巨人・松井秀喜新監督が誕生した。最初の大仕事は、ドラフト1位で強行指名した横浜高・織田翔希投手のメジャー志望を翻意させるための説得になりそうだ。しかし、その松井監督自身も、1992年のドラフト指名を受けた当時は巨人が意中の球団ではなかった。18歳だった当時の心の揺れ動きを描いた名作記事を、凝縮版でお届けする。

 1992年のドラフト会議の夜、18歳の松井秀喜は校舎の非常階段で、そう言った。あの寂しそうな顔を、筆者は今も忘れていない。

 1992年11月21日、第28回ドラフト会議。当時、駆け出しの記者だった筆者は、石川県の星稜高校にいた。夏は臨時の「松井番」として、大阪から特急雷鳥で金沢へ通い、勝ち上がるチームと打ちまくるゴジラを追った。甲子園の明徳義塾戦も取材している。4番打者が5度目の打席でもバットを振らせてもらえなかった試合だ。それでも敗退後の松井少年は泣かず、相手の戦法をののしることもなかった。泰然とした受け答えが、惜敗を伝説にしたのである。

 それから97日後に、人生が決まった。幼い頃に掛布雅之の31番のシャツを着て駆け回っていた松井が、本当に行きたい球団は阪神だけだった。担当スカウトの佐野仙好の名を連呼し、ほおを赤らめていたという。しかし競合したのは中日、ダイエー、阪神、巨人の4球団だった。

 抽選で、阪神の中村勝広監督は重なった2通の封筒の「下」を選んだ。後日、本人から理由を聞いている。

「なんで下を引いたかわかるか? オレは(ドラフト会場の)東京に新幹線で入っただろ? だから下から、下からってね」

WACOCA: People, Life, Style.

Pin