だから会社にも浜松にも染まらなかった…「世界の鈴木修」が晩年、故郷に建てた石碑にびっしり書いたこと

忘れなかった感謝の思い「下呂の皆様に幸あれ」

永井 隆

永井 隆

ジャーナリスト

昨年末、94歳でこの世を去ったスズキの鈴木修元相談役は、40年以上にわたって世界的なカリスマ経営者であり続けた。その礎となっていたのは、生まれ故郷である岐阜県・下呂への強い思いだった――。

※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

なぜ故郷を飛び出したのか

「修さんは下呂出身である自分のアイデンティティーを、最後まで貫いた」と、秋田スズキ会長の石黒寿佐夫は指摘した。

やはり、下呂には向かわなければならない。鈴木修のアイデンティティーの原点を探るためにだ。

さらに、アイデンティティーとも関連するのだろうが、筆者には素朴な疑問が一つあった。師範学校で正規の教員免許を取得した後、鈴木修はなぜ故郷の下呂を飛び出して東京に出たのか。

空襲で焼き尽くされた東京はまだ、混乱と混沌の中にあったのに。

地元で教師になるという、どちらかといえば安全で地元のためになる選択を、どうしてしなかったのだろう。

鈴木(松田)修の生家跡

写真=著者提供

鈴木(松田)修の生家跡

2025年3月下旬の木曜日、筆者は編集者とともに下呂を訪れた。岐阜市でレンタカー(ワゴンタイプの軽自動車)を手配し、山道をひたすら走らせて辿り着く。初夏のような暑い日だったせいなのか、あるいは大学が春休みのせいなのか、深い山に抱かれた温泉の街には、多くの若者が闊歩していた。若いカップルも目立つ。

ガソリンスタンドにいた50代に見える地元の方に話を聞くと、「どうやらSNSにより若者が来るようになったようだ」。「ただし、下呂のホテルや旅館の宿泊費は高く、“特急ひだ”を利用して日帰りで帰る若者たちがほとんど。外国人旅行者は、泊まってくれる」とのことだった。

小学校でも知られた俊英

人伝てにアポイントを取っていた、野中一則・野中グループ会長に会う。野中は下呂市の名士であり、野中グループはタクシーや自動車販売、保険、ガソリンスタンドなどの事業を展開する。鈴木修とは何度もゴルフを楽しむ関係だった、という。スズキは副代理店大会を下呂温泉のホテルで頻繁に行ったが、そのときには野中は鈴木修と杯を交わし一緒に温泉に入り、地元からスズキに入社を希望する若者を鈴木修に紹介することもあったそうだ。

野中は、1934年10月18日生まれ。鈴木修よりも学年で5年下。このとき、御年90歳。父親から譲り受けた運送事業を発展させてきたという自負を持ち、下呂を心から愛している。矍鑠かくしゃくいう言葉の似合う老人だ。

「私が通った小学校には、5つ上の学年に三人の俊英がいました。その一人が修さんだった。母親から、『しっかり勉強すれば、松田修さんのようになれる』と言われたのを覚えています。80年以上も前ですから、修さんと直接やり取りした記憶は、もうありません。ただし、修さんは勉強だけのガリ勉ではなく、運動もできた先輩、という印象は残っている」「松田家には、兄弟が四人いて修さんは四番目。5学年下の私と同じ学年に妹さんがいて、地元の下呂に嫁いでます」「家は普通の農家。豪農ではない。山間の田畑で米や野菜を作っていました」

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