#鎌倉幕府 #日本史替え歌 #鎌倉殿の13人

義時像を描いてくれたAsさん
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原曲様

ust

2 Comments

  1. どうしても素材が少ない日本史でこれだけハイレベルな映像を作れるのがすごい。歌詞もダークな雰囲気をわかりやすく落とし込めていて最高です。控えめに言って神です!

  2. 北条(江馬)義時の生涯
    伊豆の小領主だった北条時政の次男として生まれるが、姉,政子が源頼朝と結ばれたことで否応なしに彼の人生は戦争と権力レースの中心に立たされることになる。
    頼朝時代の鎌倉幕府で義時は源平合戦で源範頼のもとで戦うも目立った軍功は無かったが、文官としての才覚と義弟であることの信頼から頼朝の親衛隊である「家子(いえのこ)」の筆頭の地位に付けられ、頼朝の最側近であった。
    正室は比企能員の養女 姫の前。義時は何度もラブレターを送ったが彼女に取り合って貰えず頼朝の仲介でやっと妻に迎えたのだという。(0:28)
    義時の生涯で最も幸せで満ちていたのは頼朝存命時だったとうp主は思います。(0:01)
    頼朝が急死すると若い将軍頼家を補佐する宿老13人の中に最年少で選ばれている。梶原景時弾劾に義時は署名していない。
    実家の北条氏と妻の実家比企氏が対立し、父の手で比企氏が滅ぶと義時は妻と離縁させられてしまう。(1:08)
    その後時政は比企氏を外戚に持つ源頼家を追い出し修善寺で殺害。(1:16)
    源実朝を将軍に擁立し代わりに政務を行う【執権】の地位に就いた。(1:36)が、御家人の声望を集めていた畠山重忠を無実の罪で陥れ追討を強行する等の時政の政治に不満を持った義時に時政は追放され、代わって義時が執権の地位を強引に世襲した。
    母親が有力な氏族の子供でなかった義時は時政に嫡男として認められず江間(江馬?←動画はこっち)の姓を名乗っていたことから溝のある親子だったとされる。(1:42)
    1205年から義時は死ぬまでの19年間を執権の地位で生きる。
    1213年自分に次ぐ権勢を誇った侍所別当の和田義盛を滅ぼした。(1:55)
    義時は将軍実朝を傀儡にしていたことは無く、義時の役目は職務の補佐で実朝は自立した将軍であった。
    1219年実朝が頼家の子で甥の公暁に殺害される。(2:08)
    裏で義時が公暁を操り殺害するように仕向けたという説があるが決定的な証拠は無く、実朝は和歌を通じて朝廷と幕府の架け橋を担い外交的良好を築ける無くてはならない存在で、むしろ将軍を失って困るのは幕府を運営してる側の義時であるため、実朝暗殺事件に義時は関与していないのが事実である。
    義時や北条政子、大江広元ら幕府首脳は左大臣九条道家の子頼経(4歳)を将軍に迎え幕府将軍をなんとか繋いだ。
    しかし、幼君を擁てたことで義時、政子、広元らが幕府を運営することになり、これまで将軍の権威が支配力だった幕府は弱体化してしまい、この国のもう1つで最大の権威である朝廷の最高指導者後鳥羽上皇はその欠陥に付け込み1221年に幕府を攻撃した。(承久の乱)
    後鳥羽上皇は義時に対し義時が治める一つの所領の返還を求め、それを義時が拒否したことを口実に挙兵した。(2:33)在京していた御家人(三浦胤義、大内惟信、佐々木経高 等)の多くは朝廷方に着いていたが兵力の招集に時間がかかっていた。
    鎌倉幕府は速やかに軍勢を京都に出陣させ、朝廷側として挙兵に参加する者が少ないうちに戦いを始めることによって大勝利を修めた。
    幕府は内心は畏れ多い感情を抱えながら後鳥羽院を隠岐国、順徳上皇を佐渡国、後土御門上皇を土佐国に流罪とし、順徳上皇の子 仲恭天皇を廃し新たに後堀河天皇を即位させた。
    承久の乱の勝利により朝廷に味方した西国御家人の所領を取り上げ支配地域を拡大した。
    武家政権が天皇を選択するなど歴史的画期の2年後義時は亡くなる。
    享年62
    死後、卓越した政治力から武内宿禰の産まれ代わりだったとして神格化されるが、鎌倉幕府滅亡後
    「将軍を暗殺した謀略家」「天皇を島流しにした大悪人」などの評価を受けることになり、天皇を中心とする帝国期では「義時が大好き!」なんて表で言えないレベルにまで下がり、近年やっと正当評価されるようになりました。

    主はそんな義時が大好きです!

    義時をもっと知りたい人向け↓
    https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/yositoki.html