多額の横領に愛はなく…

 いわゆる「アニータ事件」。93年から01年にかけ、青森県住宅供給公社の職員・千田郁司が青森市内のスナックで出会ったチリ人女性アニータ・アルバラードに入れあげ、彼女に貢ぐために総額14億円もの横領をはたらいたという事件である。この本はその横領犯について、犯行とその後の足取りを追ったもの。

 当時、世間はその途方もない額に驚き、大いに騒がれたものだった。

 私は数年前から避暑と称して夏は青森市に住んでいるのだが、ふとあるとき、青森市といえばアニータ事件の舞台だったなあ、と思い出した。地元の人に聞いてみれば、最初に通ったスナックはあそこにあったとか、事件の男はこんな人だったらしいとか、いろいろな噂が出てくる。やはりこの街に長く住む人はみんな覚えている事件なのだ。

 横領には夢がある……なんていったら不謹慎だと叱られるだろうが、しがない一銀行員、会社員がこっそりと何億もの金に手をつけた、という事件にはどうしても下世話に惹かれてしまうものがある。つい数年前も、三菱UFJ銀行の女性行員が顧客の貸金庫から4億円弱にも及ぶ窃盗をしていたことが世間を賑わせたし、宮沢りえ主演で映画化された「紙の月」にも私はすごく心動かされてしまった(大学生に入れあげ、勤め先の銀行から横領を繰り返す女性が主人公である)。

 ただ、田舎で一途にアニータを愛するあまり犯罪に手を染めた哀れな冴えない男、という事前のイメージは、本書を読めば崩れる。千田は比較的裕福な家庭に育っていて、学生時代にはスコットランドへの留学経験もある。何しろ、夜の街での遊興が原因で、アニータに出会う前から横領をしている。いよいよ逮捕が近づくと、アニータ以外の人にまでそこそこの額を貢ぐ(というか、気まぐれにあげている)始末で、なぜアニータだけこれだけの巨額になったかと言えば、おそらく、単にアニータが果てしなく送金を求めたからである。読む限り、「愛」みたいなことではない。

 一応、千田はチリに行った際にかの国の貧富の差を見てショックを受け、「貧しい子供たちのために病院を建てたい」と夢を語ったアニータに共感して送金を続けた、というような一面も語られる。彼はいまだに「自分が悪いことをしているのはわかっていたけど、チリで病院や協会という形で残ると思っていたからね」なんて殊勝なことを言っていて、彼女の思いを純粋に信じていたようにも見えるが、長く付き合う間にアニータの言う高尚な目的がウソであることなんて分かりそうなものである。結局彼がどこまで本音を語っているのか分からないし、巨額横領に及ぶ心理とは一体なんなのか、読めば読むほど謎だった。

 横領した金だとは知らなかったと言い張って、もらったお金で母国に豪邸や病院を建てつつ別の男と付き合っていたたくましい女と、単に金づるにされていることを半ば分かっていただろうに言われるがままに何億と横領して送金した男。どっちも異常なのだが、理解できないという意味では実は後者の方に惹かれるかもしれない。

(坂本 泰紀 著、柏書房 刊、税込1870円)

選者:文筆家 能町 みね子

労働新聞

令和8年4月20日第3541号7面 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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