第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された、是枝裕和監督の最新作『箱の中の羊』。近未来を舞台に、亡き息子の姿をしたヒューマノイドを迎え入れた夫婦を描く家族劇だ。主演は綾瀬はるか、大悟(千鳥)。是枝が描いた「AIの寓話(ぐうわ)」とは。

AIを通して「喪失」を描く

死んだ息子がヒューマノイドとして帰ってくる──。そう書けば、『箱の中の羊』はいかにもAIをめぐる映画のようだ。実際、是枝裕和がこのアイデアを思いついたきっかけは、「死者をAIとしてよみがえらせるビジネスが中国で人気だという記事を目にしたこと」だったという。

ただし本作が軸足を置くのは、最新のAIテクノロジー、あるいはAIを利用した産業や創造の倫理ではない。むしろ、すでにこの世を去った人物と同じ姿をし、同じように話し、行動する存在と対面した、周囲の人々の反応のほうである。

愛する人と同じ姿をしたロボットを、「その人」として受け入れられるか ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
愛する人と同じ姿をしたロボットを、「その人」として受け入れられるか ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

建築家の甲本音々(おとね/綾瀬はるか)と、工務店の2代目社長である健介(大悟)は、2年前に7歳の一人息子・翔(かける)を亡くした。月日が経過した今も、夫婦は翔の不在を抱えながら暮らしている。

ある日、音々と健介のもとに、「家族を亡くした遺族に最新型ヒューマノイドを無償でレンタルする」との案内が届いた。ふたりは説明会へ足を運ぶと、翔のデータによってカスタマイズされたヒューマノイドの〈翔〉(桒木里夢)を迎えることを決める。

夫婦を演じる綾瀬はるか(右)と大悟(左)。ふたりの距離感も印象に残る ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
夫婦を演じる綾瀬はるか(右)と大悟(左)。ふたりの距離感も印象に残る ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

ところが冒頭から、〈翔〉をめぐる音々と健介の立場は異なる。音々は当初からヒューマノイドの受け入れに積極的だが、健介は説明会に参加しているさなかも「霊感商法みたい」とつぶやく。息子の帰宅を喜ぶ音々に対し、健介は自動で充電器に腰かける〈翔〉をロボット掃除機のルンバにたとえる。〈翔〉が「パパだよね?」と尋ねると、「わしは君のパパじゃない」と答えた。

両親と、帰ってきた息子

〈翔〉という存在に、音々は亡き息子の姿を見ている。家にやってきた初日、音々は一日中〈翔〉のそばを離れず、ヒューマノイドゆえに食事ができない“息子”に合わせ、自分も食事をしないと宣言する。生活ごとヒューマノイドに合わせようとする様子は、自らを生者の時間から引きはがそうとしているかのようだ。

一方の健介は、〈翔〉は息子ではなく機械にすぎないのだと自分に言い聞かせる。ところが、生前の息子の記憶をもち、同じように江ノ電の駅名を暗唱する姿に、思わず笑みがこぼれ、心が揺れる。

息子の死に大きな後悔を抱く健介(左)。大悟の朴訥(ぼくとつ)とした演技が映画を牽引する ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
息子の死に大きな後悔を抱く健介(左)。大悟の朴訥(ぼくとつ)とした演技が映画を牽引する ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

是枝がこの夫婦を通して描くのは、「死者を再現したヒューマノイドを受け入れるか、あるいは拒むか」という対立ではない。息子を失ったという事実の受け入れ方、そして亡き息子の弔い方の違いだ。

健介が〈翔〉を受け入れられないのは、現実の息子がもう戻らないという事実を守ろうとしているからでもある。なぜ息子は死んだのか、何が原因だったのか、誰が悪かったのか──父親として、今もその理由を追い求めている。かたや、音々が受け入れられないのは息子の不在そのものだ。だからこそ、彼女は〈翔〉とともに失われた時間を取り戻そうとしている。

〈翔〉の登場によって、夫婦の関係も少しずつ変わっていく ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
〈翔〉の登場によって、夫婦の関係も少しずつ変わっていく ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

デビュー作『幻の光』(1995)以来、是枝は「喪失との対峙(たいじ)」をしばしば作品の主題としてきた。『ワンダフルライフ』(98)や『歩いても 歩いても』(2008)、『海街diary』(15)などで、死者の不在が残された人々に与える影響を描いてきたのだ。本作もまた、その系譜に位置する一本である。

『星の王子さま』と「箱の中の羊」

タイトルの『箱の中の羊』は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900-1944)の小説『星の王子さま』からの引用だ。小説の語り手である「ぼく」の前に突然現れた「王子さま」と、語り手が描いた絵「箱の中の羊」──ヒューマノイドの〈翔〉には、この両方のイメージが重ねられている。

音々は〈翔〉に『星の王子さま』を読んで聞かせる ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
音々は〈翔〉に『星の王子さま』を読んで聞かせる ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

『星の王子さま』の作中で、語り手は王子さまから「羊の絵を描いてほしい」と頼まれる。ところが、いくつか描いても気に入らない王子さまに、語り手は箱の絵を描くと「君の欲しがっている羊はこの中にいる」と説明した。すると王子さまは喜ぶ。羊の姿は見えないが、王子さまはそこに自らの望んだ羊を見たのである。

確かな実体をもつ〈翔〉もまた、その中身を誰にも確定することができない。彼はヒューマノイドであり、死者の面影をまとった幽霊のようであり、両親の願望を具現化した存在であり、同時に、この世界を初めて知っていく“子ども”だ。工務店で職人から木切れを渡され、建築に興味を抱き、木々や自然と接するなかで、彼は亡き翔の記憶からも逸脱していく。

〈翔〉が出会うヒューマノイドたちは後半のキーパーソンだ ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
〈翔〉が出会うヒューマノイドたちは後半のキーパーソンだ ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

すなわち〈翔〉は、現実のAIやロボットとして説明されるべき存在というよりも、観る者がさまざまなイメージを重ね合わせ、投影する“空洞”のような存在だ。時代設定が「遠くない未来」とされ、AIやドローン宅配を除けば現在の日本とほとんど同じように見えることも、“空洞としてのAI”を成立させるための曖昧さだと言える。

空洞から浮かび上がる問い

“空洞としてのAI”を通して、是枝はさまざまな思索を試みている。ヒューマノイドとして帰ってきた息子は本物か、それとも偽物か。その言動や様子が、記憶の中の息子からずれてしまってもなお、彼を受け入れることができるか。

帰ってきた死者が、ひとつの新しい存在として世界を新しく学びはじめたらどうなるか。死者をよみがえらせることのできる世界で、人は喪失を受け入れることができるか。代替物としてのヒューマノイドを利用して、人間が経験できる追悼のプロセスとはなにか……。

AIに生死の概念は理解できるか? ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
AIに生死の概念は理解できるか? ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

さらに是枝は、建築や自然というモチーフを通して、人間の命よりもはるかに長い時間を映画に織り込んでいる。建築家や職人の仕事は、本人たちの死後も残りうるものだ。深く根を張った森の木々は、きっと今を生きる私たちが死んだあとにも残り続ける。

息子の時間は止まったが、残された人々の時間は続く。そして生命を持たない〈翔〉は、人間の命をも超えて続いていくであろう、悠久の時間にふれる。この映画の中には、いくつもの時間が重なっているのだ。

映画の中で、こうした問いがひとつに収束することはない。〈翔〉という空洞を見つめる時間を通してさまざまな問いが浮かび上がる、その思索の広がりこそが本作の豊かさだ。

音々の母(余貴美子・左)と妹(清野菜名・中央)。母との関係は音々に暗い影を落としている ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
音々の母(余貴美子・左)と妹(清野菜名・中央)。母との関係は音々に暗い影を落としている ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

AIが切実な社会問題となった今、AIを扱った映画には、現実的な倫理や制度、技術への応答が求められるようになった。けれども映画は、現実のモチーフを現実的に扱うだけのものではなく、必ずしも現実的な答えを出さなければならないものでもないだろう。むしろ、現実を変形してみせることで人間の心を照らし、思考を刺激することも芸術や物語の役割ではないか。

『箱の中の羊』におけるAIとヒューマノイドは、「死者に帰ってきてほしい」という不可能な願いに与えられた、現代的なファンタジーのかたちだ。その豊かな空洞を通して、本作は死者のいない世界を生きることの痛みと、行き場を失った愛情の危うさを、優しい寓話として描き出している。

©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
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©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

作品情報

出演:
綾瀬 はるか 大悟(千鳥)
桒木 里夢 清野 菜名 寛一郎
柊木 陽太 角田 晃広 野呂 佳代 星野 真里 中島 歩
余 貴美子 田中 泯
監督・脚本・編集:是枝 裕和
音楽:坂東 祐大
製作: フジテレビジョン ギャガ 東宝  AOI Pro.
制作プロダクション:AOI Pro.
配給:東宝 ギャガ
製作年:2026年
製作国:日本
上映時間:126分
公式サイト:gaga.ne.jp/hakononakanohitsuji
5月29日(金)全国ロードショー

予告編

バナー写真:映画『箱の中の羊』 ©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.

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