川端慎吾

川端慎吾, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=609187 / CC BY SA 3.0

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川端慎吾

川端 慎吾(かわばた しんご、1987年10月16日 – )は、大阪府貝塚市出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。

実妹は日本女子プロ野球機構の埼玉アストライアに所属している川端友紀。

小学校2年生で、貝塚リトルで投手兼遊撃手として野球を始める。貝塚三中時代は投手として活躍。
市立和歌山商高進学後、本格的に遊撃手としてプレーを始める。

2004年の夏の甲子園に出場し、2回戦で聖光学院に敗れる。川端は2試合で8打数3安打だった。

の春のセンバツでは、2回戦で準優勝の神村学園と対戦し敗退。川端はエース野上亮磨のストレートを弾き返し、逆風の中本塁打を放っている。夏の県大会は準決勝で敗退。その後第6回AAAアジア野球選手権大会の選抜メンバーに選出。打率.462でベストナインを受賞する活躍を見せた。高校通算33本塁打。

2005年高校生ドラフト会議3巡目で東京ヤクルトスワローズに指名され、推定契約金4500万円、年俸480万円で入団した。

に一軍キャンプスタート。開幕一軍は逃したが、二軍では高卒新人としては珍しい79試合に出場。同年10月9日の対中日ドラゴンズ戦で一軍初出場(2打数無安打)、10月10日の対広島東洋カープ戦の第2打席で公式戦初安打・マルチヒットと共に、プロ初打点を記録し、プロ2試合目で早くもお立ち台に上った。球団史上、ドラフト会議を経た高卒1年目の野手が一軍の試合に出場したのは、1987年に1試合出場した土橋勝征以来、約20年ぶり。それ以前には1984年に池山隆寛が10試合に出場している。ただし、土橋、池山共に、1年目は安打は記録していない。高卒1年目の野手の安打は、1968年の奥宮種男まで遡る。

は、一軍と二軍を行き来する中、8月22日の試合で左手の薬指を骨折し、そのリハビリで残りのシーズンの出場はできず、10月中旬のフェニックス・リーグで実戦に復帰した。

に初の開幕一軍、10月7日、対中日第24回戦の第1打席にて小笠原孝からプロ初本塁打を記録した。

も5月に一軍昇格。その後は主に左の代打として出場したものの、8月23日の練習中にまたも右肩痛を発症し、登録抹消。以降は一軍での出場はなかった。
、阪神から藤本敦士が加入。遊撃手のポジションを鬼崎裕司、新人の荒木貴裕らと争う。開幕当初は藤本が固定される形で起用されたが、不調から二軍落ち。その後は鬼崎が守備力を生かして台頭したが、打撃に難があったため、7月頃から川端が遊撃手のレギュラーとして起用されるようになった。その後、シーズン終了まで遊撃手のポジションを守り続け、8番打者としてチームの後半戦の躍進にも貢献した。なお、守備力は鬼崎の方が買われていたため、試合終盤は守備固めとして鬼崎が遊撃手に入り、三塁手へ回される機会も多かった。この飛躍にはシーズン中盤に監督の高田繁の休養(事実上の引責辞任)により監督代行に就任した小川淳司の引き立てによるところも大きい。小川は入団当時の二軍監督で、初年度から二軍で積極的に起用された。

、開幕戦で最有力ライバルだった川島慶三が東野峻に死球を受けて骨折したことから、スタメン遊撃手に定着し、シーズン中盤までは7番を任される。6番・宮本、7番・川端、8番・相川で「恐怖の下位打線」を形成。クリンナップが不振でも得点源として機能する。しかし、ジョシュ・ホワイトセル、飯原誉士の絶不振や故障によりシーズン中盤からは3番打者として起用される。新打順も無難にこなし、9月末には2割9分台まで打率を上げた。その後不振に陥り、10月19日に左手首痛で登録を抹消された。病院での検査の結果、「左手のTFCC(三角線維軟骨複合体)損傷」で全治6週間と診断(9月14日の広島戦でスライディングした際に左手を地面に強打したのが原因とされる)され、シーズン2位で進出が決定していたクライマックスシリーズに出場出来ず。同じく戦線離脱を余儀なくされた由規、久古、七条らとスタンド観戦する結果になった。シーズンとしては規定打席に初めて到達した。

、開幕から主に3番、5番に座り、シーズン最終試合で打率3割に挑むも、惜しくも届かなかった。その後のCSでは無安打に終わり、シーズンを終えた…

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