整わないと人材が流出し ていくというのは企業も同じで資本主義 社会の残酷な一面だな平成広島残念 スケット対談し5人目はアンディシツだ3 大広島遺体FA輸出史でも紹介した有料 スケットね確か阪神に移籍したのよねそう だなシ選手は元々守備力の高さを変われて

入団した選手で野村選手が衰えて以降固定 できなかったショートのレギュラー候補 だったんだ外国人ショートなんてなかなか 見ないからちょっと燃えるわね遊撃守備で は失策の大さが目立ったものの打撃面では 来日1年目に打率3割一部3輪25本類打 OPS894の高成績を残したんださっき のディアス選手といい連続して打てる二勇 刊外国人選手を連れて来られてるのね当時 の詳細な守備記録が残っていないので はっきりしたことは言えないがこれだけ 打てるのであれば多少の守備のまずさも 補ってあまりある打撃貢献だなシ選手の2 年目はやや成績を下げたもののそれでも 23本類だOPS819とまずまずの成績 江藤明金本など4番打者がついでFA移籍 したチームにあって貴重な長打力の供給限 となっていたんだ今度こそ多球団への輸出 は避けたいところよね2004年オフシ 選手は2年総額350万ドル以上の複数年 契約を要求だが広島がこの要求に応じ なかったため11月10日に自由契約と なったんだ白旗上げるの早くない合意する 可能性が低い交渉は双方にとって無駄な 時間だからなこのシ選手を巡ってソフト バンクと阪神による私立な獲得競争が行わ れたが最終的には阪神が2年総額 400万ドルプラスで高払いでシツ選手 獲得にこぎつけたんだまた同一リーグの 球団に持っていかれてるじゃないのちなみ に阪神は元々横浜を対談したタイロン ウッズ選手の獲得を目指していたが中日と のマネーゲームに破れてしまったんだそれ でシ選手に白の矢が立ったわけねてか ドイツリーグの球団同士が必死に獲得競争 してるのにそこに抵抗することすらできな いってはがゆいわねしかも中日も阪神も 一塁種を強化できた一方で広島は39歳の 野村選手にファーストのレギュラーを 任せることになったからなまあこれは 2000本安打を達成させるためではあっ たんだがそれはそれで歪んだ編成ではある からなその辺の正育問題について触れたら 炎上するわよ正育なき構造改革が大事なん だよまた人によって評価が別れる政治の フレーズを持ち出しちゃってやめて政治と 野球の話を避けるのはビジネスの基礎中の 基礎よ霊夢はビジネス経験皆無だろうが 平成広島残念スケット対談し6人目は グレッグラロッカだラロッカ選手は 2004年に広島に入団内野ならどこでも 守れるユティリテ制を合わせ持つ中距離法 という触れ込みで推定年方は驚きの 2700万円の格安スケットだったんだ ディアス選手の時といい格安で引っ張って

きたのねラロッカ選手はセカンドの レギュラーとして起用されるとなんと打率 3割2部8厘40本類打101打点OPS 1.02の大爆発出塁率4割2ブゴリの 高成績で最高出塁率のタイトルまで獲得し ベスト9も受賞したんだまたまた強打の 外国人スケットがセカンドでベスト9に 輝いたのね2年目も活躍が期待されたが指 の骨折など旅重なる故障に泣いてわずか 80試合の出場にとまったんだそれだけ 故障が多かったとなると成績の質も下がっ たんじゃないの当然前年と比べると成績を 下げたがそれでも打率3割3輪出塁率3割 6部8厘OPS926と高い水準ではあっ たんだそれだけ打てる選手は貴重だから できれば残留させたいところよねところが 広島首脳anは故障の王さと守備難を嫌っ てラロッカ選手を自由契約にしてしまった んだまこれに関しては編成の判断の問題だ からあれこれは言えないわね当時の広島は ベテラン外国人を雇って上位を狙うような 状況でもなかったしそれは言えるな編成面 の妥当性を置いておくと実は広島2年目の ラロッカ選手の年方は88410万円え あんなに打ちまくったのにそんなに安くて 広島に残留してくれたの結果的にラロッカ 選手は広島からヤクルトに移籍することに なるがヤクルトでの年方は9000万円と 決して高くはない額だなまた有料選手を 同一リーグの多球団に明け渡してしまった のね遺跡先の役ルトでも故障の王さもあり 103試合の出場にとまるがそれでも18 本類だOPS836とまずまずの成績ヤル とは故障の王さなどもあり1年で対談する ことになるが2007年からはオリックス でプレイ遺跡1年目の2007年には27 本類だOPS871の高成績で3塁守部門 では初のベスト9を獲得してるな故障の 大差がネックではあるけど健康ならリーグ 上位クラスの成績を残せる選手だったのね これだけ故障が多い選手であれば保有し 続けるのはそれなりにリスクを伴うことは 確かだただ財政力に優れる球団であれば 多少の故障リスクは承知の上で外国人選手 を複数人保有する戦略を取ることもできる な近年だとソフトバンクとか阪神が外国人 1軍登録枠の上限を超えてでも外国人を 保有する戦略を取ったりするもんね戦略の ゼガ費をここで議論すると話が逸れて しまうがチーム運営をするにおいて様々な 選択肢を取れるに越したことはないな資金 力の問題でで戦略が狭められるのは スポーツ以外の局面でも決していい状況で はないもんねその点ではこの時期の広島は 非常に苦しい球団運営をせざるを得ない

状況だったな外国人選手を長期保有でき ないこと以外にも様々な問題を抱えてた もんねその辺の厳しい財政事情は広島 カープ15年連続Bクラスの要因解説動画 を見ていただけると幸いだ な今回は平成広島失敗ドラフト市を紹介 するぜ失敗ドラフト企画の第5弾ね今回の 広島編は結構ボリュームが多いので早速 本題に入らせてもらうぜ98年から15年 連続Bクラスが続いただけあって失敗 ドラフトの数も多いわけね紐解いていくと 90年前半にドラフトでうまく戦力を整え られなかったことが後の低迷の原因になっ てることがよく分かる企画になってるぞ 平成広島失敗ドラフトし1つ目は1990 年だいきなり平成2年の時点で失敗し ちゃってるのねちなみに平成平元年の ドラフトでは佐々岡信じ前田友という後の 東田の柱を同時に獲得してるんだ平成の スタートダッシュはめちゃくちゃ良かった んじゃないいいことってのはなかなか続か ないもんだ人生も野球も同じなのね話を 戻してこの1990年の広島はリーグ2 周囲巨人に22ゲーム差をつけられたもの の特殊点差42はリーグ2この年は巨人が 特質点差190という記録的な数字を残し て88勝を上げたため優勝争いはでき なかっが例年ならもっと優勝チームとの差 が縮まっててもおかしくなかったな10年 に1回出るかどうかレベルのダトの戦力を 有したライバル球団があっただけで普通 なら優勝争いに絡んでもおかしくない戦力 を有してたのね気になる戦力補強ポイント はどこだったのまずこの時期の広島は70 年代後半から80年代にかけての黄金時代 が終焉を迎えつつあって86年に広島史上 最高選手の山本浩司が引退し翌87年には 鉄人木が佐々一もユニフォームを脱いでる んだ長年主軸を担った2人が立て続けに 現役を知りといてるのねその他にも3度の 盗塁王を獲得した高橋義彦が89年に トレードで放出されるなどチームは転換機 を迎えてたんだ1つのサイクルが終わりを 迎えようとしてたのね当時の在籍メンバー で見ても当主人では大野豊かが35歳北 別府学が33歳川口和さがすでに31歳と 党首人の主力が高齢化してたんだ80年 広島の強みだった投手力にも限りが見え 始めてたのね野主人でも正保守の達川三夫 が35歳を迎え次世代のレギュラー保守 候補の獲得は急務な状況だったんだこの年 の成績だけ見れば翌年優勝争いに絡んでも おかしくないけど中教期的に考えれば次の サイクルを睨んだドラフトをしたいところ よね即戦力選手を加えて翌年の優勝を狙う

のか中教期的な安定を目指すのかちなみに この時期の広島はレジェンドの山本浩司が 監督になって2年連続でリーグ2心情的に は山本監督に何としても優勝をってことで 速戦力を狙っちゃいそうな状況だったのね そんな中で迎えたこの年のドラフトで広島 は1位で長目玉選手の小池秀王1位指名 ロッテドラフト入団拒否で紹介した小池 投手じゃない小池投手の注目度はそちらを 見てもらうとして小池投手の抽選を外した 広島は2度目の入札で法制代の瀬戸テル ノブを指名瀬戸選手は6大学リーグで サンドのベスト9を受賞し日米大学野球の 代表にも選ばれるなどアマチュアナンバー ワン星として注目をされてた選手なんだ 高齢化が進んでた党主人の次の軸候補とし て小池投手を指名しつつ外したら今度は 達川保守の後継者を獲得戦略的には十分利 にかなった一位指名ねその後指名した5名 全員が高卒で2位から5位までは投手を 指名しており次世代の主力となる バッテリーの補強というかなり明確な意図 があったドラフトとなったんだこれで結果 は失敗になっちゃうんだからフロントも 大変よね選手の属性はチームにマッチして てもその選手が目通りに成長するとは限ら ないからな瀬戸選手は球団市場最高の契約 金7500万円で入団するなど大きな期待 を受けたんだが1年目のオープン戦で右手 小指を骨折してしまい長期離脱いきなり 不運なスタートになったのね走行してる うちに同年代の保守の西山修二が対当し その西山選手が94年にはベストナイト ゴールデングラブショを獲得ホークスじ トレードで紹介した西山選手ねなんか過去 に紹介した選手たちが色々と絡み合った 企画でちょっと懐かしいわその西山選手の 活躍に圧倒された瀬戸選手はなんと95年 のキャンプ前に突如球団に引退を申し出た んだえ期待のドラ1が4年目で引退したい なんて何事よ簡単に言えばプロでやって いく自信をなくしたそうだエリーとゆえに 挫折には慣れてなかったのかもしれないね 球団の説得で現役続行することになったん だが西山選手の壁は熱く98年220試合 出場したが3桁試合出場はその年のみプロ で1度も規定打席には到達することなく 2004年に現役を引退したんだ1軍で 一定数試合出場するだけでもすごいことだ けどドラ1としてはかなり物足りない キャリアになったのね2位で指名した小野 光一投手は1度も1軍登板することなく 94年に早々に引退3位の高橋秀5の小林 淳は救援で一定の登板機会を与えられた シーズンもあったが主力と言えるほどの

活躍はできずにチームを去ってるんだ一応 3位の山崎県投手が96年233回1/3 と規定投球回数をクリアして急勝を上げる 活躍はあったもののそれ以外の年で目立っ た成績はなく2001年に対談それぞれの 選手がスポット的に活躍することはあった けど複数年に渡ってチームに貢献する選手 は出なかったのね大失敗とは言えないが トータルの貢献料はいいな成果に終わった と言わざるを得ないな平成広島失敗 ドラフト2つ目は1992年だわずか2年 後にまたドラフトがうまくいかなかったの ね徐々に2000年代の暗黒時代が 忍び寄ってきてる感じがするわ1回くらい のドラフト失敗はカバーできるもんだが短 期間に複数年続くと厳しいからな特に広島 みたいに補強手段が限られる資金力に優れ ない球団はね92年の広島は前年の優勝 から1点してリーグ4位1982年以来 10年ぶりのBクラス転落となったんだ 長らく続いた黄金時代が終焉を迎えつつ あったのねいや実は特質点差39はリーグ 1位で戦力的には優勝を狙えてもおかしく なかったんだ優勝した前年の特質点差50 と比べてもほとんど変わってないからな まだまだ黄金時代は継続できそうな雰囲気 だったのねしかもこの年は若手野種の対等 が目立った年で21歳の前田選手がベスト 9とゴールデングラブ賞を同時に獲得22 歳の江藤明選手も317打席で16本類だ OPS879を記録するなど後の活躍を 予感させる成績を残してたんだそれでいて ショートには野村健治郎保守も当時は期待 が高かった瀬戸選手と西山選手を保有でき てたわけだから野手は結構充実しつつある 状況だったのねちなみに当時の2軍成績が 公開されてないのでこの時点での期待値は 定ではないが金本智明小形光一選手も保有 してるぞ野手の展望明るすぎるでしょ着々 と次世代のサイクルを構築しつつあったヤ とは対象的に手人は高齢化が進んでたんだ でも89年に佐々岡投手を獲得したって 言ってなかったっけ確かに佐々岡投手は この年192回を投げて11勝とエースと して十分な働きを見せたがその他では規定 投球回数に達したのが33歳の川口と35 歳の北別府と翌年以降の成績維持は見込み づらい状況だったんだ当主人は若手の 突き上げが乏しかったのね37歳の大野 豊か投手が救援でフル回転してたことを勘 見ても主人はこの年の大きな補強ポイント と言える状況だなこの年は指名すべき ポジションが明確な年だったんじゃない フロントも状況を理解してか全8名の指名 選手中投手を5名も獲得しかも1から3位

の全てがピッチャーと投手に多くの リソースを咲たんだ野手が充実してるから こそ弱点に思い切った投資ができたわけね 戦略自体はかなり適切だったと言える だろうな問題はスカウティングよね個別に 見ていこう1位で獲得した佐藤たし投手は 1年目に1軍で勝利を上げたもののそれが キャリアで最初で最後の勝利となったんだ わずか1勝しかできなかったのねしかも 96年には戦力外となり在籍期間はわずか 4年間とほとんど実りをもたらすことは なかったんだプロの世界は厳しいわね ちなみに順番は前後したがこの年広島は 最初の1位指名で後にヤクルトで活躍する こととなる伊藤智仁投手を指名その伊藤 投手の抽選を外した後に獲得したのが佐藤 投手だったんだあちゃあ逃した魚はかなり 大きかったわね広島に入団してたらそれは それで国士がひどそうだけど2で獲得した 菊原強し投手は5年目にようやく1軍登板 したもののそこから1軍定着には時間が かかり2001年に年間78試合登板で 当時のNPBシーズン最た登板対記録を 達成したんだ何よちゃんと活躍した選手い たんじゃない確かに登板数の記録は作った が防御率は4.91と振るわず器用もワ ポイント中心だったために投球回数は 51.1.ともに貢献度はいまいだったん だ話題性のあるシーズンだったけど 振り返ってみるとそこまで大きな活躍じゃ なかったのねその後もワポイント9円の息 を脱することはできず2004年に トレードでオリックスに移籍オリックスで は移籍初年度の2005年に71試合に 登板して防御率1.38の活躍で最優秀中 投手のタイトル獲得するなど救援で安定し た活躍を見せたが広島での活躍は非常に 限定的なものになったんだトレード後の方 が活躍してるのはちょっと祝事り度高いわ ねその他に指名された選手の中で1軍戦力 となった選手は不在しかもその多が ほとんど1軍で出場機械すら得られず早々 にチームを対談しており先に紹介した 1990年以上に失敗したドラフトになっ たんだせっかく野手の戦力が整ってきてた だけにここで党首陣を整備できなかったの はもったいなかったわねちなみにこの年の ドラフトで体制したの中には野口茂金田 正彦豊崎義成本俊秀など粒揃いな面々がい たんだ大当たり年とまでは言えないけど 十分広島の補強ポイントを埋められる選手 はいたわけね平成広島失敗ドラフトし3つ 目は1993年だあららこの時期の広島は 立て続けにドラフトでやらかしちゃってる のねこの年の広島は24もの借金を抱えて

リーグ6位19年ぶりの再開となった責任 を取って山本工事監督が否認する事態に なったんだ世代交代を進められなかった 影響が等々如実に出ちゃったのねこの年の 広島の特失点差はリーグワーストの-82 得点力はリーグ3位を記録してたが失点数 612はリーグダトワーストの値と長年 チームの強みになってた投手陣が大きな 弱点となってしまったんだ結構投手陣高齢 化してたもんねこの年はエースの佐々岡が 不調だった上にベテラン党首人がの並 大きく成績を下げたんだ中でも306歳の 北別府は投球回数わずか69回で防御率 5.22と打ち込まれてしまうほど成績が 急行化翌94年も成績が戻らず現役を引退 することになるんだ1時代を気づいた大 エースの終焉が近づいてきてたのねその他 も34歳の川口38歳の大野32歳の長友 浩司といったベテラン投手が主力となって おり翌年以降さらに成績を下げるリスクを 並んでたんだ当主陣の有望株も揃えられて ないしかなり状況ははまずいわね前述の 通りやの村前田江藤金本小形西山を保有 できたため優先順位が高いのは投資として 見て間違いないだろうなでこの年はどんな 指名戦略を取ったのこの年の広島は指名し た六名中4名が投手しかも1揃って投手を 指名と前年に引き続き投手中心ドラフトを 観光したんだそりゃそうよねってくらい 投手が火の車状態だもんねただこの ドラフトもまた実りをもたらさなかったん だだ1位の山根正仁投手はプロ6年間で わずか8試合の登板で99年に戦力外を 受けて対談2位の上田吉投手は1度も登板 することなくわずか4年間で自由契約に なってるぞ待ってさっきから短い在籍期間 で対談する選手多くない選手の ポテンシャルを見誤ったケースが多いのは 否めないなちなみにこの年はヤクルトが逆 指名制度を使って1位で獲得した山辺太市 投手を広島も狙ってたそうだが合意に至ら ず獲得できなかったそうだこの時期から 資金力の差で圧倒されることが多くなって くるもんねその山辺投手はプロ2年目に 16勝を上げる活躍でヤクルトのリーグ 優勝と日本一に大きく貢献92年に 取り逃がした伊藤智仁投手も含めて ライバル球団に水を開けられたドラフトが 続いたんだドラフトで有力選手の獲得を ミスすることすなわち多球団の戦力アップ を許すことだもんねしかも自軍は戦力補強 できてないとなると差が生まれやすいし この年はその他にも指名した選手で体した 選手は少なく3位の玉木友孝5位の田中義 6位の品田カスケはほとんど出番なく引退

あれでも4位の福知選手って西武とか ヤクルトでかなり活躍しなかったっけ広島 時代の福知選手は主にダイソ要因として 起用されたがバックアッパーの行は出ず 在籍12年間でわずか312試合出場に 止まったんだ広島ではスタメンで活躍する ことはほとんどなかったのね2006年に トレードで西武に遺跡後徐々に打撃でも 存在感を放つと2008年には人的保証で ヤクルト2遺跡遺跡初年度には打率3割2 部OPS81542盗塁の活躍で盗塁王に も輝いたんだ移籍する度にどんどん成績 上がってるじゃないよく2009年も42 盗塁で2年連続タイトルを獲得するなど かなりポテンシャルは高かっただけに結果 論ではあるが広島としてはややもったい ないトレードになったんださっきの菊原 投資といい唯一活躍した選手に限って放出 しちゃってるのは残念ねドラフトで戦力の 積み上げができない状況が続いた広島は 毎年のように上位で投手を指名し続けるん だが実はそのしわ寄せは野手の編成状況を 悪くすることにもつがっていくんだ確かに さっきから野手の使命順位低いし絶対数も 少ないもんねいかに中堅の素晴らしい野手 がいたとしても彼らは当然高齢化していく わけでそう何年も野手の補強の プライオリティを下げていいわけではない からなしかも江藤金元はFAで移籍し ちゃうしねその辺の経緯は広島FA対談師 の動画を見てもらうとしてこうした ドラフトでの出作続きが後の暗黒時代を もたらすことになるわけだこの辺は今度 また別の動画で解説するとするかもうこの 動画だけでもかなり長くなってるしね平成 広島失敗ドラフトし4つ目は2003年だ おおようやく一気に時代が21世紀になっ たじゃない本来1つのドラフトで誰1人 主力が生まれないことの方が珍しいからな 2003年の広島は首120ゲーム差の リーグごい6年連続でBクラスとなって おりその間再会こそ免れてるが泥沼の暗黒 時代に片足を突っ込んでたんだ戦力的にも かなり厳しかったの特失点差は-95投手 が打ち込まれちゃってそうねいや得点力 558はリーグ最初と本来点が入りやすい 広島市民球場を本拠地としてたことを 考えると野主人の方が問題は大きかったと 捉えるべきだなそれはかなりの大問題ね 長年チームを支えた野村が37歳小方が 35歳前田が32歳と世代交代は必須な 状況だったんだまあ投手も投手で中期的に 戦力として計算できそうなのが28歳の 黒田弘樹23歳の長川勝弘だけと東田とも に課題は多かったんだがな一度や2度の

ドラフトで同行なる状況じゃないわよね こういう時のドラフトはポジション同行と いうよりは中教期的に活躍できるスケール の大きい選手を指名する必要があるな近年 だと日本ハムがよくやってるその年の ナンバーワン手に最上位の枠を突っ込むと 考えに近いわね当たりを引けた時に多球団 にかなり差をつけられるからなその状況で チームは高良校の白浜優太保守を指名前述 した瀬戸選手が思ったほど成長せず正保守 の西山選手も36歳と高齢化しており次 世代の保守が必要な状況を考えると悪く ない指名だったと言えるな保守の逸材 なんてなかなか出てくるものでもないし 戦略的にはいい指名だったのね上島に生徒 の声もあった白浜選手だがプロの壁は熱く プロ入り7年間は1軍出場すらできなかっ たんだいくら高卒選手とはいえちょっと 時間かかりすぎてるわね2011年に ようやく初出場を果たしたが2010年代 の広島は石原義行相座はつばさの主力保守 を複数人抱えていたため白浜選手の出場 機会は極めて限定的なものとなり通算90 試合の出場で2022年に現役を引退し てるな結果的に保守は弱点にはなってない けど最上位枠を使っていられた果がこれで は厳しいわね3巡目の日が光は鳥谷高し 青木のかと早稲田大学での同機で早稲田 黄金時代を築いた中心選手だったんだが プロ通算8試合の出場で2009年に現役 を知りといてるなドラフト上位の2人で 通算98試合出場だけなのは痛すぎるわね その2人の穴を埋めるかに思われたのが4 巡目の緒形吉典選手なんだかに思われ たってのが気になるわね小方選手は1年目 から1軍で出場機会を与えられるとと2年 目には1番ショートで開幕しため出場結果 的にこの年はわずか47試合の出場では あるが打率3割3輪6本類だ9盗塁OPS 808の高成績を残してるんだとんでも ない構成績じゃないしかもこれでシトって かなりの有望株と言えるしなんで失敗 ドラフトなのよまあどうして47試合の 出場に留まったかってことが答えだなああ 怪我しちゃったってことねそうなんだ5月 28日の西武戦で古傷の右膝前十字人体を 断裂スポーツ選手としてはなかなか致命的 な重賞じゃないのその後も軟骨の欠損を 修復する内視教手術を受けたりと膝の怪我 に悩まされ続け2009年には戦力外通告 を受けたんだ2年目であれだけ打ててた わけだから怪我がなかったキャリアを見て みたかった選手ねちなみにこの小形さんは 後にカープのスカウトに就任担当選手には 鈴木星也や田中孝介森下正虎などがおり

現役引退後にチームに大きな実りを持らし てるぜ確かドラフト時に鈴木星矢選手を かなり押したって逸話があったわよね セカンドキャリアが充実したものになって 良かったわ話を2003年に戻すと5巡目 のニサ投手はわずか8試合の登板で 2007年に対談この年指名した選手で 通算245試合8登板とかなり成華に 乏しいドラフトに終わったんだ質量どもに 貢献度に乏しいし在籍期間も短いし ひょっとしてこれ平成広島ワースト ドラフトなんじゃないのこの年のトで巨人 は内哲也西村健太郎阪神は鳥谷高し ヤクルトは青木の力を獲得ドイツリーグの ライバル球団に差をつけられた点も考慮 すると1番痛かったドラフトとも言えるか もな平成広島失敗ドラフトし5つ目は 2004年だ2年連続で失敗して泥沼に 両足突っ込むことになるのねこの年はシイ 20ゲーム差のリーグ超この年は投手陣が 崩壊し失点数716でリーグワースト10 年前のドラフト失敗続きの影響がもに出た 格好ね打線は得点数リーグ2の662得点 と復調してたんだが決して問題がないとは 言いきれないそんだけ売ってて問題あ りって欲張りすぎじゃない得点力がアップ した要因は外国人選手が高成績を残した こととベテランの成績が回復したことに よるものだったんだつまり中教期的にその 得点力が維持しづらい状況だったわけね ああ事実この年予番を担ったシ選手は翌年 半神に移籍しラロッカ選手も2年後には ヤクルトに移籍してるなまた同一リーグの 球団に選手を入出しちゃってるじゃないの よこうしたベテランと外国人に頼った不 安定な状況を鑑みると野手もまた補強 ポイントとして考えるべきだろうな講師 ともに課題山積み状態だったわけねこの 状況で広島は指名した7名全員が投資と いう完全投手ドラフトを行ったんだ全部の リソースをピッチャーにぶっ込んでしまっ たのこの時点では前年に指名した白浜被 選手のポテンシャルを見極められてないの も影響しただろうなその時点では野手の 有望株を揃えられた認識だもんねただ先に 言うとこのドラフトは大失敗に終わり後の 編成にも大きな影響を与えることになった んだ実は野手も結構きつい状況でこれだけ 投手にリソース注ぎ込んだ上に失敗となる と編成崩壊状態は必死だもんねまず1位で 指名した佐藤強し投手はプロ通算1試合の 登板で2010年に現役引退1位で全く 戦力にならないパターン多くないこの佐藤 投手はダルビッシュ湧井秀明と並ぶ高校 ビッグ3とも言われた投手でかなり期待さ

れてたんだがな言葉選ぶけどその3択で 唯一のなんというか外れを引いたのは痛 すぎるわね3巡目の森投手は通算27試合 5巡目の小島投手は11試合8巡目の田中 投手は15試合の登板で対談4巡目の丸木 投手7巡目の錦城投手に至っては登板なく 早々にチームを去ってるなこれはなかなか ひどいわね唯一戦力になったのが巡目の梅 友広投手だな梅津投手は1年目から33 試合に登板すると毎年コンスタントに出番 を与えられ2008年にはキャリア最多の 64試合に登板して防御率2.622.4 ぱいドラフトと言わざるを得ないわね個人 的には指名戦略のまずさも考慮するとこの 2004年の方こそ平成広島ワースト ドラフトと言いたいなまこの年のドラフト で体制したと言える野手は片岡安行田中 博安藤田亀吉行大松正一とやや骨な年でも あったので投手に比重を置いたことが必ず しも悪いとは言えないんだけどな結果論で はどうとでも言えちゃうからねこれだけ 失敗ドラフトが続いてて逆に2005年 以降は失敗ドラフトないのね2005年に 蘇木神を獲得したことを川切りに2006 年は前田健太会座は2007年に丸吉と後 の黄金時代の中心選手たちを次々に獲得し ていくことになるからな劇的に潮目が 変わってるじゃないの2011年に野村 裕介菊涼介2012年に鈴木星矢そして 2013年に大世大地クリアレン田中 コケラを獲得した時期はNPBのドラフト 死に残ると言っても過言ではない神がかり な指名を連発してるんだぜ今までの ドラフトの不運を一気に回収するような とんでもないドラフトねドラフトの光と影 がこんなにも色こく出る球団も珍しいわ ドラフトの成果が出るのは10年後とよく 言われるがそのことをよく分からせて くれる球団が広島だ な時に霊夢よファームでの通算本類打数の 咲た記録は何本か知っているか2の最た 本類だうん2軍でそれなりにホームランを 売ってたらある程度の段階で1軍戦力に なるだろうしそんなに数字は伸びなさそう よね100本ぐらいかしら2022年時点 でファーム咲た本類打記録はなんと161 本なんだ1612軍の本類だって毎年20 本くらいだからざっくり78年分って ところかしらよくもまあそこまでファーム で出場機会が与えられ続けたものね一体誰 なのよその選手は元広島の斎藤ひゆという 選手なんだ失礼だけどちょっと分からない わどんな選手だったの選手は1981年に 東京ガスからドラフト2で広島に入団 アマチュア時代からそのず抜けたパワーに

は定評がありポスト山本工事を期待された 右の長距離法だったんだドラフト上位の 和生大砲候補だったのね平成の選手では ないがこれほどみかの待機史を語る上で 欠かせない選手はいないので少し紹介 しよう斎藤選手はルーキーイヤーに ファームで打率3割1ブロ輪15本塁だ 62打点を記録しウエスタンリーグの打点 王に輝いたんだいきなり2軍では申し分 ない成績を残してたのねこの活躍が評価さ れてシーズン中盤からは1軍昇格を果たす ことになるプロ2試合目の中日戦ではこの 年16勝を上げて最高勝率のタイトルも 獲得したエース閣の宮子裕次郎投資から プロ初本塁打も記録したんだ1軍のトップ レベルのピッチャーからホームランを打っ てたんじゃない結局この年は45試合に 出場して118打席に立ち打率に割1部2 輪4本類打をマークしたんだ打率を見る 限り1軍の投手への対応には苦戦した みたいだけど凡な長打力を見せてるし1年 目は悪くないスタートだったのね順調な キャリアを歩んでいた斎藤選手だったが2 年目のキャンプでアクシデントに見舞われ てしまうノックを受けていた際に イレギュラーした打球が右目を直撃この 負傷により当時1.5あった右目の視力が 一気に0.1まで低下してしまったそうだ 片方の目だけ視力が落ちたのああ左目は 以前として1.5あったため左右の バランスがおかしくなったそうだ成績を 落としたベテラン打者の多くがその原因を 視力の衰えやボールの見え方の変化として 上げることもあるくらい視力は大事だから それだけ大きな変化があると対応は難しく なるでしょうね斎藤選手曰dゲームでは 影響はなかったが1軍のナイターの試合で はボールがよく見えないことがあったそう だぜ暗いところで物がよく見えなくなる 鳥目みたいなものかしらこの負傷の影響が どの程度だったのか実際のところは分から ないが2年目以降はファームで活躍するも 一軍に呼ばれないことが続いていくただ 前述の通りファームでは別格の存在でも あった2年目にファームで初の本類打王に 輝くとそこから2軍で毎年タイトルを獲得 するようになる8284年に本類打王 838486年に打点王といった具合にだ ファーム者的なしのまさに2軍の帝王って 感じのキャリアね6年目となる1987年 には史上発となる2軍で通3百本類打を 記録したんだそもそも本の時点で全人見当 の数字だったんだ当時は記者のまでは ちょっとした話題になっておりある記者が ウエスタンの担当者に100号を打った

斎藤選手を表彰しますかと電話取材した そうだファームでも個人タイトルを表彰 する制度自体はあるもんねファーム2 300本類だがめでたいことなのかは判断 別れるところではあるけどその時の返答は 斎藤君に伝えてくださいファームで10号 打つより1軍で1本でも多く打てるように 練習に励んでくださいとのことだったそう ださすがに選手の心情を察するに代々的に 祝うわけにはいかないよねファームでは 結果を残していたものの中なか1軍昇格の 機会はなく82年から88年の間に出場し たのはわずか130試合のみで46安打 10本類打に終わっているそもそも ほとんど出場機会をもらえなかったのね どうして1軍で使われなかったの当時の 起用法に関する資料やファーム成績が公開 されていないので推測にはなるが一軍の 外野の層が扱ったことと対応力に問題が あったことが一因だろう80年代の広島の 外野主事情はというとベテランの山本浩二 選手が絶対的な中心選手であった斎藤選手 加入時点で山本選手はすでに36歳を迎え ていたがその後も大きく衰えることなく高 成績をキープ1986年には40歳であり ながら4番を務め27本類だOPS847 と高い成績を維持しベスト92まで選出さ れたんだ40歳でそんな成績を残すなんて 現代では考えられないわねまそれでも山本 選手自身は衰えを自覚してこの年限りで 現役を引退してるんだがな引き際の美学 ってやつかかっこいいじゃないまたその他 にも通産4度のゴールデングラブ賞を受賞 した長嶋清行ベスト9が3回ゴールデン グラブ賞4回の山崎裕三という斎藤選手と 同世代の長い野手が揃っていた加えて84 年にはルーキーの小早川武彦選手が1塁種 のレギュラーを掴み人王を獲得以降は 小早川選手が一塁種の主力を長年務める ようになったため斎藤選手はそもそも出場 するポジションがなくなってしまったんだ 自分と同じポジションに同世代のいい選手 がたくさんいたのねまた斎藤選手自身にも 課題があったように伺える82年から88 年の間に1軍で274打席に立っているが 75三振を起ししておりK%はなんと 27.3に達していたんだK%って平均が 20%前後で25%を超えてくるとかなり 多い方だし30%超えとなると危険水域と まで言われるもんねそのことを考えると 斎藤選手はバットに当てる能力がかなり かけてたみたいねまた長打力を示すISO という指標でもプロ通算で138と平均 よりやや高い程度の数字しか残せていない んだストロングポイントである長打力で

すら1軍だと平均レベルの選手だったのか つまりバットに当てるのも苦手で仮に 当たってもそんなに飛ばせなかったって こと斎藤選手は88年オフにトレードで 中日に移籍するがそこで同僚となった 落ち合い広光選手から打てないのは目の せいじゃないよと指摘をされたそうだ ひょっとしたら視力だけでなく技術的な 問題も抱えていたのかもしれないファーム で無双してるのに1軍でなかなか使われ なかった理由はその辺にありそうね一軍で はなかなか結果を残せなかった斎藤選手だ が中日遺跡1年目の89年はキャリアハと なる142打席本類だOPS733を記録 打席数は少なかったもののISO171と リーグ上位レベルの数字を残しており待機 の返sinceを示したんだそういう数字 を見るとやはりもう少し出番をもらえてい たらと思ってしまうわね斎藤選手は ファーム最た本類だ記録について今では2 軍で名前残って良かったと思ってますと 思っているそうだ2軍ですら結果を残せず プロの世界に絶望しながら引退する選手 すらいることを考えれば立派な勲章の1つ だと思はさて本来の平成のみかの待機史に 移るとするかどんだけプロローグ長いのよ 平成の広島のみかの待機といえば2008 年にアジア大学からドラフト1位で入団し た岩本貴弘選手を置いて他にいないだろう そんなに期待された選手だったの岩本選手 は広島県広島市出身で広島商業時代には エースで予番としてチームを甲子園出場に 導いたんだ広島県の野球会では知らない人 はいないほどのスター選手だったわけね 高校通算に本類打を誇るスラッガーの進路 に注目が集まったが卒業後はアジア大学に 進学そこで外野種に転校すると火九生の頃 から中軸を担い東都大学リーグ歴第4位と なる16本類打を記録したんだ軍閣HOの 戦国トトでもそれだけの活躍ができたと なるとプロの評価はさらに高まりそうね ドラフトでは地元の広島から1位指名を 受けて入団契約金1億円年方500万円の 交代宮に加えて金元が背負っていた背番号 10を与えれたんだ当時の広島は2009 年4月から新旧場を会場予定であり当初 レフトポール際のフェンスは7mの グリーンモンスターにする予定だったそう だえでも松田スタジアムのフェンスって そんな高くないよね実は岩本選手はレフト 方向にも長打を打てる選手として知られて おりその岩本選手の入団が決まったため 慌ててライトと同じ高さの3.6mに変更 したそうだえ1人の新人のために球場の形 そのものを変えてしまったのルースが本塁

打を量産するためにヤンキースタジアムの ライトを狭くした話と似てるわねこの エピソードからも下に広島が岩本選手に 期待してたかが分かるだろうまたチーム 状況を考えても岩本選手の指名は タイムリーだったように思える2008年 の広島は首位と14ゲーム差の4位に 終わりこれで10年連続でのBクラス チームが4位に終わった大きな原因はこの 年得点数リーグ超に終わった攻撃陣にある と見ていいだろうこの頃はまだ本拠地が 得点の入りやすい旧広島は市民球場だった ことを考えるとその得点数はいだけないわ ね前年オフに長年司法を務めた新井貴弘が FAで阪神に遺跡26歳の栗原健太が打率 3割3部2輪23本類打103打点の高成 席を残して湧いたもののそれ以外に中教期 的に長打力を供給できそうな選手は不在 この年は36歳のアレックスチア32歳の 島茂信が成績を回復させてはいたものの 翌年以降の成績維持は見込みづらい状況 だっただ岩本選手は単に地元出身のドラ1 だから獲得したわけではなくちゃんと チーム事情にあった選手だったのね岩本 選手の1年目は主にファームでの試合出場 がメインとなりほぼ全ての試合で予番で 起用される彩教育を施されたんだチームが 低迷してるからすぐに上で使いたくなる ものだけどじっくり育成する方針だったの ね岩本選手は1年目にファームで79試合 327打席に立って打率に割り7部4輪 14本類だOPS77号とまずまずの成績 を残した2年目は178打席で打率3割2 7厘OPS819とさらに成績を向上さ せると夏場から1軍に昇格すると本類打を 量産しわずか2ヶ月間で14本類打を マークしたんだフルで出てれば30発以上 は期待できるペースじゃない結局2年目の 2010年は61試合の出場で220打席 に立ち打率にリゴキリ超打率500OPS 779と待機の返sinceを見せただ 実質1年目にしてはまずまずの成績ねこの 年は6月からノーステップ打法に挑戦し それが来りとはまったことが高成績に つがったそうだだがこの死んだ方は体への 負担が大きかったようで翌年の9月には 慢性的な膝の痛みを解消するために手術を 行うことになるその後は膝への負担を考慮 してノーステップ打法を断念せざるを得 なくなったんだせっかく手応えを掴んだの にその打法を使えないなんてさぞ悔しかっ たでしょうね岩本選手ははその後成績を 伸ばすことなく徐々に一軍での出場機会が 減少していく結局1度もレギュラーを掴む ことはなく2019年に現役を引退する

ことになったんだ結局2年目の輝きが キャリア牌になってしまったのね体制し なかったのはやはり3年目の故障が 大きかったの肉体的な問題がどの程度あっ たのかは分からないが1つだけ数字から 分かるのは岩本選手が選球がに大きな課題 を抱えていたということだそんなに選球が が良くなかったの岩本手は極端に子宮が 少ない選手として知られプロ初子宮の獲得 がデビューから242打席目というNPB 市場最も遅い記録も持っている242打席 そのペースで規定打席に到達したら年間2 球くらいで終わりそうねこの傾向は キャリアを通して続いたためなんと通算 986打席で26子宮しか獲得していない んだ強打者と言われる選手なんて1 シーズンだけでも100支給選んだりする のにそのペースは少なすぎるでしょう通常 ちだ力のあるバッターはボール玉を投じ られることが多くなるため必然的に子宮が 増えていくものである岩本選手のような タイプでこれだけ子宮が少なかったことを 考えるとかなりボール玉をスイングしてい た可能性が高いと見ていいだろうそれだけ 打席管理に問題があってはなかなか成績を 残すのは難しいわよね岩本選手の通算打率 は2割5部3厘で出塁率はなんと2割7部 1輪しかないんだ普通は出塁率から打率を 引くとゴ前後になるし選球眼がいいタイプ だと1割近くなるものよねそうだな今の 出塁率低打率から導き出される数字を セーバーメトリクスではisodと呼ぶ 4000打席以上たった選手の中で歴代 最高値は大貞春選手の145逆に歴代 ワーストは蒲ミノ選手の027なんだ 4000打席以上経つほどの主力選手で それだけisodが低い選手も珍しいわね だが岩本選手の通算isodはさらに低い 018なんだぜ岩本選手の障害打席数は 000とはいええいかに子宮が少ない選手 だったかが分かる記録だわまた岩本選手が 若い頃に打撃統括コチを務めていた内田 純三シ枠技術的な再現性の乏しさも問題で あったと指摘されている技術面にも問題を 抱えていたのね具体的には元々インコース を苦手としてたそうで内閣を意識しすぎる あまりかと体重になり体の開きが早くなっ たそうだそのためボールの見切りも早く なることで変化球に対応できない見極めが 悪くなるアウトコースを逆方向に飛ばせ ないと問題が山積みだったらしいぜ元々の 調所が消えてしまっているじゃない内田 さん曰素質は間違い亡命9回クラスだった そうなので育てきれなかったことを非常に 後悔してるそうだもしノーステップ打法を

継続できていたらどんな選手だったのか 順調に育った世界を見てみたかったわね ここからは平成のドラフトで上位指名した 野手を中心に流れに沿って振り返っていく 平成初期の広島はみかに終わった待機は 少ないむしろやに関しては12球団でも 有数のスカウティングと育成力を誇ってい たと見るべきだろう平成元年となる 1989のドラフト4位で前田とり91年 の4位で金本智明を獲得しチームの中心 選手として育て上げているからだその他に も小形光一野村健治郎江藤明とか優秀な 選手が数多くいたもんね今霊夢が名前を あげた3名は80年代後半のドラフトで 獲得した選手たちだなこれらの優秀な野 主人の対等もありスムーズな世代交代に 成功した広島は90年代に7度のAクラス 入りを果たすことになる押はリーグ優勝が 1991年の一度だけだったことだろうか 確かに前述の優秀な野主人に加えて2年 連続打点王のルイスロペス明保守西山修二 もいたことを考えるともっと優勝してても おかしくないよねこの時期は93年にFA 制度と逆指名制度が導入された影響で優秀 な選手の確保と長期的な保有が難しくなっ ていってたからな広島ま残念スケット対談 士でも紹介したけど優秀な外国人選手が 短期的な在籍で対談することも頻発してた しね90年代の広島で最も悔やまれるのは 96年の歴史的なv一だこの年は優勝候補 の巨人相手に最大11.5ゲーム差をつけ ながらも終盤に調子が上がらず優勝を逃し てしまったんだこの件は前半戦独走v一史 で紹介したわよねでもどうしてみかの待機 史でこの件について触れるの実はこの時に 優秀なを抱えながらもその能力を引き出せ ていなかったように思える采配があったの で少し言及しようと思ってな花開きつつ あった人材が埋もれてしまってたってこと そうだなその選手の名は1991年 ドラフト1位の町田孝次郎選手だああ朝井 選手と共にツープラトンで起用されること もあった町田選手ね代打の切札とか左 キラーの印象が強くてスーパーサブって イメージだけど魔理沙は町田選手をもっと 起用すべきだったと考えてるのでも町田 選手はコーナーポジションの選手だから 金本前田小方江藤ロペスがいるチームでは スタメン獲得は難しかったんじゃない霊夢 の言う通り彼らを控えに回してまで町田 選手をスタメンで起用すべきだったとは 思わないただもっと町田選手の出場機会が 伸びていたらどんなキャリアになったの だろうかいつも考えてしまうんだそんなに 高いポテンシャルを発揮していたの町田

選手のキャリアを紹介しよう町田選手は 先週大学時代から強打者としって知られる 選手で東都大学リーグで3度のベスト9に 輝き主打者やリーグ優勝も経験日米大学 野球の日本代表にも選出され92年の バルセロナオリンピック出場も期待されて いたほどだ当時のアマチュアトップクラス の強打者だったのね町田選手は五輪代表 よりもプロ入りを熱望し91年のドラフト 会議では若田部県一投手の抽選を外した 広島が2度目の1巡目入札で指名したんだ その時の契約金8000万円は当時の球団 最高金額であったことも期待の高さが 伺えるだろうてか金本選手が91年の ドラフト4位ってことはこの時点では町田 選手の方が評価が高かったんじゃない残念 ながらプロではポジションが被る金本選手 の方が大きく成長したため出場機械は限ら れたものになってしまうそのためキャリア を通じて規定打席に到達した回数は0回 100試合以上の出場300打席以上与え られたこともそれぞれ3回しかないんだ 典型的なバックアップ戦のキャリアって 感じねただ1度もレギュラーになったこと がないにも関わらず通算で955試合に 出場し2264打席に立ち85本類打を マーク通算打率こそ2割5部1厘だが出塁 率3割4部6厘長打率431OPS777 という高い室を誇っていたんだ通算でそれ だけの値を記録してるなんて結構すごい じゃない打席数も2264ってことは45 年フルに出たくらいの数字だからサンプル としては十分なものだしそうなんだ町田 選手は年間100打席以上経ってOPS 790以上を超えたシーズンが実に6回も あるんだ2000年にはキャリアで2番目 に大い307打席に立って13本類だ OPS855とリーグ上位クラスの成績を 残したこともあるんだそれだけの選手が 規定打席に到達してないってのはちょっと もったいないわねもっと町田選手を生かす としたらどんな采配があったの批判を恐れ ずに提案するとすれば2つ 1つはトレードのチップとして利用する ことだご存知の方も多いだろうが90年代 の広島は当主人の世代交代に失敗し ピッチャーの層が非常に薄くなっていた 山内安行沢崎俊の新人王に輝いた投手を 振る回転器用せざを得ないくらいには投手 が足りてなかったもんね町田選手ほどの 高い打力を持った選手であればトレード バリューが非常に高いものであったことは 想像に固くないだろうまた当時の広島には 朝井選手という町田選手とイプのよく似た 強打のスーパーサブも有していたことその

ことを考えればさほどリスクなくチームの 弱点を埋められた可能性があるんだ町田 選手は野手の主力選手たちと年齢もかぶっ てたし悪くないトレード案ねもう1つは 多少守備が低下することを恐れずに セカンドとしての器用を増やすという手も あったように思うセカンド町田魔理沙 あなたとこは菊川の町田智選手と近藤して ない私はいつだって大真面目だぞ90年代 の広島の2類主事情はというと東で秋広 木村拓也が対当するまでの間はベテランの 正田構造選手が務めていた2年連続で首 打者にも輝いた上にゴールデングラブ賞 経験もある名セカンドがいたんじゃない ただ正田選手は30代になってからは年々 成績を加工させてしまい93年以降は主力 として起用するには物足りないシーズンが 続いてしまうんだ今成績を見てるといくら 守備がうまい選手とはいえ物足りない数字 が続いてるわねまた二勇刊は諸に身体能力 の衰えが守備に現れやすいポジションだ あの菊亮介選手ですら30代になってから は守備範囲の衰えが顕著になっており30 代半ばになってからは守備で損失を出す ようになっているいくら失策抑止や警察 ダシュなどの技術力が高くても範囲の衰え はカバーできないからね1996年の広島 打線を見てみるとこの年打率2割3部5厘 出塁率2割8部3厘OPS558に終わっ た正田選手が2番で110試合も起用され ているしかも正田選手よりもはかに打撃 成績のイロペス金本西山選手を買で起用し てもいたそれはかなり得点効率の悪い打順 の組み方だね私なら打順を組み替えるだけ でなくセカンドで町田選手を起用しても 良かったように思うちなみに96年の町田 選手はわずか148打席で9本類打を放ち 打率3割8輪OPS949という破格の 成績を残しているんだそれだけ売っていた のならセカンド守備で損失を生み出しても 十分打力で補ってあまりある貢献度になり そうね当然町田選手の守備力は決して高く なかったことが推測されるが実は97年の キャンプではセカンドの練習にも取り組ん でおり97年は13試合99年は11試合 セカンドでスタメン出場を果たしているん だ現実でもセカンド待ちだっていう オプションを使ってたんじゃない残念 ながらセカンドでの出場機会は非常に 少なかったがもう少し当時の首脳Wiが 勇気を持って取り組んでも良かったように 思えるんだ後に広島はエディデューチン グラロッカという超攻撃的2類種で大成功 例を出すことになるけど96年にもその 柔軟性があればひょっとしたらメイク

ドラマは起きなかったかもね町田選手が もっと売っていればもう少し守備力が 高ければといえば元々もない話だがもう 少し出場機会を与えられた世界戦を見てみ たかった選手の1人だこういうパターンの みかの待機もいるってことがよく分かった わ21世紀になってからの広島は主力選手 のFA対談衰え当主人の人材難もあり チーム力が大きく低下してしまうそのため 98年から2012年まで15年連続B クラスという低迷期を迎えてしまうんだ 同時に広島を上回る暗黒時代を迎えていた 横浜がいたから印象薄い人もいるかもだ けどカープもなかなか泥沼状態だったもん ねこの低迷にはドラフト上位で指名した 選手たちが伸び悩んだことも大きく影響し ている速戦力外オールドルーキー氏や平成 広島失敗ドラフト5000でも何名か 取り上げたけど2000年代の広島は ドラフトでもかなり苦しんでた印象がある わ今回はヤ編なので野手に絞って話を しよう2000年代の広島は多くの ポジションに穴が目立つようになっていっ ただが定期的にドラフト上位で野手を指名 してもいたんだ問題はスカウティングなの かはたまた育成にあったのかは分からない けどちゃんと種は巻いてたのね保守は99 年に逆名にで木村和義2003年に1巡目 で白浜優太という選手を獲得している結構 保守にリソースをさえていたのね白浜選手 は常時健二2世などと期待されたことも あったがプロ入子はファームレベルでも 打撃に苦労してしまったんだいっちゃなん だけど本当に待機だったのかも怪しい ところだったのね待機の返sinceを 見せたかという意味では木村和義選手の方 が期待を抱かせる打撃ポテンシャルを見せ た時期もあったんだそんなにいい選手だっ たの木村選手はプロ3年目の2002年 209試合に出場し290打席に立って 打率3割一部4輪5本類だOPS783と 保守としては破格の成績を残したんだおお めっちゃ売ってるじゃない規定打席不足と はいえ保守でそれだけ打てる選手なんて なかなかいないからそのまま順調に育って いたらかなりのアドバンテージになるわね 当時の広島の保守事情は西山選手が衰え 瀬戸テノ選手が伸び悩んだこともあり キャッチャーの層が非常に薄くなっていた んだじゃあこのタイミングで木村選手が 対当してきたのは非常にタイムリーだった んじゃないだが2003年の木村選手は 代打要因としての気がメインとなり シーズンで76試合に出場したものの星と してのスタメンはわずかに3試合肝心の

打撃も117打席で打率に割6ブゴリ OPS601と平凡なものに終わったんだ 期待の正星候補だったかと思いきや星とし ては全然評価されてなかったのね実は木村 選手はプロ入り前に肩を故障してしまい その影響でスローイングに支障をきたして いたそうなんだひょっとしたらプロ入子も その影響があったのかもしれないな広島 サイドはその故障をなかったのいや スカウトは故障していたことを知っていた そうだが打力と身体能力の高さを買って逆 指名での獲得を決断したそうだ最も片の 故障の影響は打撃にも及んでいたそうだが な当時逆指名で選手をなかなか獲得でき なかった広島がなぜ取れたのか理由が 分かった気がするわ結局木村選手はその後 も出場機会を減少させてしまい2007年 に戦力外通告を受けてしまう2008年は 1年だけ楽天でプレイしたがオフには2年 連続戦力外となり現役を引退通算335 試合の出場とドラフト上位の選手にしては 非常に物足りないキャリアに終わったんだ 2010年代の広島は石原義行倉吉和が スタメンマスクを被ることが多くなるが彼 らは打力に難を残す選手であったこの時期 のセリーグは巨人安倍慎之助阪神矢野明広 を中心に相川領事谷元信など打力に優れる 保守が多数いたため広島保守陣の攻撃力は チームにとって大きな ディスアドバンテージ となってしまったんだ安倍選手は企画がい すぎて差がつけられるのは仕方がないにし てもそれ以外の球団の星と比べてもかなり 打力に差が生じたのは痛かったわね 2010代後半からは強打のキャッチャー 相澤つ選手が対当してきたため青年の課題 であった保守の攻撃力が改善されることに なるそれと行するように広島のチーム順位 が向上していくのは偶然ではないだろう しっかり保守に上位のリソースをさえてい ただけに彼らが花開かなかったのはチーム にとってはかなり痛かったわね保守以外の ポジションでも計算外の事態は続いていく 内野では97年のドラフト2の兵動秀春 選手が通算46試合の出場2003年の3 巡目日俊光選手はわずか8試合の出場で それぞれ現役を引退平成広島失敗ドラフト 5戦でも紹介した2003年ドラフト4巡 目の小形吉典選手が遊撃手としては破の 打力を1軍で発揮してたにも関わらず故障 の大さでキャリアが伸びなかったのも チームにとっては非常にかったな内野も 内野でその後に菊田中孝介の2人が出て くるまではチームの弱点になることが 多かったしねまた外野種では2005年の

高校生ドラフト1巡目の鈴木正光選手が 通算6試合でチームを対談2012年にも ドラフト1位で高橋弘樹選手を獲得したが こちらもわずか49試合の出場で2021 年に現役を引退しているまさか同期の ドラフト2の鈴木せや選手の方が体制する なんてドラフト時点ではほとんどの人が 想像もしてなかったもんね高橋選手はみか の待機とは言えないの率直に言えば若い頃 のファーム成績を見る限り待機の返 sinceは感じさせるほどではなかった と言わざるを得ない後に一軍で活躍する ような選手は高卒選手であろうと若い頃 からファームでも一定レベルの成績を残す ものだ近年の広島で言えば2020年代の 中心選手である坂倉翔吾選手がその代表例 だろうまさに打撃の天才ってタイプの選手 だもんね坂倉選手は高卒1年目にファーム で打率2割98厘OPS759と破の高成 績を残した2年目には打率3割2部9輪 OPS9193年目も打率3割2ブ7厘 OPS886とかなり早い段階で2軍では やることがほぼない状態になり1軍で結果 を残すのは時間の問題になっていた時期的 に1軍戦力がかなり充実してたから なかなか上には呼ばれなかったけどもっと 早くから1軍で結果を残しててもおかしく ない選手だったよね余談ではあるがこれ ほどの成績を残していた坂倉選手がいたに も関わらず2017年のドラフトで同じ ポジションの中村翔選手を1位指名したの は戦略的にどうかとは思ったがな地元工業 高校出身のスーパースター候補の誕生とあ ば指名しないわけにはいかない空気感あっ たもんねメジャーであれば遊撃種や保守の 超トッププロスペクトを複数保有して トレードのチップに利用する作戦を用いる 場合もあるが広島はそういう戦術は持ちい ないからな町田選手の時もそうだけど様な 補強チャンネルを駆使して戦力を高めるの は苦手なチームではあるよね話を戻すと 高橋選手と同期の鈴木星矢選手も坂倉選手 ほどの成績ではなかったもののファームで は本な成績を残している入団後のファーム 成績は1年目が打率に割8部1厘OPS 6932年目は打率2割ハ部4厘OPS 742とファームでは産塁種や遊撃種とし て起用されていながらこれだけの成績を 記録してたんだ高卒2年目の遊撃種が ファームでこれだけ売ってたら間違いなく 12球団全体でもトッププロスペクト選手 じゃない結果的に鈴木選手は外野種で体制 することになるがその後の活躍も必然だっ たようなキャリアを送っているそれと比較 して高橋選手はどうだったの高橋選手の

ファームの打率水は1年目が2割一部9輪 2年目が2割一部3輪3年目が2割2部輪 4年目が2割2部6厘といった具合だ対応 力が向上することはなくほぼ横ばいだった のねまた高橋選手は長打力をれて1位指名 を受けた選手であったただOPSの推移を 見ても58861966-2.1 し足もそこまで早くない最初は飛ばすこと では勝てていたけど途中から飛距離でも 負けるようになったと当時を振り返って いる入団当初は唯一買っていた長打力の点 でも同期のスーパースターに逆転されて しまったのねただ高橋選手も全く成長し なかったわけではないプロ5年目は ファームで打率に割8部8厘OPS733 を記録すると6年目には2軍でキャリア牌 となるOPS824をマーク1軍でもプロ 初本塁打を記録し48打席で打率2割7部 9輪出塁率3割4部OPS759と打席数 は少ないながらもまずまずの成績を残した んだ1軍での活躍の足がかりを掴んだ1年 になったんじゃないが残念ながらこれが プロでのキャリア牌となってしまう 2020年は1軍でわずか14試合21年 は出場することすらなく戦力外通告を受け てそのまま現役引退となったんだ串鈴木 星也選手がメジャー挑戦でチームを対談し た年に高橋選手はマの形ででチームを去る ことになってしまったのね鈴木選手対談後 の広島は外野の一角がなかなか埋まらず チームの攻撃力を下げる一員となって しまう高橋選手が2020年以降も成績を 伸ばしていたら鈴木星夜対談の損失をもう 少し軽減できたかもしれないのにねとここ まではすでにキャリアが終了している選手 を中心に取り上げてきた実は本当はど林 翔太についても取り上げる予定だったが 2023年のシーズン後半になって成績を 伸ばしてきたので今回はやめることにした んだ同林選手は毎年期待の中字候補として 名前があげられてはレギュラー定着できず に今年でもう32歳か時の流れを感じて しまうわ同林選手が21歳の時に残した 成績を考えればもっと輝かしいキャリアが 待っていると思ったんだがなそんなに若い 頃はすごかったの失礼ながら特筆すべき 成績を残した印象はなかったわいやいや 2012年の童林選手は9回屈しの プロスペクト野手だったんだぜというより は2012年時点で9回上位クラスの3塁 種だったと言っても過言ではないそんなに カープファンが三振とエラーが多いって 嘆いてた印象しかないけど確かに2012 年の同林選手はリーグ最多の29失策を 起してしまったしかしuzrという守備

範囲なども考慮した守備指標では3.8を 記録していたんだこれはこの年のセリーグ 3塁守部門でゴールデングラブ賞を獲得し エラー数5しかなかったヤクルト宮本深夜 選手のマイ0.3を上回る数字だったんだ 今でこそuzzRも理解されるようになっ てきたけどこの数字が表に出た時は野球 ファンからの拒絶反応すごかったよね今で も直感的には理解できない人も多いだろう が範囲も込みで考えれば同林選手の3塁 守備は21歳時点で十分1軍クラスだった わけださらに打撃面では打率に割4分2輪 14本類だOPS716をマークしている 実はこの年は統一級が導入されていた シーズンであり打者の成績が著しく低下し ていたんだ飛ばないボールだったにも 関わらずむしろそれだけやれたことを好 評価すべきだったわけね21歳の若さで 公使両面に凡な才能を発揮しておりどれ ほどの選手になるのかと楽しみにしていた のだが同林選手は2013年以降伸び悩み が続いてしまう広島がリーグ3連覇した時 なんてバックアッパー程度の役割しか なかったもんねだが同林選手は2020年 に再び待機の返sinceを見せることに なる開幕からハイアベレージをキープし そのままスタメンを勝ちると地震8年ぶり となる規定打席に到達14本類だ17盗塁 打率に割7部林出塁率3割5OPS787 と多くの指標でキャリア牌の成績を残した んだ30代を前にしてようやくプリンスが 覚醒したかに思えたわよねそうなんだ思え たんだがな今度こそは新の覚醒かと思われ たが同林選手は202122年は再び成績 を加工させレギュラーの座を明け渡して しまうんだ本当に成績が安定しない選手よ ね2023年には32歳となり体制せずに キャリアは終焉に向かっていくのかと思っ たが7月以降にダボが爆発2023年9月 1日時点で194打席に立ち打率2割8 ブロ厘9本類だ出塁率3割4部2輪OPS 845の高成績を残しているんだまだ サンプル数は少ないしシーズンを終えた 段階でどうなるかは分からないけど室の面 では間違いなくキャリア最高の数字じゃ ないぜひこのままっ知ってもらってど林の キャリアは終わらないとファンを絶叫させ て欲しいものだぜ最後にそれを言いたかっ ただけ でしょ今回は広島がなぜ15年連続B クラスの暗黒時代を迎えてしまったのかに ついて解説していくぜカープって2016 年から2018年にかけてリーグ3連覇を 成し遂げたけどそれまでは買に低迷してた イメージがあるわ98年から2012年に

かけて15年連続でBクラスだったので 21世紀になってから野球を見始めた人に とっては広島はあまり競合というイメージ はないだろうな以前平成の広島ドラフト 失敗しで解説した時は年度ごとのドラフト 戦略を中心に解説したけど今回はより 詳しく低迷理由を解説していくのねそれで は早速本編に入っていくぜ平成広島暗黒 時代の原因1つ目はFA制度の導入だ以前 あまりにも痛かった広島のFA室選手参戦 でも触れたけど歴史的に見て選手の輸出が 多い球団よねそうだなFA制度が導入され たのは1993年のオフからだがこれまで に広島は江藤明金本智明新井貴弘大竹間丸 義博といった選手たちが多球団に移籍し てるな待って待って全員同一リーグに移籍 してるじゃないの広島からFAした選手が どこに移籍するか球団でコントロールする ことは厳しいが運の悪いことに同一リーグ のライバル球団に移籍することが多いな ただでさえ主力が抜けて戦力ダウンなのに ドイツリーグの球団が強くなったら22 ダメージじゃないしかも先ほど上げた5名 の選手はいずれも遺跡先で高い パフォーマンスを発揮してるからなおまけ に新井選手以外はリーグ優勝も達成してる もんねまた国内遺跡だけではなく2007 年オフには当時の大エースだった黒田弘樹 投手がFAでメジャー移籍をしてるな近年 のNPBでは有望選手の場合海外の球団 からも触手が伸びるもんね広島みたいに 資金力に優れない球団にとってますますた 球団に対抗するのが難しくなってるわね もちろん選手が移籍する理由は年方だけで はないが正直金銭面の理由が占める割合は 大きいだろうな広島の場合はそもそも 親会社を持たない球団なので多球団と比べ ても資金力は劣ってしまうからな純粋な マネーゲームでは立ちちできないのねまた 後述するが90年代のプロ野球では逆指名 制度も導入されたため新人選手の獲得も 私立になっていくんだ選手が移籍する時 だけでではなく入団する時までもお金が 必要な時代が来てしまったのねしかもFA 権利取得者は元の球団との契約公開でも 遺跡をほのめかすことで年方を釣り上げる ことが可能だからな今までは球団内で 収まってた年方交渉が多球団に移籍した 場合と比較されるようになっていったのね つまり1人の選手を保有している間に発生 する年方がFA導入後はかなり高額になっ ていったわけだなそうなるとそもそもの チーム総年方も膨れ上がっていくだから 財政力に乏しい広島にとってはかなり きついわね一般的にあまりクローズアップ

されないがFA宣言をした選手が元の球団 に残留した場合再契約金が発生するんだえ 年方もアップする上に追加で契約金を払わ ないといけないのFA導入前には必要 なかったコストが2030に発生して しまってるわけだただでさえカツカツで やってるのにさらにコストアップとなると ますます厳しくなるわねそのためカープは 長らくFAの宣言残を認めない方針だった んだあれっててっきりた球団とのマネー ゲームを嫌ってのものだと思ったけど再約 金を回避するための作でもあったのね あまりにも痛かった広島のFA入室選手 参戦でも紹介したが金本選手が2002年 オフにFA権の行使を巡って球団と交渉し た際に今期は成績が悪かったので年方は 1000万円限で構わないがFAの再計約 金を100万円でいいから出してほしいと 広島に持ちかけたが球団から却下さたそう だ100万円くらいいいじゃないのよ実は この細形役金は結構厄介なシステムで 支払い額の上限がないんだなるほどって ことは下手に前例を作ってしまうと青天井 に最形薬金が高騰する可能性があったわけ ね球団もそれを恐れたわけだな例えベース 9を抑えられたとしても再形薬金とセット で移籍した場合の年方と天秤にかけられる のは厄介ね広島が在籍選手を保有するのに 手一杯の中巨人阪神中日横浜と言ったた 球団は積極的にFAで選手補強を行った こともカープにとってはダメージが大きい 制度変更となったなそういえば広島って FAで選手補強したことあるのいや 2022年の時点で12球団で唯一1度も FAで選手を獲得したことはないな選手は 出ていくわ自軍は獲得できないわでそれは 単純に戦力格差が広がってしまうわねFA 導入前は山本浩司笠幸男北別府学ぶ大野 豊か外吉郎など優秀な選手を長期間保有 できてたことで黄金時代を気付けあげられ たけどFA制度導入を気に戦力のキープ すら年々難しくなっていったのね選手留出 は日本人選手だけにとまらず外国人選手の 停滞対談も向上的に発生してたんだ平成 広島暗黒時代の原因2つ目は外国人選手の 輸出がついだことだ外国人選手なんて日本 人選手以上に金銭面の待遇に厳しい でしょうしね言い方が悪いかもしれないが 出稼ぎ労働者の側面もあるからな日本人 よりも短期契約の場合が多いから実質常に FA権を持ってるに近い状態だしね平成 前期の広島は外国人選手の目利きが良く 優秀なスケットが数多く来日してたんだ 代表的な選手だと誰がいるのざっとあげる と野手では996997年に2年連続で

打点王を獲得したルイスロペス2000年 に打率3割4輪32本塁打でベスト9の エディディアス投手では95年に率 2.74で15勝のロビンソンチェコ2度 の2桁勝利と年間200イニング達成の姉 3ミチなどがいたな90年代後半から 2000年代にかけてコンスタントに有料 スケットを獲得してたのねちなみに今あげ た4名の外国人選手は全員契約で揉めて チームを対談してるぞは家庭の事情とか 衰えたとかではなくてそうだな今度広島の 外国人輸出史を別でやるので1人1人詳細 な説明はしないが1人だけ面白い エピソードを紹介しておくか当時の広島の ファンの古傷を痛めるようなことしない方 がまあ次回企画の宣伝も込みということで 紹介させてくれチェコ投手は95年に シーズン前半戦だけで10勝5敗を記録し オールスターにも選出されたんだが シーズン後半戦が始まると突如新たな ボーナス契約を結んでくれなければ今後は 先発しないと登板を拒否したんだいやいや それってシーズン終了後の交渉でお願い することでしょこれにはさすがに当時の 首脳人も激怒して投げないのなら2軍営け と突っぱねたそうださすがにそうなるわよ ね一応その後は登板を続けたのだがオフに はMLB挑戦のために契約会場広島に通告 してきたんだひどい態度ねしかもこの チェコ選手は広島カープアカデミー出身者 でテシにかけて戦力化した選手だったんだ ぜえそんな恩を仇で返すようなことされて たの結局1年契約を延長することになった ものの96年は故障を理由にわずか急試合 だけの登板に終わりシーズン後に対談オフ にはボストンレッドソックスに移籍してる んだ実際に故障してたのかもしれないけど なんか印象最悪な対談劇ね余談だが90年 代の広島はそもそも外国人選手の補強に 積極的ではなく98年に民地投手が入団 するまでアメリカから外国人投手を獲得し たことはなかったんだ当たり外れの前に そもそも獲得してなかったの今でこそどの 球団も外国人枠を一ぱいに使うことが主流 になってが当時の広島はあまり外国人選手 を獲得しない球団だったんだこれが資金難 故なのかは定かではないがこうしたところ にも財政難の負の影響が見え隠れするな もし平成後期の広島みたいにルイス バリントンジョンソン級の投手を獲得でき てたら絶対優勝してたでしょうにね平成 広島暗黒時代の原因3つ目はドラフトで逆 指名制度の導入だ逆指名制度ってどんな 制度だったんだっけ簡単に解説すると 1993年から2006年まで採用された

制度で大学社会人の選手で1球団につき2 名までの選手が希望する球団に入団できる システムだ高校生は対象外だったのね戦士 からするとFA権を持たずとも最初から 希望球団に行けるわけだからありがたい システムじゃない選手と資金力に優れる 人気球団にとってはかなりうみのある システムだなどうして資金力に優れる人気 球団が恩恵を受けられるの主な理由は2つ ある1つは有望な選手が中ではない球団に 指名された場合入団を拒否して数年後の ドラフトで逆指名制度を使って希望する 球団に入団するケースが増えたんだ確かに 逆指名制度がなかったら例え1度目の ドラフトで入団拒否をしても次のドラフト でまた一中ではない球団に指名される リスクがあるもんねましてやFAもなかっ た時代は基本的に1度入団してしまうと 自らの希望出た球団に移籍するのはかなり 難しかったからな仮に高校生の時に一中の 球団に指名してもらえなくても社会人なら 3年大学なら4年待てば希望球団に入れる もんね実際に95年のPL学園福幸介98 年の沖縄水産高校荒垣ナそして2000年 の鶴賀非高校内見哲やらはそれぞれ高校生 時代のドラフトで指名された球団には入ら ず数年後に逆指名もしくは自由枠制度で 希望球団に入ってるな今は入団拒否する 事例は少なくなってるけど当時はそれなり に入団拒否の可能性があったわけね表だっ てないだけでドラフトへの指名挨拶の時点 で希望球団以外なら入団拒否すると伝えて たケースは多かっただろうな平成横浜失敗 ドラフトしでも紹介したが有望な高校生に 数年後の逆指名を約束して大学や社会人に 進ませたケースもあったそうだしそうなる と人気の高校生を指名するのはそれなりの リスクがあったわけね人気とは言えない 球団にとってドラフトの選択肢を狭める 制度になってしまってたわけだな2つ目の 理由は契約金の高頭だ契約金って一律だっ たんじゃなかったっけ一応契約金は1億円 出来高払いは5000万円を上限としてた んだ一応ってのが問題なわけねご存知の方 も多いだろうがこの契約金の上限ルールは 経営化してしまっており実際は高額な契約 金を用意して入団交渉を行う球団が出てき てしまったんだいわゆる裏金問題ってやつ ね最も有名なのは巨人の裏金問題だろう超 科学の契約が判明したのは高橋義信上原 浩司二岡智安倍之内哲也野口高彦の6選手 に対してだほとんどの選手が後にリーグを 代表するレベルの活躍をした一流選手 ばかりじゃない最も高額なのは安倍選手の 10億円だ10億ルールの10倍じゃない

のよその他の野口選手は7億円高橋選手は 6億5000万円上原選手二岡選手は各 5億円内選手は2億5000万円の支払い があったとされてるななんか想像してた 以上の工学でびっくりしたわ本来のルール なら数十人を雇える金額を6名の選手に 対して支払ってたのねドイツリーグの ライバル球団がこれだけ分断に資金を使っ て有力選手を獲得していては成功法で対抗 していくのはなかなか難しいなまた契約金 だけでなく対談寺の厚労金が7000万円 支払われていたとされる二岡選手は広島に とって朝からぬ縁がある選手だ何か問題 あったの二岡選手は元々広島県出身で高校 時代は広島の名門工業高校で活躍した選手 だったんだ切水の広島っ子だったのね二岡 選手は高校卒業後は近畿大学に進学したが 広島は早い段階から二岡選手を徹底マク 二岡選手が大学4年生の春の時点で希望枠 による獲得を目指すことを早々に公表する ほどの熱の入れよで二岡選手とも関係は 良好だったそうだそんなに熱意を見せて くれてたなんて選手としては嬉しい限りよ ね当時の広島は長年ショートのレギュラー を務めていた野村健治郎の継者を探してお チームの補強ポイントにも合致していたん だ色々と当時の広島にとってはピン ポイントな人材だったのね当時の広島 スカウトの宮本洋次郎さんは秋の時点で 広島に来てくれるのはほぼ間違いないと いう感触を持ってたそうだところが ドラフト直前になって二岡選手は急遽巨人 を逆指名何か見えない大人の力が動いたの ね宮本スカウトも二岡選手の決断が本人の 石だけ出なかったであろう空気を感じた そうだぜはっきりとは言えないけど当時の 業界では裏で何が起こってたかは分かって たでしょうからね2005年から2007 年にかけて日本ハムでGMを務められた 高田茂氏は尼川から金銭を要求された経験 があることも明らかにしてるぜそれって 選手の所属チームの監督とかってことそれ もだし実際には親族から金銭を要求される こともあったそうだ親まで絡んできてるの まよく聞く話でドラフト上位で指名された 選手の家族や所属チームの監督の乗ってる 車がドラフト後にかなりの高級者に変わっ てるなんてこともあるそうだからな選手 自身の思いだけで球団を決められない事情 があったりするわけねこうした契約金の 高頭によりドラフトで有望選手を獲得する ためのマネーゲームが加熱その結果資金力 で劣る広島は逆指名制度を使った選手の 獲得数が12球団で最小になってしまうん だこちらが全球団の逆指名制度で獲得した

選手の数だ2005年に球団ができた楽天 を除くと広島だけ一桁じゃないトップの 巨人の人とは3倍近く差があるしとても 公平な制度とは言えないわね当然契約金 だけが逆指名する理由ではないが戦力の 均衡は保てないシステムだなまた単純に 獲得できた選手の数だけではなく質の面で も差をつけられていたように思える選手の 室広島は合計8名の選手を逆指名で獲得し ているがその中でアマチュア時代から トップクラスの成績だったのは94年に 獲得した日本体育大の山内安行投資くらい だ逆指名で獲得する選手だから実績があっ た選手が多いんじゃないのいやその他の 沢崎俊和投手や長川勝弘投手は大学時代は チームで2番手の投手で黒田投手や遠藤 竜二投手は将来性を変われての指名だった んだ逆指名枠イコール速戦力のイメージだ けどポテンシャルを評価して獲得した選手 も多かったのね近年の広島で言えば 2014年にドラフト2で獲得したヤ高月 投手なんかもこのパターンだな確か大学 通算で一部リーグでの登板が2試合しか なかったのよねそうだな右肘の故障があっ てほとんど実践登板機会はないが素材を 評価してのドラフト2で入団即戦力の活躍 はできなかったがプロ3年目に15勝参拝 の高成績で最高勝率のタイトルを獲得して リーグ優勝に貢献したなつまりその年の アマチュアナンバー1選手は打球団に囲わ れてしまってるから逆指名時代なのに素材 型の選手を獲得せざるを得なかったって ことを言いたいのねそういうことだな最初 の山内投手の時はまだ逆指名制度が始まっ たばかりだから有力選手を獲得できたけど それ以降は資金力豊富な球団に立ちちでき なくなっていったのはちょっと悲しいわね 当然アマチュア時代の評価が全てではない が前述した巨人の裏金事件で取り上げられ た選手たちはいずれも当時のアマチュア ナンバーワン選手たちだその選手たちの プロ入り後の突出した活躍を見ればア ナンバーワン選手を高い確率で獲得できる ことの恩恵はお分かりいただけるだろう その逆もしかりよね90年代の広島といえ ば野村金本江藤前田友小方光一らを用した 協力打線が自慢のチームで94年から96 年にかけては3年連続でリーグナンバー1 の得点数を記録してるんだそれだけの メンバーが揃ってたならその得点力も必然 よねその一方で失点数の多さが足を 引っ張ってしまい90年代の10年間で 失点数リーグ再開が4回もあるんだいくら 得点が入りやすい広島市民球場が本拠地と はいえ感化できない失点数の大さねもし

仮りに逆指名制度がなければ速戦力投手を 加えて問題を短期的に解消できた可能性も あるわけだ近年のカープだと野村裕介大世 第1森下正斗栗林領事みたいに1年目から 結果を出した速戦力ドラ1投手はいるもん ねそうした速戦力性の高い投手たちを獲得 する手段に限りがあったことも広島が低迷 していく要因となっていたんだFA外国人 さらにはドラフトでも補強手段が限定的で はななか優勝するのは難しいわねそんな 広島が低迷を脱出できる1つの要因となっ たのが2007年から逆指名制度が廃止さ れたことだ裏金問題や栄養費問題などが 発覚して不正の音象となっていたことが 撤廃理由だな制度変更で喜んだ球団とそう でない球団とに分れてそうねどこの球団が どうとは言わないが少なくとも広島は恩恵 があった球団の1つだろうな実際逆指名 制度が撤廃された2007年以降広島は ドラフトで毎年のように有力選手を獲得し てるんだ元々ドラフトのスカウティング 自体には定評があった球団だもんねまた そもそもの問題であった財政面の課題も 徐々に解消されるようになっていくんだ 確かにFAや逆指名制度に苦しめられてた 根本原因は資金がなかったことだもんね 外国人選手の入出なども結局はお金がない ことが問題だからなでもどうやって財政面 を立て直したの理由は1つではないが 大きな要因となったのはやはり観客動員数 の増加が上げられるなプロ野球球団の年間 収入はチケット売上に依存するところが 大きいものね単純にお客さんがたくさん来 ているだけでなく平成の広島の観客動員数 の推移を見てみると1991年から 2002年にかけては年間入場者数が 100万人を超えていたんだが 20022003年は100万人終わって しまってるんだその頃といえばFAで東 選手や金本選手が対談してチーム成績も 振っていなかった時ね元々もないことをえ ばやはり弱いチームが観客動員数を増やす ことは難しいからな基本的に弱いってこと はそれだけスター選手も少ないでしょうし ねおまけにこの頃は広島市民球場の老朽化 が進んでおり球場の利便性や客席の質また 選手のロッカーや水回りの設備など球場に 関わる多くの人にとって魅力的な環境とは 言いがい状況だったんだもちろん思い入れ や愛着があるからその点では魅力のある 球場だったけどやはりハードとしての価値 は決して高いとは言えなかったもんね特に 野球選手は体が資本の職業だけによりいい 環境でプレイしたいとは思うものだからな 自分が30代を過ごす球場をどこにするか

と考えた時に設備が整ったところでやり たいと思う選手がいても不思議ではないわ ねその辺もFAで選手の流出が多かった 原因の1つだろうなそんな中で広島は 2009年から本拠地を松田スタジアムに 移転その結果観客同院数の推移は2007 年が112961人広島市民球場ラスト イヤの2008年は 1396180人そしてマツダスタジアム オープンイヤーだった2009年はなんと 1873046人に達したんだとんでも ない右肩上がりじゃないのよ2010年 以降は150万から160万人の間で推移 してたんだが広島がAクラス入りした 2014年はなんと1904781人を 集めたんだ1番少なかった時から約 100万人も増えてるじゃないそして黒田 投手が復帰した2015年にはは球団初の 年間動員数に100万人を達成それ以降も 広島が強くなっていくのと行うするように 観客動員数は増え続けてるんだやっぱり 勝利こそ最高のファンサービスよね何せ 2018年の観客動員数は巨人阪神ソフト バンクについで12球団で4番目の王さだ からな超人気球団たちに追随するほどに なったのねちなみにもしかして単に市民 球場よりマダスタジアムの方が収容人数の キャパが大きいだけって落ちなんじゃない のいやマツダスタジアムの収容人員は 3万3000円で旧広島市民球場が3万1 1984人なのでキャパ自体は大差ないな ってことは単純に球団や球場の魅力が観客 動員数を増やしたってわけね単にチームが 強くなっただけでなく様々なファン サービスの工場も動員数増加の一員だろう なその証拠にカープのグッズ売上げ高は 2013年以降右肩上がりなんだそんなに グッズが人気なの2012年に約12億円 だった売上は13年が19億14年が 26億15年が36億で25年ぶりに優勝 した16年はなんと53億円まで上昇し てるんだたった4年で4倍以上も売上 アップしてるじゃないのちなみに2016 年の広島球団の全売上げ高が18200な ので約13を占める計算だなチケットに 並ぶ経営の柱になってるじゃないちなみに 同時だとヤクルトもグッズが人気の球団と して知られるがそのスワローズでも 2016年のグッズ売り上は10億円と カープの1/5以下なんだ広島が異常値 だってことがよくわかるわ以前カープ グッズの販売担当の方に密着した番組を見 たことがあるんだがたまたま取材した日に 広島がさよならがちし担当の方の1番に さよならがちTシャツの発注をかけてたの

が印象深かったなファンは熱量がある時に こそ財布の紐が緩むからね人の心を掴むに はやはりマーケター自身も顧客と同じ熱量 を持っていないといけないからなその辺の ファン心理が分かったがいたこともグッズ 販売額の工場につがったのねこうした急場 設備のアップグレードファンサービスの 良化チーム勝率の向上人気選手の対等など 様々な要因が重なって広島は12球団でも 屈しの観客動員数を誇るようになったわけ だその結果球団の財政難も徐々に解消さ れるようになったのねチームの資金力向上 がファンに見えやすい形で現れたのは チーム総年方の向上とFA輸出の現象 だろう2006年には12球団最小の 17.1円だったのが2018年には12 球団中8位の27.9だ円と実 23.5も増加してるんだ10年で総年方 が10億円以上も上がってるのねそれだけ 払える球団になったとも言えるし払う必要 があるだけの選手が育ってきたとも言える なまた2018年オフに丸が巨人にFA 移籍してしまったもののその後はFAで 選手の入出はなしまる選手が移籍した時は その後も続々とFAで入出する悪夢の再来 かと思ったけど後続が続かなかったのは 意外だわ大世相澤つ菊涼介西川両馬といっ た主力選手のほとんどがチームに残留した からな前田健太投手鈴木星也選手みたいな メジャー挑戦組は仕方ないとしてよく選手 留出を抑えられてるわよね選手にも色々 考えがあるだろうがやはり設備年方チーム 力の向上が与える影響は大きいだろうな 今回紹介した低迷理由の根本であった資金 面の問題を改善したことが有力な選手の長 期間保有につがってるわけねさ束を頬で 殴るようなチームを嫌う球団もあるが やはり資金力がないことには戦えないのが プロスポーツの世界だからなお金はない けど思いはありますだから残ってください っっていう無茶な頼み方ではなく価値が 高い選手にはそれに見合った報酬をお 支払いするってのが最大の誠意だったり するから ね今回は新3大広島の失敗格差トレードを 紹介するぜ団別のさトレード企画はこれで 第8弾ね片方のチームの遺跡選手が大きく 活躍したケースが対象なのね今回は あくまでトレード後の利得だけを見てるの で遺跡の背景や編成事情は考慮してない ことは念頭において欲しいぜ両チームとも に大きな成果があったトレードは扱わな いってことね新3台広島の失敗格差 トレード1つ目は1974年の広島アア総 8投手と阪神わこと投手のトレードだぜ

アアさんってアアさんでおなじみのあの アニアさんのことそうだ開幕前の広島党 主人の予想勝利数を足すとうっかり合計で 100勝を超えてしまう兄屋さんのことだ ぜ広島一筋の高校屋かと思ってたけど カープ以外の球団に在籍したこともあった のね人気野球漫画のルーキーズに登場する 主要人物の名前は元阪神の戦士から取った ものが多いが主役閣の兄一の苗字はこの兄 さんから取ったものだからなそうだったの ねなかなかこの時代の選手のことは分から ないから詳しく解説しちょうだいよアア 投手は1964年に沖縄県人初のプロ野球 選手として広島に入団実は甲子園都市対抗 野球の出場もこのアア選手が沖縄選手では 初出場だったりと沖縄野球会のパイオニア でもあったんだ今でこそ東浜な山川穂高 選手など個人タイトルを獲得するほどの 有力選手が沖縄から多数出てるけど当時の 沖縄はまだまだ野球が発展途上だっったの ね何せ甲子園の予選も沖縄大会を勝ち抜き た後に九州大会をまた勝ち上がるないと いけなかったからな今みたいに核都道府県 から必ず1項以上が出場する制度じゃ なかったのねそんな沖縄県10の期待を 背負ったアア投手はプロ1年目に3勝を マークすると2年目には20.1回を投げ て防御率3.00と活躍以降も先発と救援 の両方の役割をこなしてチームに貢献する と5年目の1968年には313回1/3 を投げて防御率2.0723勝を上げる 活躍でを球団創設19年目にして初のA クラス入りとなる3位に押し上げたんださ 300イニング超えしかも今では考えられ ないことに57試合に登板して20関東も してるからな現代の野球選手が障害かけて ようやく到達する関東数を経った1年で 記録するなんてそれでいて防御率が 2.07と質の面も素晴らしい数字だっ たらそれはチームも強くなるわよね沖縄 だけでなく広島の希望の星となったアア 投手は 1969197010年も2年連続で二桁 た勝利の活躍たださすがに入団7年間で 1300イニング以上を投げたツが回った のか1971年以降は成績が低迷して しまったんだそらそうよとしか言いよが ない今では考えられないほどの国っぷりだ もんね4年連続で成績不審に終わりすでに 年齢も30歳を迎えていたアア投手に対し て上ルーツ1軍打撃コチが投球フォームの 変更を指示打撃コチが投球フォームについ て言及してきたのそれ一見行為だったん じゃしかも要求されたのがスリー クウォーターからアンダースローに帰ろだ

からないやいやちょっとしたアドバイス ならまだしも選手生命を大きく左右する レベルの大きな変更じゃないそんな大事な 変更を開幕1週間前のオープン戦中に指示 されたアニア投手はわしはやらんと団子 拒否ルーツは監督じゃないんじゃけんと 当時の森永監督に訴えたが首脳人との溝は 埋まらず結局この年は33試合に登板し ながら1試合しか先発させてもらえず わずか4章に終わってしまったんだ成績 不審年齢30代それに加えて首脳Wiと舟 ってかなり雲行が怪しくなってきたわね アア投手にとって運が悪かったことに 1974年のオフに対立してたルーツコチ がなんと監督に就任悪いことって重なる もんねルーツ監督就任後すぐにアア投手の 阪神へのトレードが決まったんだま自分の 言うことを聞かない不満分子のベテランと なると放出されちゃうのもしょうがないわ ね実は兄投手はこのトレードが決まった 当初は阪神には移籍せず現役引退する つもりだったそうなんだただ周囲からお前 1年くらい遊んで来いやなどと説得されて 当時の阪神の吉田吉男監督からも是非来て ほしいと懇願されたことで現役続行を決意 したんだオリックスフロント衝突対談編の 時の山崎たし選手もそうだったけど やっぱり周りに必要とされると人間もう 1度古い立つものよねアア投手も契約した からには広島を見返すくらいやってやろう とオフには初のトレーニングジム練習を 取り入れたそうなんだ反骨精神ってのも プロ野球の世界を引き抜いていく上では 大事だもんねそれまで痛風になるまで飲ん で食べての私生活を改めて体重も8kg 近く落としたそうだからなそもそもそんな 生活でよく活躍してたわねアア投手は阪神 遺跡1年目の1975年は全66試合に 救援登板さすがにベテラン投手にとって 先発は厳しかったのねいや救援登板だけで 140回2/を投げ規定投球回数に到達 すると5年ぶりの2桁勝利となる12勝を 記録しかも防御率は脅威の 1.91:116:9 に登板して29勝とチームに大きく貢献し たんだ昔は今以上に投手が誌名だった時代 にあって30代でそれだけ復活する投手も 珍しいわよねところでトレード相手になっ た和行友投手はどうだったの和行投手は 大前阪神時代に6度の2桁勝利を上げて 広島に移籍するまで218勝の実績があっ た投手だったんだ実績のあるベテラン投手 同士のトレードだったのねああただ和工 投手は遺跡時点ですでに38歳とかなり 恒例に達してて遺跡1年目は20試合に

登板して3勝止まり2年目には19試合に 登板したものの霊勝と再生期とはほど遠い 成績で現役を引退してしまったんだ年齢も 年齢だしスポット的な先発としては悪く ない成績だったけど兄投手との利得差は 大きなものが生じてしまったわね遺跡の 経緯的に選手同士の貢献度で単純に 差し引きできない部分はあるが貢献度に 大きな開きが生まれたトレードになったな ちなみにこの時半神に拾ってもらった音を 感じてる兄屋さんは毎年開幕前のシーズン 優勝予想では広島優勝阪神2にしてるそう なんだもうそれって解説者としての役割 果たしてないじゃないと言いたいところだ けどそれくらい振り切れたエコ引き解説の 方が地元テレビ局にとってはありがたい ものよねシーズン前の開幕予想なんて実質 解説者の就職アピールみたいなものだから な新3大広島の失敗格差トレード2つ目は 1974年の広島長い貨物投資と太平洋 クラブライオンズ乗り換久義投手の トレードだぜ1974年ってことはさっき のアア投手と同じ年にもう1件失敗 トレードしちゃったの俺も調べてて意外 だったがそうなんだぜこのトレードには どういう狙いがあったのこのトレードは1 軍でほぼ実績なかった若手投手同士の環境 を変えてみようという意味合いが強かった みたいだぜトレード成立時点では特に注目 されるほどの遺跡でもなかったのねあ長い 投手は1971年にドラフト3位で広島に 入団1年目に1登板2年目に20登板と 少しずつ登板機械を増やしてたがこの時点 では未勝利と目立った活躍はなし遺跡1年 目は144試合に9円登板し防御率 8.18と散々な結果に終わり4年目は プロ入子初の未登板に終わったんだ まだまだ高卒4年目ではあるけどかなり 危機感を感じる状況よね実は長い投手は プロ1年目の時点で投球フォームの改造に 着手してて9回唯一の左のアンダースロー を目指してたんだ左のアンダーなんて野球 漫画とかゲームの世界ですら希少な存在だ し現実ではほとんどいないもんね当時は左 のアンダースローは野球会のタブーみたい になってたそうなんだがタブーは破るもの と思ってたそうで当時の9回最高の アンダースロー投手であった阪急の山田久 投手の投球フォームを参考にして新 フォームを完成させていったそうなんだ 山田投手の投球フォームってかなり独特だ けどそう簡単に真似できるものなの長い 投手曰山田投手の投球フォームは強靭な下 半身あってこそのものだそうだが自分自身 もかなり足腰が強かったので物にできる

自信があったそうなんだなんでも中学時代 から毎日欠かさず25から30km走って たそうだからな待って10年近くもそんな 走ってたら地球2分くらいあるじゃない 言葉を選ばず言うけどスポーツ選手って いい意味でぶっ壊れたとこあるわよねそれ くらいぶっ飛んだ思考とか体力ないとやっ ていけない世界だからなホーム改造の努力 が結果となって現れたのが遺跡3年目の 1976年この年は45試合に登板して プロ初勝利を含む参照を上げると翌 1977年は49試合に登板してなんと 199回3/3を投げ防御率も3.33の 高成績で急勝6セブを上げる大活躍だった んだえ9円もこなしながら200イニング 近く投げてるじゃない本人曰当時は3連戦 の初戦が先発2000目が1ポイント3戦 目が中継か抑えってこともあったらしい からな今では考えられないむちゃくちゃな 器用法ねね長井投手のキャリアは後述する 左下のワポイント救援のイメージが強いが 実際はこの77年こそがキャリア杯の成績 だからな現代なら先発投資トップクラスの 成績だもんね1979年から81年にかけ ては3年連続でリーグさえた登板を記録し その間の平均投球回数は105イニングと タフネスぶりを発揮1982年に監督が 広岡達郎に変わると左のワポイント リリーフとしての役割を与えられたんだ アンダースロの左下なんて憧れるじゃない 長井投手は広岡監督体制の4年間で165 試合に登板し19828385年のリーグ 優勝に貢献当時のパリーグの左だしたち からはとにかく嫌がられていて当時ロッテ で4番を売ってたレロンリー選手というの がいたんだがあ外国人祝トレード編の時に 話した選手だから覚えてるわ確か本塁打王 を獲得したこともある選手でNPB通算 打率ランキング1位の打者でもあったのよ ねそのレロン選手ほどの打者が長い投資と は通算111打数17安打で打率はなんと 1割ゴブ3輪111打数も対戦して抑え 続けてるなんて天敵と言えるほどのキラっ ぷりじゃないレロン選手はあまりの苦手 意識から長い投手がワンポイントで出て くると右打席に立ったこともあるそうなん だ昔カブレラ選手が敬遠に対する抗議で左 打席に立ったことあるけどまさかワン ポイントが嫌すぎて逆の打席に立つなんて 聞いたことないわその他にも通算567 本類を記録した左の強打者門田広光も長い 投手が登板するとベンチに代打を要求して 交代したという逸話があるんだそんな変速 投手を相手にしちゃった打撃フォーム狂っ ちゃいそうだしね決して豪速球を投げる

わけでもない変速サワが並いる強打者を 手玉に取るなんて見てる方としてはかなり 痛快じゃないちなみに1977年のオール スターで大貞春選手を三振に打ち取った 場面がかの有名なピンクレディの サウスポーのモデルになったとも言われ てるぜあの派手な名がこんな渋い職人投手 をモデルにしてたものなんて意外だわ結局 長い投手はその後対応大Aを渡り歩いて プロ通算で606試合に登板この登板数は 2022年5月時点でプロ野球市場38番 目に当たる記録なんだ最近では障害救援 専門の投手も珍しくなくなってきて600 試合以上登板する投手も増えてきたけど 当時は救援をメインにして600試合以上 も投げる投手は珍しかったんじゃないそう なんだ先発や抑えなど目立つや6割の投手 以外でも何かこれという武器があればプロ の世界で重宝されると証明したことはその 後のプロ野球においてかなり意義があった ことだからな全ての投手が主役を晴れる わけではないし挫折しかけた投手にとって はかなり貴重な成功例よねこういう過酷な 役割をこなしてくれる選手の存在って大事 だし本当にその通りだぜそういえば広島に 移籍してきた乗り換え投手はどうだったの 乗り換え投手は遺跡1年目に10試合登板 したが未勝利に終わり2年目には登板機会 がないまま現役を引退してるぜ2人とも 遺跡後2年間は似たような成績をたどっ てるけど乗り換え投手はきっかけを掴む ことができなかったのね新3台広島の失敗 格差トレード3つ目は1982年6月4日 の広島高橋直樹投手と西武古沢検事投手 大原哲也内野種のトレードだぜ広島はまた も西武に高投手を送り出してしまったのね 高橋投手のキャリアを振り返りながらこの トレードが起こった背景を解説していくぜ 高橋は元々東映日達日本ハムのエースだっ た投手でプロ2年目の1969年に223 回を投げて防御率 2.42980円ダルビッシュ大谷投手と 共に必ず入るレベルの実績を持った投手だ からなそんな投手がどうして広島にいたの 当時はFAもなかったのに実は高橋投手は 1981年のオフに広島江夏豊かとの電撃 トレードで移籍してるんだ江夏投手といえ ば伝説の優勝受けおい人じゃないそんな 江夏投手とトレードされるなんて当時高橋 投手はかなり評価されてたわけねああそれ に加えて当時の日本ハム大沢監督とあまり 関係がうまくいってなかったようで2重勝 を上げた年に大沢監督が高橋直田て トレード要因の可能性はあると発言したの に対しトレードなら喜んでいきますよと

発言し球団から罰金処分を受けてたんだ昔 の選手らしいハキ抜着せぬ発言嫌いじゃ ないわ他にも高橋投手は大沢監督が故障を 抱えた投手を故障が言えてない状態で起用 することを心よく思っておらず日本ハムで は気動が1年でダメになっているでしょう と広島遺跡後に不満を漏らしたりしててる んだ監督と関係がうまくいってなかった こともエナの電撃トレードの要因だったの ねそうでもないと152回3を投げて10 勝した投手を放出しないからな期待されて 広島に移籍した高橋投手だったが1年目は わずか16試合の登板で2勝5敗と成績を 大きく下げたんだ江夏投手との交換相手が その成績じゃ球団としては頭が痛いわね 実際高橋投手も江夏級の活躍を求められる ことに少なからずプレッシャーを感じてた ようだぜ結局広島ではかつての投球を 取り戻せないまま移籍2年目のシーズン 途中にトレードで西武に移籍することに なったんだ広島では日本ハム時代のような 活躍はできてなかったのねすでに年齢も 37歳に達してたこともあって高橋投手は 終わった投資と見る向きもあったんだ普通 に考えたらその年齢から復活するなんて 厳しいわよね高橋投手はそんな会議論を一 周する活躍遺跡後すぐに先発で起用される と防御率 2.40-100優勝に貢献日本シリーズ にも2試合に先発するほどの信頼を得て チームも日本一に輝き地震初のチーム タイトル獲得に貢献したんだ37歳の ベテランウワンが途中移籍してきて老害な ピッチングで優勝に貢献するなんて漫画 みたいな話でかっこいいわね遺跡直後の2 勝が前期優勝の言動力になり契約公開では あの2勝は1000万の価値があると球団 からも高く評価されたそうなんだ終わった なんて言われてたところからそんな評価を 受けるまで復活するなんて人生いくつに なっても諦めちゃだめねさらに翌83年に は開幕からフル回転の活躍で3年ぶりの 規定投球回数超えを果たし13勝3敗の 活躍で地震初の個人タイトルとなる最高 勝率を獲得しチームのリーグと日本 シリーズ連覇に大きく貢献したんだ38歳 で全盛紀にも匹敵するほどの活躍をしてる じゃない高橋投手は40歳となった85年 にも7勝を上げる活躍で遺跡54年間で 29勝して3度のの優勝を果たしたんだ まさか放出した広島もこんな活躍するなん てって驚いたでしょうね高橋投手と交換で 広島に移籍した2人の成績はどうだったの 古沢投手は阪神時代に先発投手として活躍 した投手だったが広島移籍後は主に救援

投資として起用され遺跡後3年間の登板 推移は293230試合阪神最終年の85 年こそ未登板に終わり現役引退することに なったがそこそこの働きはしてるんだ古沢 投手自体は悪くないけど先発として活躍し た高橋投手と比べるとやや劣る貢献度だっ たのねもう1人の大原選手は移籍52年間 でわずか28試合のみの出場に終わり83 年オフには再びトレードで近鉄に移籍し てるぜ移籍選手トータルの貢献料を比較し てみても西武側に大きな利得をもたらした トレードになったのねというわけで今回は 新3台広島の失敗格差トレードを紹介して いったぜよかったらチャンネル登録や高 評価をしていただけると動画制作の励みに なるのでよろしくお願いしますだぜそれで はご視聴ありがとうございました

■広島関連動画
・【15年連続Bクラスの原因】平成の広島東洋カープ大失敗ドラフトの歴史【プロ野球】
→https://youtu.be/NQNiI_hkcHY

・【育てても育てても…】広島カープが15年連続Bクラス落ちした3つの理由【プロ野球】
→https://youtu.be/5JuNi_PKd1U

・【辛いです】あまりにも痛かった広島のFA流出選手3選【プロ野球】
→https://youtu.be/L6W48blP9Kg

・【鉄腕】広島カープが大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/5AaTLB-OMos

■関連書籍
・赤の継承~カープ三連覇の軌跡~
https://amzn.to/45Qp4iK

・マツダとカープ―松田ファミリーの100年史―
https://amzn.to/46fqHq5

良かったら画面右下の高評価と
チャンネル登録お願いします→https://bit.ly/3LInzcK

■格差トレードシリーズ動画
・【衝撃】阪神タイガーズだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/NnyAwDFWMc4

・【再覚醒】オリックスだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/L8O7cY_IVSw

・【前代未聞の移籍拒否】ホークスだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/9StXVIYvnbo

・【横浜を出る喜び】ベイスターズだけが一方的に大損してしまったしくじり格差トレード3選【プロ野球】
→https://youtu.be/PEd7ygENN9k

■過去動画
・【不死鳥】西武を戦力外になった後に他球団で大活躍した選手3選【プロ野球】
→https://youtu.be/ONDeywSyT8g

・【衝撃】新・3大即戦力外ドラフト!優勝から数年でチームに暗黒時代をもたらした悲劇【プロ野球】
→https://youtu.be/vclUp_jzYa8

・【悲惨】あまりにも弱過ぎてシーズン途中で解任された監督3選【プロ野球】
→https://youtu.be/blh4LbVZGR4

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  1. 広島の平成の暗黒時代は、エースと4番が抜けるパターンだった。でもその後、黒田と新井はチームに戻ってきて優勝したのは見事です

  2. カープアカデミーで選手を育てて安値で獲得するという目の付け所は悪くなかったけど、ドミニカ人の最終目標がメジャーリーガーだったところを見誤ってた。

    一昔前の広島は目先の金をケチって外国人も含めて選手をよく流出してたな。
    その中でも金本の流出は本当にもったいなかった。

  3. 広島と言えばFAに頼らず巧みなドラフト戦略で上手く選手を育てたり外国人のチョイスも中々なもんだけどやはり失敗する事はあったんだなあ🙄
    しかし眼鏡が特徴の斉藤選手何か懐かしいですね😇

  4. カープはドラフト戦略やコスパのいい外国人選手の獲得は中々うまいが、トレードに消極的なのが難点。資金的な問題でFA市場では弱いのだから、フロントがもっと積極的にトレードを活用しないと戦力のバランスを取れなくなる。
    FAで流出しそうな選手はトレードの駒として優勝争いをしているチームに放出し、見返りに弱いポジションを補強するなど頭を使わないと、また1990年代後半や2000年代の弱いカープに戻りかねない。

  5. 昔話をほじくり返し、市民球団として限られた資金内で存続する努力を再生数獲得のために侮蔑しネタにする。
    前科があるが公正し真面目に生活してる者を侮蔑し排除するご近所的差別意識、排除目的ですね。
    寛容さの欠片もない最低な動画です。

  6. 当時阪神が奪ったって論調で相当叩かれたけど、これみるに自軍が金ケチっただけの他責じゃん。

  7. 「お前、テレテレ走ってるんじゃねぇよwやる気あるのかよww」とロペスが前田神を煽ったんやっけw

  8. ジョールーツが打撃コーチで投手にいっちゃもんつけるとは思わなかった。

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