森七菜さん主演の映画『炎上』が、公開から連日満席で話題だ。歌舞伎町・トー横に集う若者を描いた本作で監督・脚本を務めるのは、サラリーマンでありながらサンダンス映画祭で日本人初のグランプリを受賞した長久允氏。その思考法を存分に伝える『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』から、抜粋・再構成し、作品づくりの根幹に迫る。(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)


脚本の教室Photo: diamondforce/Adobe Stock



消費される事件に抱いた違和感

 サラリーマンとして働くなかで、一度でいいから、「自分が本当に良いと思うかどうかのみを考えた映画」を作りたい。


 そう思って作ったのが、9年前、埼玉県狭山市で起きたある事件を題材にした映画でした。報道を見て、心にこびりついていたことがあったのです。事件の詳細はこちら。


2012年のある夏の日のこと、町の七夕祭りの翌朝に、中学校のプールに400匹の金魚が泳いでいるのが発見された。その後の捜査で、犯人は15歳の女子中学生4人であることが判明。彼女たちは「一緒に泳いだら、キレイだろうなと思って」と供述した。


 当時この事件は Yahoo! ニュースで取り上げられ、「エモい」という言葉はまだない時代ですが、その状況や供述の「エモさ」から Twitter で拡散されていました。


 私もその青春の刹那的情景に強く心惹かれたひとりではありましたが、一方、あまりに消費的拡散をされるSNSにどこか違和感を持ってもいました。


 ――狭山市プールに金魚。犯人は15歳。キレイだろうなと思って。


 そう書かれて拡散されるヤフトピの1行には「本当のこと」はないのではないか。

 彼女たちにはもっといろいろな事情があったかもしれない。

 いろいろなことを考えていたかもしれない。

 感じていたかもしれない。


 でもそれは「言葉」に変換不能なフィールドの事象なのではないか。そう思いました。


 彼女たちの供述は、本当なのだろうか? 警察官に適当に、挑発的に、投げやりに、言ったひとことが拡散されてしまっただけで、全部嘘かもしれない。


 あるいは、本人たちにとっても「どうして金魚をプールに入れたのか」なんて目的や動機を設定していない衝動的なものだったかもしれない。でもやはり、一周回って、その供述は真実かもしれない。


 私はぐるぐるとそのことばかり考えていました。



「違和感」を作品にしてグランプリ受賞

 私は現地を取材し、脚本を書き、10日間の有給休暇を申請し、32歳にして『そうして私たちはプールに金魚を、』という映画を撮ることにしました。


 それがまさか、サンダンス映画祭でグランプリを受賞したのです。


 心に残っているのはユタ州の地元の街で暮らす80歳くらいの女性の言葉です。

 彼女は言いました。


「これは私の物語だ」


 私は、都会から中途半端な距離にあるこの街で生まれ、都会に出ることはなく、でも不便なく、しかし衝動を抑えて生きていた。これは私の物語だ。作ってくれてありがとう。


 私の人生の物語を、映画に残してくれてありがとう。そう彼女は言いました。


 もちろん、私はそんなつもりはありませんでした。埼玉県の狭山市の物語を作ったのですから。


 私はユタ州のことをイメージなんて1ミリもせずに、真夏の狭山市のディテールを描き込んでいました。しかし、そこに映し出された登場人物の心は、ユタ州の雪山の中にある街とつながっていた。


 衝撃的でした。


 年齢も、人種も、国境も、飛び越えて、人間の心は共鳴することがある。


 だから、グローバルなんかあざとく狙わずに、しっかりと全力で自分の文化圏の中で描写をしていいのだ、ということを実感しました。



だから、本当のことしか書かない

 そのようにして映画監督としてのキャリアがスタートしたので、私の脚本は、すべて私が思っていることで構成されています。


 自分が責任を持ってしゃべれる内容を俳優に発してもらっているという状態です。


 大人に対して、絶望に対して、お金に対して、性に対して、社会に対して、生きるということに対して、私が思っている本当のことしか書いていません。そこにカッコつけや、誤魔化しがあると、バレてしまう、と感じています。


 先日、私の映画を観た友人から、こんな感想を言われました。

「お前がずっと2時間しゃべり続けてるようで、恥ずかしくて観てられなかった」

 そりゃそうなのです。私が本当に思っていることしか書いていないので。


 私は開き直っています。それでいいと思っています。自分の映画における倫理観の総責任は、脚本家である自分が取るべきだと思うからです。


 あなたの映画の仕上がりの良し悪しを、誰かのせいにしてはなりません。



冷笑は無視でいい

 そういう意味で、「脚本を書く行為」は、本当に「恥ずかしい」ものです。


 自分の人生観や倫理観や哲学が露呈します。告白する方法から、人を裏切った経験まで、すべて丸裸になるということです。


 まともな人間のやることじゃない。と思う反面、だとしても、そんなこと気にせず、みんなやったほうがいいとも思うのです。


 みんな恥ずかしければ、恥ずかしいという概念がなくなるわけですから。


 というか、恥ずかしさなんて忘れたほうがいいと思います。麻痺させたほうがいいと私は考えます。


「恥」はありのままの自分を隠す行為です。他者からのジャッジに怯える心です。


「恥ずかしい」と考えて、斜に構えて、踊りたいのに歌いたいのに描きたいのに、踊らずに歌わずに描かずにいた時間は無駄だったと今ならわかります。


 誰かの冷笑は無視をしましょう。そいつはセンスがない、ただの意地悪です。


 やりたいことをやるべきなのです。「恥」は捨てる。丸裸になったらいいのです。

 笑う奴が間違ってる。

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