黒人が白人に見られる時の視線からして圧があり、その圧に応じて黒人は自ら調整した言動をとるようになるが、それは自ら枷をはめ檻に入るようなもので、その圧から解放された時、本来の「自由」を享受できる(こうした黒人の生き方を知るには、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーによる『フライデー・ブラック』が最適だ)。
同じように考えれば、女性が男性に見られる時の視線からして圧があり、その圧に応じて女性は自ら調整して言動をとるようになるが、それは自ら枷をはめ檻に入るようなもので、その圧から解放された時、本来の「自由」を享受できる、というわけだ。
問題は、自らはめた枷や、自ら入った檻から抜け出すには、その事実に自ら直面しなくてはならないことにある。そのために、あらかじめ露払いとして、見せかけの問題を一通り潰しておかなければならない。
厄介なことに、女性問題の場合は、黒人問題の場合と違って、最終的に男女で住む場所を分ければいい、というような雑な対応は難しい。それ故、常に男性からの非対称な視線を受け続けなければならない、という思い込み(自己暗示)から抜け出すことができない、と思いこむのが常態化しがちになる。
エリザベスが演じる女優は、自らの美、造形を売って生計を立てているから、なおのことそうだ。商業的美の再生産システムの中にどっぷり浸かることで生きている。自ら鳥籠の中に入り、その中で輝く側として一時でも勝利したのだから、そのシステムに執着しても仕方がない。その分、業も深くなる。
デミ・ムーアというメタイメージの影響
今見てきたように、『サブスタンス』という映画は複雑で難しい。もちろん、ボディ・ホラーとして素直に楽しむこともできる。特に終盤のモンスター編以後の展開を見るとそのほうがいいのかもしれない。笑いを誘うスプラッターな演出が続くから。
クローネンバーグ的なグロさのある画面で、タランティーノ風の大仰な立ち回りがなされる、マンガ的なデフォルメに躊躇のない映画。
ただ、そのB級エンタメの見た目の下には、MeToo映画の姿が横たわり、さらにそれを前提にしながらそのもう一段下には、ジョーダン・ピールのようなソーシャル・ホラーとしてのエンタメに変貌させようとする意図が潜んでいる。
ここで少し気になるのが、この最後の野心は、監督のコラリー・ファルジャが狙っていたものだと思うのだが、この狙いを達成するうえで、デミ・ムーアを主演に据えたことは、プラスだけでなくマイナスもあったような気がすることだ。
©2024 UNIVERSAL STUDIOS
それは、デミ・ムーアという存在が、作中のエリザベスと、女優として被るように思えるところがあるからだ。それは映画が始まって早々、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムを真上から撮るシーンから入ったところからしてそうだ。90年代にデミ・ムーアが活躍したことを知る人たちからすれば、エリザベスのあり方は、そのままデミ・ムーアのその人の女優としての歴史を思い出させる。キャスティングとしてあまりにも「メタ」なのだ。