絵にかいたようなロード・ムーヴィー。
やっていることも、ひたすら、
無軌道で、犯罪ぶくみで、あてずっぽう。
ほんとに、いかにもロード・ムーヴィー。
これが大人二人の逃避行なら、
組み合わせが男×女でも、女×女でも、
みんなまったく気にせずに観るんだろうが、
なんでか「母と子」だとひっかかるみたい(笑)。
結構手厳しい評が並んでいて、
それはまあそうなのかなあ、
いたしかたないのかなあ、と。
なにせ、なんだかしたり顔で、
いままで育児放棄してた母親が、
子供誘拐して、連れまわして、
挙句、犯罪教唆しまくるんだから。
まじめにきちんと生きてた子供を、
わざわざ悪の道に染めようとするとか、
マジでなにしてくれてんのって感じですよね(笑)。
とはいえ。
僕は個人的には、意外と楽しめた。
少なくとも、母親のカリーナは、
娘のルーのことを愛していてるし、
娘のルーも母親のカリーナを愛している。
そこのところは、揺るがないから。
カリーナには、悪意がない。
あるのは無鉄砲さと、野放図さと、
遵法性の欠如だ。
情緒不安定で、虚言癖があり、
頭の回る部分(映画の分析とか)と
回らない部分(行動の結果とか)がある。
ただ、1時間30分付き合ってみて、
そんなに悪いやつではないように思う。
娘は、とてもまともでチャーミングな子だ。
いい児童施設で育ったからだろう。
常識をわきまえ、善悪の区別がつき、
羽目をはずす母親に「付き合い」ながらも、
どこか醒めた視点で自分たちの逃避行を
とらえている。
あとは、たぶんなら、
「観る側」の心持ちひとつなのだ。
これを、バカな母親が、娘を巻き込んで、
犯罪まみれの「ごっこ遊び」に
つき合わせているだけの「ひどい話」
だと思ったら単にムカつくだけだ。
だが、ルーの視点から見ればどうか。
たとえ、自分を捨てていった母親でも、
やっぱり母親のことは大好きだ。
久しぶりにあった母親は、相変わらず、
頭がおかしくて、めちゃくちゃ。
いってることも、やってることも
どう考えても、とちくるっている。
でも、お母さんのことはやっぱり好き。
ママも自分のことが好きだと知ってる。
どうしよう。ついていこうか。
どこまで相手してあげようか。
実際、カリーナといるのはすごく楽しいし、
やっちゃいけないことをやるのは、
痛快だし、解放感があるし、すっとする。
さあ、どうしようか。
一方、カリーナの視点というのもある。
カリーナだって、好きでこうなのではない。
彼女はもともと「まあまあ頭がヘン」なのだ。
最初から、母親に猛烈に向いていないのだ。
衝動的で、不安定で、破壊的で、無計画。
そんなカリーナが唯一、思いついた、
「母親としてふるまえるかもしれない」
虚構の世界、それが、ボニー&クライドであり、
テルマ&ルイーズの「映画」のごっこ遊びなのだ。
彼女は入念に「物語」と「設定」を用意して、
満を持して娘のところに乗り込んでくる。
自分はボニー。娘はクライド。
その「ごっこ遊び」のなかでのみ、彼女は、
ぎりぎりのところで「母親を演じられる」。
成長しきれない、クソガキのまんまの母親。
社会からもはみ出して相手にされない母親。
でも、「アウトローの逃避行」という物語性の
枠組みのなかでだけ、なんとか「母」でいられる。
これは、ちょっと大人びた少女と、
子供のまんま大人になった母親が、
今更のように「親子」であるために、
必死で相手との間合いをはかり続ける、
そんな、探り合いと触れ合いの物語だ。
― ― ― ―
パンフで、解説の三宅香帆氏が面白いことを言っている。
「だがその旅路は、結局、ルーの負担のうえにしか成り立たない。これもまた事実である。本来であれば子供として保護者からケアされるべきなのに、作中もはやルーはカリーナの母親のように振る舞う。ルーがカリーナの遊びに付き合ってあげているようにも見えてくる。母が「母」を放棄した時、娘は母の「母」になってしまう――そのような構造がふたりの関係をさらに歪なものにしている。ふたりの幸福なロードムービーの裏側には、ルーの痛々しい努力が存在する。」
まさに、言いえて妙。
この映画において、
母と娘のあるべき関係性は逆転していて、
まるで娘が母のように母を「あやしている」。
そして、これは重要なことだが、
カリーナも、そのことに内心気づいている。
自分の考えたごっこ遊びが、早晩行き詰まり、
破綻することにも、気づいている。
だからこその、あのエンディングなのだ。
その意味では、
カリーナは自分のことがわかっているし、
ルーも母親のことがよくわかっている。
「こわれた母親」「毒親」に子が付き合うとなると、
どうしても辛気臭い話にならざるを得ない部分がある。
万引き家族とか。湊かなえとか。
でも『キドー』はあくまで「陽性」だ。
そこがいい。
なんとかして、頭のおかしい母親が、
はみ出し者で厄介者の自分でも母親でいられる
方法を必死に考え、それを理解した娘が、
必死でそれに合わせようとする。
そんな涙ぐましいけど微笑ましいやりとりが、
「あくまで前向きに」繰り広げられるから、
「こわれた母とまともな娘」の交情の物語としては、
後味はけっして悪くない。
まあ、軽犯罪まみれではあるんだけどね。
なので、僕はそこそこ、このお話を楽しめた。
スチールで見ただけだとルーちゃん、
もっとおへちゃかと思ったら、
意外と可愛かったし(笑)。
母親が蛇を捨てさせないところも、
果たせもしないのに指切りにこだわるところも、
娘を支配せず対等に話そうとするところも、
悪くなかった。
何より、映像感覚として「子供の視点」に
常に寄り添っているのが、とても良かった。
カメラ位置はおおむね低く、
細部にこだわって興味を集中しがちで、
ふっと気がまぎれると、ポップな想像の断片が、
現実に紛れ込んでくる。
この気まぐれな感じ、ぼんやりした感じ、
空想と現実がまぜこぜでぼーっとしてる感じ。
これはまさに、ルーの目を通してみた、
「子供」の認識する世界のありようだ。
そして、それは同時に、
「子供のまま」生きるカリーナの世界認識でもある。
― ― ― ―
パンフに掲載されている、ザラ・ドヴィンガー監督のインタビューを読んでいて、はたと気づいたことがある。
この人、「好きな監督は誰か」と訊ねられて、「その時々によって変わりますが、リン・ラムジーやショーン・ベイカー、ポール・トーマス・アンダーソン、ポン・ジュノは好きです」と答えているんだよね。
ああ、なるほどショーン・ベイカーか。
このあいだ観た『アノーラ』の。
たしかに、よく似てるわ。芸風が。
社会の枠組みの外で生きるアウトサイダーを、ことさら主人公として取り上げる点。
それを、コメディタッチで、辛気臭くならないように描こうとする点。
無軌道でめちゃくちゃな生き方を、必ずしも否定的にとらえず、むしろ温かい目線でとらえている点。
おかしいこと、間違ってること、落ちこぼれてること、社会から逸脱していることを、決して断罪しないで許容している点。
そうか、これは「母と娘」を描いた、
ショーン・ベイカー、女性監督&オランダ版なのね。
と思うと、おおいに腑に落ちた次第。
で、ふとパンフの最初のページを見ると、
「ユーモラスで、感動的。子どものような好奇心と大人のリアリティに満ちた見事なデビュー作!」という最初の賛辞を寄せているのが、ほかならぬショーン・ベイカーなのだ。
まるで、気づいていなかった。
そうか、映画宣伝会社もそのへんはよくわかってるんだな。
で、そこからさらにパラパラめくると、読むのを飛ばしてた常川拓也氏のコラムで、まさにショーン・ベイカーのことがきっちり書いてある(笑)。おお、なるほど!!
実際、インタビューで監督は次のように語っている。
「女性だってバカみたいなことをするし、間違いも起こすし、精神に問題を抱えていることもある。だからといって、その人が人間としてダメなわけではない、ということを私の映画では描きたいと思っているのです。」
うん、そこはちゃんと伝わりましたよ!
― ― ― ―
以下、気づいたことなどを列挙しておく。
●冒頭の、ルーがカリーナの到着を待ちながらすっぽかされるシークエンスは、「リュックサック」の背負い方や置き場所で、ルーの逸る気持ちや焦り、退屈、諦め、時間経過などがつぶさに表現されていて、ああ優秀な監督さんなんだなと思わされた。
●空想シーンが挿入されるときは、スタンダードサイズの画面が用いられる。アニメ、映画のキャラのアイコン、書き文字など、とても映画的な仕掛けに富んでいて楽しい。
●最初、どこの映画がわからずに観ていて、「このドイツ語っぽいけどよくわからない言語はなんだろう?」と思って聞いていたら、オランダが舞台だった。
でも、「ハリウッドでスーパースターだった」という触れ込みのカリーナだけは、しきりに「英語」を使う。オランダ語で話してはいるけど、ちゃんぽんのように英語のフレーズがまじる。着ているTシャツの胸には「USA」の文字。
ふたりが旅をしているのはポーランドの田舎だけど、カリーナのなかではあくまでここは「アメリカ」って設定なんだな、大西部の幹線道路とモーテルとダイナーなんだなと(笑)。
●ふたりが様々な形で着用する「かつら」も、本人たちは「逃避行で身バレしないため」といっているけど、本当はこの旅がアメリカン・ニューシネマを実地で体験する「ごっこ遊び」だからなんだよね。役として親子を演じてるから、かつらが要る。
最後は、その役を「降りる」から、かつらを脱ぎ棄てる。そういうことなんだね。
●ふたりがモーテルで観ているのは、ルイス・マイルストン監督の『呪いの血』(1946)。いわゆる典型的なフィルム・ノワールであり、ファム・ファタルを演じるのはバーバラ・スタンウィックだ。旅の行程では「アメリカン・ニュー・シネマ」を模倣しながら、夜の映画鑑賞でアメリカ映画のもう一面(夜の部分)である「フィルム・ノワール」の要素も補填しているわけだ。また、カリーナが「頭のおかしい社会規範から逸脱した女」としてのヒロイン、マーサに自分を重ねている部分もあるのかもしれない。
●なんでこの二人は叢まで行かないで、車から降りたところでわざわざ小便をしているのか?(笑) これも「わくわくするような不法行為」ってことか。
ダイナーでの食い逃げ大作戦は完全な犯罪行為だが、アクションとしてはなかなかに見ごたえがあった。
●ペットの蛇のハンクについては、ずっと観ていて「こいつ何を食っている(食わされている)んだろうってのが気になって仕方なかった。
●あの、母親が大声で「ああああああ!!」と叫び、娘も大声で「ああああああ!!」と叫ぶシーン。まるでそっくりのシーンを、去年観た『胸騒ぎ』(デンマーク映画)でも、『ありふれた教室』(ドイツ映画)でも目にしたが、なにあれ? ヨーロッパ北海沿岸地域ではああいうのが流行ってるのか??(笑) もう叫ばないとくるっちゃうくらい鬱屈がたまってる?
●作中で明確には指摘されないが、カリーナの「精神的に問題を抱えている」部分って具体的には境界性人格障害(ボーダー)って設定なんだろうな。
●別に同時期に観たというだけのことだけど、
『サブスタンス』ではカンヌを「ハリウッド」に見立てて撮っていた。
こちらの映画はポーランドを「アメリカ中西部」に見立てて撮っている。
コラリー・ファルジャはフランスの女性監督で、48歳。『サブスタンス』が2本目。
ザラ・ドヴィンガーはオランダの女性監督で、35歳。これがデビュー作。
『パリ、テキサス』(1984)、『バグダッド・カフェ』(1987)、『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1990)と引き継がれてきた、ヨーロッパにおける「アメリカ幻想」が、こうやって若い女性監督たちの手によって正しく継承されていることに、不思議な感興をおぼえる。
WACOCA: People, Life, Style.