
乙武洋匡さん
大学生の頃、のちに600万部を超えるベストセラー『五体不満足』を刊行した乙武洋匡さん。その乙武さんが、一人の少年の“告白”に胸を痛めたという。
少年は、『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』(新潮社)の著者・朝野幸一さん。「見えない障害」と言われる書き障害をもち、小学生の頃から酷い劣等感に苛まれた経験や当事者の抱える困難を、同書のなかで克明に記している。
「見えない障害」の当事者が教育現場で「努力が足りない」と言われ苦しむ現状に、乙武さんが思うことは――。
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「見える障害」の乙武洋匡が知った、「見えない障害」の難しさ
『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』を読みながら、私は何度も『五体不満足』を書いた当時のことを思い出していた。生まれつき手足がない自分の人生を、できるだけ明るく、できるだけ等身大に伝えたい。障害者は「かわいそうな存在」ではない。そんなことを、私はあの本で伝えようとした。
だが同時に、この本を読み進めるうち、少し居心地の悪さも覚えた。生まれつき障害者として生きてきた私でさえ、この著者が抱えてきた「見えにくい困難」を、どこまで想像できていただろうか。そんな問いを突きつけられたからだ。
私の障害は、「見える」。階段の前にいれば、周囲に困っていることが伝わる。着替えなど日常生活に介助が必要なことも説明はいらない。もちろん、見える障害には見える障害のつらさがある。好奇の目もある。過剰な同情もある。できないことを勝手に決めつけられる煩わしさもある。
けれども、本書の著者が向き合ってきた障害は、私が抱えてきた困難とはまた別のものだ。書き障害、いわゆるディスグラフィアは、「見えにくい」障害なのだ。
読むことはできる。考えることもできる。ところが、字を書く、漢字を思い出して紙に再現する、板書を写すという場面になると、世界は突然、険しい山道に変わる。周囲から見れば、「もう少し丁寧に書けばいい」「練習が足りない」「やる気がない」と見えてしまうかもしれない。しかし本人の内側では、文字の形を探し、音と意味をつなぎ、手の動きに変換し、間違えないように制御するという、とてつもなく複雑な作業が起きている。多くの人にとっては自動化されている処理を、著者は一文字ごとに手動で組み立て直さなければならない。
「ここまで豊かな言葉を持っている少年が…」学校で強いられた“報われない努力”
本書の魅力のひとつは、その「内側で起きていること」が驚くほど精密に、しかも読ませる文章で描かれている点にある。漢字一文字を書こうとするだけで、頭の中でどれほどの迷路が生まれるのか。黒板の文章を写すだけで、どれほどの時間と体力が奪われるのか。多くの人にとっては「ただ書く」というだけの行為が、著者にとってはとてつもなく煩雑な作業なのだ。そうした事情を知らない周囲の「字が汚い」「遅い」「覚えない」といった言葉が、どれほど彼の自己肯定感を削ってきたことか。
それでも、彼の文章は決して暗く沈み込むことがない。むしろ、随所でクスッと笑わされる。自分の脳内で起きている混乱を、コンピューターにたとえたり、マニュアル車にたとえたり、漢字が書けない過程をまるで漫才のように描いたり。深刻な困難を扱っているのに、読者を重苦しさで押しつぶさない。これは、著者の強さであり、巧さでもある。彼は「字を書く」ことはできないが、「文を書く」ことはできる。むしろ、言葉への感度は高く、文章には知性とユーモアがあふれている。
だからこそ、胸が痛む。ここまで豊かな言葉を持っている少年が、学校では長いあいだ、「書けない子」として苦しんできた。漢字を覚えようとし、カードを作り、語呂合わせを考え、母親とともに膨大な時間を費やす。それでも、昨日覚えたはずの字が、今日には消えてしまう。努力していないのではない。努力しても報われない方法を、延々と強いられていたのだ。


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