今日の話題は
ヤバすぎる日本史の謎 源頼朝の酷すぎるエピソード5選 をお届けします。
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#日本史の謎 #歴史
14 Comments
私のご先祖様は頼朝公の家臣であり従兄弟でもありました。
ご先祖様は頼朝公には良くしてもらったと聞いておりますので・・・。
少しコメントに困ってしまいますね・・・。
これはまた北条にも受け継がれて行きます
長田親子の所業は清盛も許せなかったでしょう
長い事、流刑にされて人を信じる心が無くなってしまったのではないでしょうか?
義経も弟と言えども異母兄弟、やはり信じる事はできなかったのでは、と思います。なので疑いがあれば直ぐに誅殺してしまう、人を信じられない性格に育ってしまったのでしょうね。
そしてその頼朝も北条に消されるのであったww
そうささざるを得なかったのは、色々複雑な理由が絡むのでしょうが、一番大きなのは、私には頼朝自信が戦場での自らの功労と言う面は殆どなく、ほぼ全てが「他の力を頼まざるを得ない状況」であったからこそだと思います。幾分でも自身の自前の勢力があり、自身が周りが力をつけることに対して、そこまで脅威を感じる必要が無かったのであれば、広常しかり、義経しかり、滅ぼす所まで行かず手元に置いておく事ができたはずです。つまり自分個人の手駒が極端に少なかったので、直ぐに他の勢力が実質的な(主に軍事力という意味での)力を超えられてしまったから、と言う面が大きかったでしょう。
そこがスタートが(出自は真逆でも)似たように自身の勢力は無に等しかったにも関わらず、上り詰めた秀吉との類似点であり、違う点だったのではないでしょうか?
類似点は上に書きましたが、相違点は、秀吉は自身が戦場に赴いて自身の手で道を切り開く事でキチンと自身の力で動かせる勢力を持てたことにあります。なので基本まわりに強い勢力が出てきたとしてもそれを上回る勢力を保つ事ができてたので、「潰す」必要はなく、「取り込む」事ができた。
同じ短命政権で類似に語られる事も多い両者ですが、政権終了の理由には大きな開きがあると思います。豊臣は取りも直さずお世継ぎ問題なわけで、秀吉自身世継ぎ候補がもった早い段階でか生まれていて、そこが盤石だったら長期政権の目もあったでしょう。
けど、源政権は恐らくは「自前の勢力の弱さ」からは最後まで脱却できておらず、結局は「源氏の棟梁」と言う旗印のみを頼りに築き上げて来たもの、という意味で早晩短命に終わる運命だったんでしょうね。
これが、多少なりとも頼朝自身が戦場へ赴きその実績をもとに自前の勢力を増やす、と言う経緯を辿りつつその立場となっていれば、或いは長期政権の目もあったかもしれないな。そんなふうに感じております。
任せすぎ、ちゃいましたかねー。同じ任せるにしても、やっぱり一度は自分でやっておかないと…みたいな所、ありましたね。もっとじっくりと平家を滅亡させるのが良かったんでしょうね。そこは、義経があまりにも軍事の天才すぎて超短期で平家が、滅亡してしまい、その機会すらない状態になってしまったのが、頼朝の不運、と言えば不運でしょうか。
そのあたり、中国攻めの最後の一押しを、信長に花を持たせようとした秀吉と、そうはしなかった義経の違い、と言う面も面白くはあります。
今でも 似たようなことあります
時代のリーダーらしい判断力だ!
頼朝は手に入れた権力を守るため少しずつ変わっていきついには冷酷非道に成り果てた。
大河で今やってますね
頼朝は義経の愛妾の静御前(白拍子)が義経の子を身篭った事に対しても、酷い事をしておりますね。
河内源氏の同族殺しは頼朝だけじゃないですよ。もう本能みたいなもん。
鎌倉殿の13人に長田親子も登場するかと思ったが登場しなかったのが残念。洒落好きな三谷幸喜氏だから「身の終わりをやろう」の演出を期待したのだけどな
頼朝こえ〜よ…