政所の別当として幕府政治を取り仕切った大江広元。
実質的に幕府のトップであった広元は、将軍第一の姿勢を崩さなかった一方、幕府政治の安定を第一に北条氏を支援し、後の北条執権政治の基礎も作り上げました。
本来ならば息子の大江親広が、北条氏とともに政権を担い、北条独裁体制とはならなかったはずが、承久の乱で計算が狂い、広元死後、大江氏は再び権力のトップに返り咲くことはありませんでした。
ですが、広元の残した政治遺産は、北条泰時に引き継がれ、御成敗式目、吾妻鏡へとつながり、鎌倉幕府そのものを形作っていくこととなります。
今回は、北条氏と手を結び、新たな幕府の形を作り上げた大江広元の後半生を、息子の大江親広の動きと合わせて紹介します!
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参考文献
上杉和彦『大江広元』(人物叢書)
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5 Comments

  1. 広元の後胤の元就や隆景の登場を
    待ってやっと天下の事業に、
    携われる様になるまで
    長かったですね。

  2. 大江広元は承久の乱では、心穏やかではなかったでしょうね。実子親広が土御門通親の猶子であったため、朝廷側につかざるを得なかったのは、父親として辛かったはずです。しかし、立場上それを表明することも許されず、幕府側トップとして戦うという苦渋の決断をしたのでしょう。戦国時代に限らず、この頃から親子間での戦は行われていたのですね。親子が安穏と暮らしていける現代の幸せを実感します。

  3. 大江親広失脚後は、弟の長井時広が活躍する。
    承久の乱後には、京都で北条泰時や時房を補佐し、六波羅探題設立に活躍した。
    その後時広の長男は鎌倉に戻り、その子孫は鎌倉幕府評定衆家として続く。
    そして次男とその子孫は、六波羅評定衆筆頭として、六波羅探題を支え続けた。
    重大事が起きたときなどには、長井氏が鎌倉から京都に使者として派遣されることも多かった。

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