【北条義時】1163~1224年
・鎌倉幕府の危機を救い、執権政治の基礎をつくる
2代執権。源頼朝の妻・北条政子の弟。若いころから頼朝の家来となり、源平合戦や奥州藤原氏との戦いで多くの手柄を立てた。「最高の家来」だと頼朝の信頼が厚かった。3代将軍源実朝が暗殺されると、執権として幕府の実権を握る。じつは実朝暗殺の黒幕は義時だといううわさもある。1221年の承久の乱では、幕府から政治の実権を取り戻そうとする後鳥羽上皇らの朝廷軍を打ち破り、鎌倉幕府滅亡の危機を救う。

【歴史概要】

鎌倉幕府は、源頼朝によって開かれた。しかし、源氏の将軍は3代しか続かず、4代目以降の将軍はただのお飾りの存在となった。代わって権力を握ったのが執権の北条氏だ。執権とは将軍を補佐する役職で、お飾りの将軍のもとでは、実質、幕府ナンバーワンの立場となる。

 鎌倉幕府で代々執権を務めた北条氏は、伊豆を勢力にした地方武士だ。もともとは源頼朝の敵である平氏側の武士で、当主の時政は、伊豆に流された頼朝の監視役だった。ところが、娘の政子が頼朝と結婚したことで、頼朝に味方するようになり、鎌倉幕府の創設に大きな貢献をした。

 しかし、頼朝の子・頼家が2代将軍になると、隠していた牙をむきだす。頼朝の死後、鎌倉幕府は頼家のもと、13人の有力御家人の合議制で政治を行うことになっていた。13人のうちの1人だった時政は、なんと頼家を将軍の座から降ろして頼家の弟の実朝を将軍にし、自らは執権となって幕府の実権を握ったのだ。

 時政の息子の義時も、3代将軍実朝が暗殺されると、4代目に名ばかりの将軍を立て、以降、代々北条氏が執権となって幕府の実権を握る執権政治の基礎をつくった。

 執権として権力を握ったとはいえ、鎌倉幕府の創設には、北条氏以外にも多くの有力御家人が貢献していて、重要な役職についていた。彼らは北条氏にとってのライバルだ。

 時政や義時は、これらのライバルを滅ぼすなどして幕府内での勢力を強め、ついには北条氏が御家人のトップの座に君臨することになる。

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