ハイパーポップ/デジコアというムーヴメントを近くで見守ったり、遠目に眺めたりして過ごすうちに、気づけば4、5年ほどの月日が経った。ここ日本でも先日、シーンの渦中で活動するSSW・lilbesh ramko主催の「さようなら、バビフェス。」という、コロナ禍に端を発するハイパー・シーンの躍進を象徴したようなイヴェントが開催され、会場には1300人超のキッズが押しかけるまでに達した。
ただ、昨年にはPitchforkにて「The Lost Promises of Hyperpoptimism(ハイパーポプティミズムの失われた約束)」というコラムも発表されるなど、国内外において「ハイパー」の終焉が叫ばれはじめて久しい。もはや数年前「ハイパーポップ」と呼ばれていた現象は黎明期をとっくにすぎ、新たな揺籃期を迎えたと言えるだろう。
そんなハイパー・ムーヴメントの発展と並走するようにして数年間で成長を遂げた「パンデミック世代」のアーティストは枚挙に暇がないが、その代表的存在として挙げられる人物が、ジェーン・リムーヴァーという2003年生まれのアーティストだ。
彼女(*ジェーンはトランスジェンダーであることをカミングアウトしている)は、パンデミック中にSoundCloudやDiscordを「Dltzk(デリートズィーク)」名義で行き来し、「デジコア」(*ハイパーポップから派生し、トラップ~クラウド・ラップに接近したマイクロ・ジャンル)シーンにおけるアンセムをいくつもリリースしてきた。
同シーンの先駆者として世界中のユースの支持を集めてきたジェーンは、(2010年代のヴェイパーウェイヴ・ムーヴメントがそうであったように)サブ・ネームを複数持ち、なかでも「leroy(リロイ)」(c0ncernとも)という名義で発明した「ダリアコア」(大量のサンプル・ソースとクリッピング極まった音像で構成されたコラージュ的サブ・ジャンル)は賛否両論あれ、「ハイパー」を考える上で避けては通れないエポックメイキングな作品群だった。彼女が発明した往年のヒット・ソングを大量にマッシュアップするというジョークのような手法が、ほかのアーティストに自身なりの解釈である「◯◯core」を次々と発表させ、いまでは新たな音楽ジャンルとして一定の定着まで見せてしまっているのだから。
そんなジェーンの新作『Revengeseekerz』は、タイトルを直訳すると「復讐の探求者(たち)」というニュアンスになる。本作に込められた「復讐心」とは、なにに向かうものなのか?
〈PAPER〉が実施したインタヴューで、ジェーンは本作を「盲目的な怒り」のアルバムであると述べ、かつてのクィア・ポップスター、ジョージ・マイケル(ワム!)の名を挙げつつ深いリスペクトを捧げている。そもそもハイパーポップというムーヴメントの根底には閉塞感を打破しようとする衝動だけでなく、日陰の存在と扱われたクィアが胸を張って生きるための音楽である、という精神性も含まれている。アメリカを中心に多様性が再び否定されゆく時代に陥ったいま、『Revengeseekerz』はそうした圧力に抵抗するためのレベル・ミュージックである、と読み替えられなくもない。
アルバムを通して聴いていくと、3曲目の “Star people” では中盤2分半あたりで突然スロー・ダウンし、生のベースとギターにトラップのハイハットが混じり合った、インディ・ロックとトラップのキメラのような展開に移行する。ジェーンの固有性はこういったアプローチに宿っている。
「デジコア」というマイクロ・ジャンルは、ヒップホップに直結させるより、その手法を換骨奪胎した上でメロコアやエモのようになっていった、「オートチューンの効いた新しいインディ・ロック」とでも解釈するほうが正しい、というのが持論だ。そう見ると、デジコア・シーンではそれが当然の流れのように、数多くのアーティストがギター・ロック的な要素を自作に取り入れていった。
ただ、ハイパーポップから枝分かれしたデジコアはその性質上、インディ/オルタナティヴ・ロックの意匠を参照しつつも、結果的にはトラップやEDMの持つ引力に引っ張られていることが珍しくない。そんななか、ジェーンはインディ・ロックに漸近していくようなアプローチをここ数年続けており、見事に新しい折衷感覚を提示してみせた。これは明確に彼女のメロディラインや編曲のセンスが開花した結果といえるだろう(ジェーンはインディ・ロックに真正面から挑戦する「venturing」という架空のバンド・プロジェクトも手掛けており、アルバム『Ghostholding』を本作と同時制作していた。彼女の多面性はこうしたアプローチにも感じられる)。
後半にかけての展開は本作の白眉だろう。デジコア世代の新たなクラブ・バンガーである “Dancing with your eyes closed” やシューゲイザー的解釈のバッドトリップ・ソングの “Dark night castle” も素晴らしいけれど、とくにラスト・ナンバーの “JRJRJR” はインディ・ロックの意匠とデジコアの方法論を折衷しつつ、まったく新たなものとして提示して見せた出色の出来といえる。
リリックで「I might ball out on a new face, change my name, then my city(新しい顔を見つけて、名を変えて、住む街を変える)」とも言っているように、ヴェイパーウェイヴの始祖のひとり・ヴェクトロイドのスタイルに影響を受けた彼女は、かつてたくさんの顔を持っていた。「So should I change my name again?(また名を変えるべきかな?)」と不安げにこぼしたそばから「JR, JR, JR」と自身の名を何度も叫ぶ。匿名性を破棄して、ジェーン・リムーヴァーとして前に進むという決意表明のようにも伝わってくるメッセージだ。それもまた、なにかに対する復讐なのだろう。
そういえば、以前ele-king編集長・野田さんに「いまって、フロアでかかると沸くようなアンセムはないの?」と訊かれ、答えに窮したことがある。自分が間近で観測しているクラブ・シーンは一枚岩ではないから、確たるアンセムというのが思いつかなかった。
いまでは、「ポスト・ハイパー」的な場におけるアンセムなら、自信をもって1曲挙げることができる。それは本作に収録された “Dancing with your eyes closed” にほかならない。この曲のMVで描かれたようなフロアが今日も世界中のどこかに現れ、陰のある若者たちを夢中にさせている。
松島広人
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