杉浦稔大, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2868528 / CC BY SA 3.0

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#東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手
#北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手
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杉浦 稔大(すぎうら としひろ、1992年2月25日 – )は、北海道帯広市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
北海道日本ハムファイターズ所属。
妻はフリーアナウンサーの紺野あさ美。
小学校3年生から野球を始め、中学時代は軟式野球部に所属していた。
野球と並行して中学時代までアイスホッケー選手としても活躍した。
帯広大谷高等学校野球部3年時には決勝まで進んだ。
しかし、決勝で後に大学でチームメイトとなる柿田竜吾擁する旭川大学高等学校に敗れ、甲子園出場はならなかった。
その後、プロ志望届を提出したが指名漏れとなる。
國學院大學時代 (2013年10月17日、明治神宮野球場にて) 高校卒業後は東都大学野球連盟に加盟する國學院大學(文学部)に進学。
硬式野球部では、竹田利秋(1年の春季までは監督、後に総監督)の指導を受ける。
2年の春季リーグ戦から試合に出場したが、チームはリーグ戦優勝の翌季に最下位・入れ替え戦にも敗北した。
2年秋季は出番がなかったが、3年春季からエース格となり、2部で3勝、2完封を記録し、2部優勝に貢献した。
日本大学との入れ替え戦では國學院が1戦目敗戦の後、2戦目に先発登板し完投勝利。
1勝1敗のタイに持ち込んだ3戦目は4-4の同点で迎えた7回表の途中からリリーフ登板。
7回裏にチームが勝ち越し、8回表に1点差まで迫られたが後続を断ち、接戦を逃げ切り勝利投手となり、3季ぶりの1部復帰を決めている。
1部復帰した3年秋季は1部の投手の中で最長となる48回2/3イニングを投げ、2完封を含む4勝を挙げた。
この頃には日々のトレーニングにより球速が高校時代と比較し10キロ以上もアップ。
長いリーチを活かしたゆったりとしたフォームで、140km/h台後半のキレのある直球と多彩な変化球で注目を浴び、ドラフト1位候補の逸材と評された。
4年春季は怪我もあり成績を落としたが、リーグ戦後には第39回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。
4年秋季には柿田竜吾と左右のWエースを形成。
リーグ戦後半まで亜細亜大学との熾烈な優勝争いを演じ、チームの躍進と2位浮上に大きく貢献した。
東都大学野球1部リーグでは通算22試合に登板し12勝7敗、防御率1.84。
2013年度ドラフト会議でそれぞれ松井裕樹、大瀬良大地を外した福岡ソフトバンクホークス、東京ヤクルトスワローズの2球団に指名され、抽選の末ヤクルトが交渉権を獲得。
12月2日に契約金1億円プラス出来高払い、年俸1500万円(金額は推定)で契約した。
背番号は「18」。
2014年は、即戦力として期待されたがキャンプ中に右肘を痛め離脱。
その後の検査で右肘靭帯を断裂していたことが分かり、開幕は絶望となった。
手術を受けずにリハビリに励み、7月21日の2軍戦で実戦復帰し、9月10日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)でプロ初登板・初先発。
6回を4安打2失点9奪三振と好投したが、打線の援護に恵まれず敗戦投手となった。
9月24日の広島東洋カープ戦(神宮)で3本塁打を浴びながらも5回を投げ切り、自らのタイムリーを含む大量の援護点もあってプロ初勝利を挙げた。
また、この試合でバッテリーを組み、1本塁打を含む3安打4打点で勝利に貢献した西田明央は、北海道の北照高出身で、高校時代の杉浦とは練習試合で対戦経験があった。
2014年シーズンの登板は4試合のみだったが、23イニングで28奪三振と能力の片鱗を見せた。
2015年は、キャンプから期待を受け、開幕から先発ローテーションに入った。
開幕3戦目の先発を任されるも、その試合から援護に見放され3連敗を喫する。
そして4月末に肘の違和感から登録を抹消され長期離脱。
9月に1軍に復帰すると、阪神戦でチームが一度も黒星をつけていない藤浪晋太郎との投げあいを演じ、勝ち星は付かなかったが好投し、チームの勝利につなげる活躍を見せた。
続く中日戦ではシーズン初勝利をあげてチームの優勝マジック1とするなど、最後の2先発で結果を残した。
日本シリーズでは第3戦に先発し5回途中まで投げ4失点だったが、その後チームが逆転勝利を挙げた為勝敗は付かなかった。
2016年は、成瀬善久、ルーキー原樹理らとのローテーション争いに負け、初の中継…

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