【鎌倉殿の13人】畠山重忠の最期…なぜ、北条義時は重忠を信じて守らなかったのか?歴史雑学】
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8 Comments

  1. りくと北条時政のせいで畠山重忠を失う羽目になりました。北条政範がなくなったのは平賀朝雅が毒殺したんですよ畠山の長男坊が目撃していましたし、本来なら時政は平賀の事を調べるべきですよ、りくが強引したからこうなったんですよ。義時は畠山と交流があるなら義時は時政に平賀が呼び戻すよう言うべきですよ。畠山重忠が死ななかったか実朝の護衛してくれたら頼もしいですし心強いですね。

  2. 義時はこの畠山重忠の乱を利用して、父・時政を政治の表舞台から引きずり下ろす=執権をやめてもらう=鎌倉から出て行ってもらうための「大義名分」を作ったのだと思います。
    ドラマの中にもありましたが、時政は所領をめぐって訴訟を起こしている御家人から賄賂をもらって訴訟を「もみ消し」たり、比企のいなくなった武蔵の守護になろうとしたりと、実朝の外祖父として「やりたい放題」だったので、義時も時政追放の機会をうかがっていましたが、なにせ時政は「初代鎌倉殿・源頼朝の義父」「幕府創設最大の功労者」であり、さしたる理由もなしに追放に動けば義時が「謀反人」扱いされるのは目に見えていましたから、畠山重忠の乱を「またとない好機」と判断したのだと思います。
    「シスコンの純朴な青年」江間小四郎だったのが、「食えぬ男」になった瞬間でした。

  3. 世渡り下手な人だったんですね。りくの讒言が無くともどこかの時点で左遷されてたかも

  4. 畠山重忠が亡くなった日…
    その日に生まれたのが、義時と伊賀の方の子
    後の7代目執権政村
    大河ドラマでは描かれなかったけど、何か運命めいたものを感じます…。
    ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

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