◆これまでのあらすじ

大手IT企業のマーケティング部課長・桜庭菜穂。4月2日に誕生日を迎え、いち早く30歳になった。その途端に、結婚どころか交際相手もいない自分の現状に、焦りが芽生える。そこでマッチングアプリを動かし始めた菜穂は――。

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Vol.2 30歳、まだまだ意外といける?マッチングアプリでの好感触に、安堵して…

「お母さんのカレーは絶品だね、ごちそうさま。洗い物はまかせて」

私は、2人分のカレー皿とマグカップを持ち、キッチンに行く。

マッチングアプリを久々に再開してから1週間。今日は、目黒区青葉台にある実家に、年末年始ぶりに帰ってきていた。

夜に珍しく代官山でディナーする予定ができたので、その前についでに顔を見せようと思ったのだ。

私は、スポンジに洗剤をつけながら、ダイニングテーブルにいるお母さんに話しかける。

「実は今日の夜さ、マッチングアプリで知り合った人と会うんだ」

「ええ?菜穂、それ大丈夫?怪しい人じゃないのよね?」

お母さんが顔を上げた。私は、その心配そうな表情をカウンターキッチン越しに見る。

「たぶん大丈夫。会ってみて、ちゃんと見極めるし」

「そう。それは…婚活ってこと?」

私は、手を動かしながら頷く。

「まあ、そんなところ。30になったし、そろそろね」

30歳になり、もらえる「いいね」の数は大きく減った。それでも、マッチングできる相手は案外いるものだ。私は、アプリ婚活に期待を抱き始めている。

「そっか。でも菜穂、アプリじゃなくて自然な出会いは難しそうなの?」

「…自然な出会いって職場とか?それは今さら難しいと思う」

「そう」

お母さんの声色から、納得がいっていないことが伝わる。

― ああ、やっぱりアプリには違和感があるんだ。親世代は。

私は、こんなことならマッチングアプリについて話さなければよかったと思う。

― そういえば、お母さんには昔から、自分が経験していないことをものすごく警戒するクセがあるんだった。

お母さんは、女子大から大手電機メーカーの一般職に就き、2年で寿退社している。

私が青山学院大学に進学するときも、今の企業に総合職で入るときも、お母さんは「なんか想像がつかなくて心配だわ」と顔を曇らせていた。

私は、最近は本当にアプリ婚が多いこと、みんないい出会いをゲットしていることなどを話しながら、きれいになったお皿を水切りかごに並べる。

実家に置いてあった小川洋子の懐かしい本を読んでいたら、気づいたら17時になっていた。

「そろそろ行かなきゃ」

私は化粧を直し、髪を整えたあと、玄関に立つ。するとお母さんはそばにやってきて、私を見つめた。

「菜穂、結婚は焦るものじゃないのよ。お母さんは、できれば自然な出会いがいいと思うわ。菜穂には、“ちゃんと”恋に落ちて、結婚してほしいの」

― ちゃんと、か。

お母さんにはわからないのだ。アプリは、ちゃんとした恋愛をはじめるきっかけだということが。私が返答に困っていると、追い打ちをかけるかのようにお母さんは言う。

「ねえ、由佳には、職場とかで早めにいい人を見つけておきなさいって言っておいてね」

ゼネコンに勤務している4歳下の妹の名前を出す。

私は、悲しくなってしまう。

「菜穂さんと一緒にいると楽しいなあ」

マッチングアプリで出会った勇斗さんが、人懐っこい笑顔を見せる。1時間前に初めて対面したとは思えない打ち解け具合だ。

大手保険会社営業、34歳。趣味はレストラン巡りとフットサル、年収は「800〜1,000万円」。

プロフィール的に派手な人かなと心配していたが、会ってみて一気に緊張がほどけた。

選んでくれた代官山のイタリアンレストランは、料理も雰囲気もばっちり。そして、さすがは営業職。話すのがうまくて、あっという間にメインのサーロインステーキにたどり着いてしまった。

「私も楽しいです。つい、飲みすぎてしまいますね」

お互いに4杯目のワイングラスを傾ける。

私が今、考えていることは2つ。

― ひとつは、飲みすぎて、顔が変になってるんじゃないか?ということ。

最近、もともと良くなかった化粧ノリがさらに悪くなってきた気がする。今日は、ディオールのファンデーションを使ったけれど、飲みすぎてポカポカしているから、早くも崩れているのではないかと心配だ。

それから、もう一つは――。

― この人、34歳まで結婚していない理由が、何かあるのではないか。なにか爆弾を抱えていたらどうしよう?

勇斗さんが素敵である分、うれしさと同時に疑いが持ち上がってきている。

ふと、どこかで聞いた言葉が頭に浮かぶ。

「30半ばになると、離婚歴がある男のほうが安心」

ずっと「そんなものだろうか」と懐疑的だったが、今となってはなんだかわかる気がする。

私は、酔いに任せて、少し探ってみることにした。

「勇斗さんって、どのくらい恋人いないんですか。素敵だから、彼女いないのが意外で」

「ええ?うれしいなあ。去年の夏以来、いないんですよ。こう見えて、なかなか奥手で。菜穂さんは?」

「えっと…勇斗さん以上に一人が長いです。もう3年くらい」

― あ、正直に言い過ぎたかも。

私は「仕事が、忙しすぎて」と咄嗟に付け加える。勇斗さんは、感情の読み取れない笑顔で「わかります」と言った。

初の食事デートは、あっという間に終わってしまった。

勇斗さんが手配してくれたタクシーに乗ると、すぐにLINEが届いた。

『勇斗:今日はありがとうございました。また会いたいです』

私もお礼を言おうと文字を打っている途中で、追いLINEが来る。

『勇斗:次はランチから、1日デートしてみませんか。美味しい鉄板焼のお店があるので、お連れしたいです』

― 鉄板焼。

本気度が伝わってくる絶妙なセレクトに、頬がゆるむ。そして、心がとてもポカポカしてくるのを感じる。

この気持ちは、恋?渋谷駅を通過するタクシーの中で思うが、すぐに「違う」という結論に至った。

今の心情に名前をつけるなら、しっくりくるのは「安堵」だ。なんというか、まだ「私、30歳になったけどまだ大丈夫じゃん」という安堵。

まるでこの社会の恋愛市場からOKを出されたかのような、ほっと胸を撫で下ろすような気分。

タクシーは、スクランブル交差点に差し掛かる手前で赤信号で停車した。行き交う若いカップルを見つめながら、もっと自分を磨いてかわいいって思われたいと、私は久しぶりに思った。

1週間後の土曜日。

勇斗さんとの鉄板焼デートの前日に、私は、同じアプリで出会った別の男性とランチをしていた。

優しくて温厚そうな33歳男性、宏伸さん。エンジニア、趣味は旅行と鉄道、年収は勇斗さんと同じ「800〜1,000万円」。

「あ、あの僕、すごく緊張しています。こういうの、慣れなくて」

シルバーフレームのメガネに、白い肌。整った塩顔でインテリジェンスな雰囲気を漂わせている宏伸さんだが、口を開くと気弱そうに見える。

「い、行きましょう。…菜穂さん」

しかし、表参道駅で集合したはいいが、宏伸さんは特にお店を予約してはいなかった。宏伸さんが目星をつけていたお店に行ってみると、人気店ばかりで軒並み満席。

慌てる様子の宏伸さんを見て、私は、比較的いつも空いている青山方面のお店を提案した。

「ようやく入店できましたね。予約しておらず、本当にすみません」

「いえいえ。宏伸さん、何にしましょう?ここはピザが有名で、ビスマルクが特に美味しいんです」

「いいですね。ではビスマルクともう一枚頼んでシェアしますか?」

宏伸さんはようやく落ち着いたようで、「バランス的にもう一枚はトマトソース系がいいですかね」とメニューをのぞきこむ。

「あ、でも菜穂さん、白い服だ…」

「あ、いいですよ。トマトソース系も食べたいですし。気をつけていただきます」

「わかりました。あの…本当にすみませんでした。次は、しっかり予定を立ててお誘いさせてください」

― この人、結構モテそう。

いわゆるスマートな振る舞いができる男性ではないし、必要以上におどおどしている。でも、優しくて気遣いができそう。

20代半ばまでは図々しくも「減点」と思ってしまっていたような振る舞いも、少し可愛く思えるのは不思議なことだ。

― こういう人とじっくり関係を育めたら、平和な人生になりそう。

宏伸さんは、ピザ店のあとに寄ったカフェで、次のデートの日程を決めてくれた。

帰宅した私は、明日の鉄板焼デートに向けてゆっくりとお風呂につかり、ヘアトリートメントをした。

お風呂上がりに、クレ・ド・ポー ボーテのパックを顔に張り付けながら、口元がゆるむ。

― なーんだ、30歳楽しい。

私は、とびきりの美人というわけではない。ニコニコしていたら、たまに「可愛い」と言ってもらえるくらい。だから、写りのいい写真でマッチングしたところで、実際に会ったら難航する未来を覚悟していた。

でも、今2人の男性と手応えがある。

自分のどこがいいのだろう。なんとか維持しているスタイル?年収がもう少しで4桁に乗ること?

それとも、もっとまっすぐに、女性として「いいな」と思ってもらえている?

― わからないけど、何にせようれしい。ちょっと婚活に、本腰入れてみよう。

私は、ドライヤーのスイッチを入れる。

しかし、4日後の水曜日の夜。

私は、思わぬ展開に頭を抱えていた――。

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婚活に前向きになった菜穂。しかし思い通りの展開とはいかず…?

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