宮田輝, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=258220 / CC BY SA 3.0

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宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 – 1990年7月15日)は、日本のアナウンサー、参議院議員(3期)。
本名、宮田 輝(みやた あきら)。
東京都足立区出身。
血液型B型。
明治大学卒業。
1942年にNHKに入局。
NHKにおいて、高橋圭三や青木一雄らと同じく、「芸能番組向けアナウンサー」の先鞭を付けた人物の一人に数えられる。
1974年にNHKを退職後は参議院議員(3期)を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍。
1990年7月15日、参議院議員在職中のまま死去。
1942年9月に明治大学卒業。
同年NHKに入局。
同期には高橋圭三がいる。
NHK名古屋放送局勤務を経て東京アナウンス室に配属。
ラジオの報道番組担当を経て、1949年からはライバル・高橋の後任として『のど自慢素人演芸会』(現:『NHKのど自慢』)の司会を担当。
1952年スタートの『三つの歌』の司会も行う。
『NHK紅白歌合戦』では、1953年1月・第3回、過去2回の担当者で先輩の藤倉修一の海外出張に伴うピンチヒッターとして白組司会を初めて担当。
以来1973年まで通算15回に渡って紅組・白組・総合の全ての司会を担当した。
1966年からは全国各地を巡回し、毎回ゲストと共にその地方の郷土芸能や独自の文化などを紹介する公開番組『ふるさとの歌まつり』を企画、司会を担当。
郷土芸能の保存やふるさと再発見にも寄与したとして評価され、宮田の穏やかでユーモラスな進行と活き活きと郷土への思いを語る各地の出演者の魅力も相まって、18年間に及ぶ長寿番組となった。
また、この番組冒頭の挨拶「おばんでございます」というフレーズは当時流行語になった。
初回放送は鹿児島県国分市(現・霧島市)からの中継だった。
1967年には『ふるさとの歌まつり』の企画、司会が認められ、第15回菊池寛賞を受賞した。
1974年にNHKを退職。
同年の参議院選挙に自民党から立候補しトップ当選。
以降当選3回を重ねる。
大平派に所属。
1978年、第1次大平内閣で農林水産政務次官に就任。
また、フリーの立場で民放テレビ局にも進出し、全日本有線放送大賞などで司会を務めた。
1988年頃より癌のために体調を崩すようになり、1990年7月15日、議員在職中のまま慶應義塾大学病院にて68歳で死去。
参議院本会議場での哀悼演説は10月12日、日本社会党の一井淳治が行った。
墓所は青山霊園。
1960年代後半、当時登場したばかりの家庭用VTR(オープンリール式、モノクロ)を所有しており、主に宮田自身が出演したNHKの番組を録画し、保存していた。
当時、放送用ビデオテープやフィルムが高価な上、アーカイブを収録したビデオテープは課税対象だったため、NHKでは一部を除いて番組保存が行われなかった。
宮田は、NHKに保存されていなかった1960年代後半から1970年代前半の「NHK紅白歌合戦」や、「思い出のメロディー」、「ふるさとの歌まつり」の映像を提供している。
当時カラーで放送された番組の多くが、モノクロで現存しているのは、そのためである。
『紅白歌合戦』は放送時間が長いため、他所からもう1台VTRを借り、夫人が2台を交互に使用しノーカットで録画していた。
ビートルズが出演したことで知られる、衛星中継テレビ番組(当時は「宇宙中継」と呼ばれていた)「われらの世界」の日本進行役をつとめた。
宮田は『愛こそはすべて』の演奏シーンの冒頭「こちらはロンドン、今ビートルズが新しい曲をレコードに吹き込んでおります」と曲紹介している。
歴代の紅白司会者の中で、紅組・白組・総合の全ての司会を担当したのは宮田のみである。
1955年・1956年に男性の立場で初めて紅組司会を担当。
1955年当時、テレビ放送を開始したラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)が紅白のスタイルをそのまま流用した『オールスター歌合戦』を紅白の裏番組として放映。
紅白に先駆けて有力な人気歌手(美空ひばり・雪村いづみ・春日八郎・林伊佐緒など)との間に番組出演につき独占契約を締結したことから、紅白への出場が出来ない歌手が続出し、番組の存亡の危機に立たされた末の苦肉の策、番組の人気維持の最後の切り札という意味合いが強いものであった。
1956…

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