今回は「伊賀越え」を紹介しましょう!
この伊賀越えも近年の研究の進展によって新たな見解が出されています。
・伊賀越えと言いながら、伊賀をほとんど通っていなかった!?
・服部半蔵の活躍は後世の創作
今回は近年の研究で明らかになってきた伊賀越えの実像に迫りたいと思います。
※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます。
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0:00 オープニング
0:49 本能寺の変までの信長と家康
4:20 伊賀越えの実態
8:00 服部半蔵の活躍は創作
11:50 伊賀越え後の家康
13:11 参考文献のご案内
についてお話しています!
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■関連書籍のご案内
藤田達生「神君伊賀越え再考」
今回の動画の作成にあたり参考にした論文の1つです。以下のリンクからPDF版を見ることができます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aichikenshikenkyu/9/0/9_1/_pdf/-char/ja
渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』(掲載論文 平野明夫「神君伊賀越えの真相」」)
https://amzn.to/3Ka2OaD
平山優『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)
徳川家康と武田勝頼の9年に及ぶ戦いを詳しく解説した新書です。信康事件にもかなりのページを割いており、近年の研究の成果がわかりやすく紹介されています。また、武田勝頼を滅亡に追い込んだ家康の戦略は目から鱗でした。
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■関連動画のご案内
https://youtu.be/Lh4A4ezu3K8
https://youtu.be/v_IFNxzm5sA
■日本史サロンのブログはこちら!
https://nihonshi-salon.com/
■今回の時代のキーワード
#どうする家康 #大河ドラマ #徳川家康 #伊賀越え #服部半蔵 #穴山梅雪 #織田信長 #明智光秀
※使用している背景映像は河原撮影ならびにフリー画像・映像素材・ライセンス取得済みの素材を使用しています。
※日本史サロンは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。
12 Comments
穴山家の名跡を残して自らの
子供に継がせた事素晴らしいです
家臣領民も安心したと思います
半蔵の活躍は盛られていたようで。だから史書の鵜吞みは禁物なのです。
家光公の画像は二代将軍・秀忠公の肖像画ではないでしょうか?
河原さん体調万全になられましたか?暑い季節ですし無理なさいませんように。
ドラマは別として、家康は信長をう
つ気持ちはなかったのですね。
あと、穴山梅雪以外に若かったのですね。
ライブ私は聞いているだけですが、毎回楽しく聞いています🍀
吉宗に仕えた伊賀者:薮田助八は実在の人物だろうか?(仮面ライダーV3の宮内洋さん演)
私の知らない情報満載で、とても勉強になりました。伊賀越えが創作であり、服部半蔵も参加していない、伊賀者の地位向上のために敢えて作られた物語である、家光の頃までは記載されておらず、8代吉宗の頃初見、その理由がこの頃新設された御庭番で伊賀者を多く採用したので、そのイメージアップ戦略であり、半蔵はそのシンボルにうってつけだったなど、面白過ぎて目から鱗が落ちました!!さらに、家康と伊賀者との繋がりを示す資料はないのに対し、甲賀者との関連資料はあるので、実際は甲賀超えだったかも?!とは、歴史は作られた物語を地で行くようで、興味深かったです。忍びのメインジョブが、足軽のような軍事力とスパイ、ゲリラ活動だったという指摘も、忍者イコール壁登り、水潜りの術的な創作を否定する点で、納得です。
お疲れ様です。
お市の方との語らいで信長に対する想いを再認識し、信長を打つこと躊躇った家康、良いシーンだったと思います。
しかし、なんだお前か!金柑頭〜!って、信長殿叫んでましたね。笑っちゃダメと思っても、つい笑ってしまいました。また、光秀の、あんのくそたわけの口に腐った魚を詰めて殺してやる〜!と、麒麟が来るの光秀では、絶対に言わないセリフも笑っちゃいました。今回の本能寺の変、信長と家康の絆には感動しましたが、金柑頭の光秀のせいで笑ってしまうことが多かったです。あっ、家康が信長を殺したと思ってた秀吉、犯人が光秀と聞いた時の顔も面白かったですねー。
伊賀越えというのは、超えて行くのが困難な伊賀を超えて行ったからであって、全ルートのごく1部だから創作だとか言うのは違います。
【誤色のお詫び】
9:31 徳川家光の肖像画として使用していた肖像画ですが、徳川秀忠の肖像画の誤りでした。
完全に勘違いしておりました。お詫びし、訂正させていただいます。
なんで家康と合流する前日なのか、、、タイミングがおかし過ぎる。
新たな文系で、どうする家康にも描かれてるとうり、伊賀者も伊賀越え護衛に入ってますよ?
服部半蔵の遠い親戚の、伊賀の頭領が徳川に人質を渡して忠誠を誓ってるそうです。
そう考えると、伊賀越えは甲賀·伊賀の全面協力で楽勝だたと言う話し。
多分、道のりに護衛を置き、馬で逃げたと思われます。
「長太」は「なご」と読む。「ちょうだ」ではない。現存する鈴鹿の「長太の大楠(なごのおおくす)」で有名。また、一般的には伊賀越えは、柘植→加太→関町→白子(鈴鹿)で、伊賀から伊勢湾に出るための最短ルートを辿ったのではないのだろうか。亀山の関町から現在の鈴鹿市内に入ったのに、そのまま東へ進まず北へ進み白子の港よりも6、7㎞も北方の長太へ行き、そこで伊勢湾に出たというのは大急ぎの逃避行だったのにどういうことなんだろうか。また、伊賀越えをした家康を廻船問屋の角屋七郎次郎が白子から持ち船で伊勢湾を渡して危難を救ったとされているはず。