しながわのチカラ 昭和20年5月24日・25日 空襲の記憶を語り継ぐ

あなたはご存じですか?
昭和20年品川の街が米軍爆撃機の空襲により焼き尽くされたことを・・・

昭和20年5月24日、25日。二日続いた空襲は荏原、五反田、大崎地区に壊滅的な被害を与えました。
「ひとりで歩いて逃げていた時に焼夷弾(しょういだん)がバサッと落ちてきた。よく生きていたと思います。」

また逃げ惑う人々の中に幼い亀井少年の姿もありました。

「子どもの経験としては あぜんとするだけです。ダメージを受け言葉にならない。」

空襲は人々を恐怖に陥れるだけではありません。この惨劇がきっかけで消えた東急池上線の小さな駅もありました。

今回、以前しながわのチカラで紹介した映像を交えながら、街が焦土と化した昭和20年の空襲に焦点を絞ります。

そして戦後75年目の令和2年、悲惨な記憶と正面から向き合い語り継ぎます。
「昭和20年5月24日・25日 空襲の記憶を語り継ぐ」

戦時中空襲に備えて作られたのが防空(ぼうくう)壕(ごう)です。

当時、家の床下に作ることが推奨されましたが(平成6年8月撮影)とても安全とはいえないものでした。
「表にも裏にも作り床下にもひとつ作った。その時は夢中で、助かればいいと思って作った。今考えると上から焼け落ちたら終わりですね。」

島津山の高台にある本立寺。広い敷地の境内には戦時中3本の防空(ぼうくう)壕(ごう)がありました。
そのうちのひとつが、本堂のすぐ裏の昭和19年に作られた巨大な防空(ぼうくう)壕(ごう)です。

「寺が島津山の頂にあるので、傾斜地の側面を入口にして本堂を避けて、幅1.5m高さが2m、600人を収容できる防空(ぼうくう)壕(ごう)が軍の命令により掘られた。」

本立寺誌によると、この防空(ぼうくう)壕(ごう)は兵隊たちが我先にと避難してくるため、住民たちはあまり利用できなかったと記載されています。
そのために、墓地の近くには当時近隣住民が独自に掘った小さな防空(ぼうくう)壕(ごう)が別に2本ありました。

昭和20年5月24日、本立寺は空襲を受けました。

「4000坪の敷地の中に150数本の焼夷弾が落とされて、すべての建物が全焼しました。」

本立寺には、戦後50年目、平成7年に掘り出された焼夷弾(しょういだん)の残骸が保存されています。

「(焼夷弾(しょういだん)を目の前にした時の感想は)一気に時間が戦前に戻ったような錯覚を覚えた戦争の末期的状況が東京にあった。本当に悲惨であったと思う。」

昭和20年当時の品川区と荏原区において最大の空襲の被害は、昭和20年5月24日・25日の荏原、五反田、大崎地区の惨劇でした。
連日500機余りの米軍爆撃機 B29により、371人が亡くなり、12万5283人が被災、4万5489の建物が焼失しました。

.平成22年大間窪小学校で行われた、6年生の「戦争について考える」特別授業。

「真っ赤に焼け落ちていく焼夷弾(しょういだん)と編隊を組んで飛
んで行く米軍機B29を震えながら見ていました。」

特別に招かれたのは昭和20年5月24日の空襲を西五反田で体験した後藤さん。当時13歳だった後藤さんは避難した防空(ぼうくう)壕(ごう)が焼い弾の直撃を受け、猛火の中を必死に脱出しました。

「ひとりで逃げて歩いていると焼夷弾(しょういだん)が落ちてきた。まわり中が火の海です。ふらふらと焼夷弾(しょういだん)の中をさまよっていたら、朝になりました。そしてハッと気が付くと焼け野原の中に私ひとりだけぽつんと立っていた。直撃にあったのは合計3回、よく生きていたと思います。」

またこの日の空襲は、5歳の少年の心に深い傷跡を残しました。

「ここら辺が全部焼け野原で全部影みたいになっている、そういう残像がすごく残っている。」

「ある日、大きな銀色の昆虫が空を飛んでいる?と思ったとき、トツゼン!目の前が朱色になってゴォーと燃え上がった・・・。枯木のように立ちならぶ黒い水道管と青い空と遠くの白い山を仰ぎ、感じたことを伝
える言葉がトツトツとなってしまった。」

「僕の場合失語症となり、思うことを伝える言葉が見つからない。だからこういう職業をやっているのじゃないかな。」

亀井さんは心の痛みと戦い失語症を克服しながら、言葉に頼らない別な表現の魅力にひき込まれていきます。

平成17年終戦60年の節目に、亀井さんは自らの戦争体験の原点を見つめ直しました。

言葉のコラージュと記憶の残像で構成されたこの著作は亀井さんにとって、戦争で言葉を失ったというトラウマと再び向き合うための貴重な作品となりました。

「自分との対話がずっと継続しているというのは、理不尽な戦争体験に遭遇して、そこから立ち直っていくプロセスじゃないかな。」

昭和20年の空襲は人々の生命を脅かしただけでなく、鉄道網にも容赦なく打撃を与えました。
かつて東急池上線の大崎広小路駅と戸越銀座駅の間に消えてしまった小さな駅がありました。その名は桐ケ谷。

.当時、通学のために毎日桐ケ谷駅を利用していたという石崎さん。消えた駅に興味をもつ柏木さんを伴い、かつて駅があった場所へと向かいます。

「真下がホームでした。2両くらいが停まるくらいの小さな駅でした。」

桐ケ谷駅は桐ケ谷跨(こ)線(せん)橋(きょう)の下、すぐ手前にありました。

「桐ケ谷駅はなぜなくなったでしょう?ここら辺が全部焼けました。戦災が原因だったんですね。」

駅舎が損傷を受けた5月25日の空襲は、駅が廃止されるきっかけとなったのです。

「しばらくホームだけが残っていましたね。」

桐ケ谷駅は被災したままの状態でかろうじて営業は続けられましたが、二ヶ月後の7月25日に休止。
戦後も再開されることなく、昭和28年8月11日正式に廃止されました。

東急50年史には一行廃止の記載があるだけ。復活できなかったのは、大崎広小路駅と戸越銀座駅の間隔が短かったことが大きな理由だと考えられています。

「空襲で焼けた駅はたくさんあるがほとんどが営業を再開してる。悲惨な空襲でした。」

桐ケ谷駅は空襲の爪痕が契機となりはかなくも消えていきました。

.昭和20年5月、品川区に最大の被害をもたらした空襲の惨劇。

平和への祈りを込め、悲惨な記憶と正面から向きあい語り継ぐことが、戦後75年の令和2年、私たちが受け継ぐべき使命なのです。

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