鍬原拓也, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3738948 / CC BY SA 3.0

#日本の野球選手
#北陸高等学校出身の人物
#中央大学硬式野球部の選手
#読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
#読売ジャイアンツの育成選手
#奈良県出身の人物
#岡山県出身の人物
#1996年生
#存命人物
鍬原 拓也(くわはら たくや、1996年3月26日 – )は、奈良県御所市出身(出生は岡山県玉野市)のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
読売ジャイアンツ所属。
中大時代(2014年4月29日) 2人兄妹の長男で、岡山県玉野市で出生してから3歳までは、父方の苗字を名乗っていた。
両親の離婚を機に、母方の苗字である「鍬原」姓へ変更し、実母の実家がある奈良県御所市へ実母・実妹と共に転居。
築50年・家賃月額4,000円ほどの市営住宅で育った。
小学校3年時から野球を始めると、中学生時代は「橿原磯城リトルシニア」に所属。
2010年の全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップでは、1学年後輩の岡本和真らと共に、3位となった。
両親の離婚後から母子家庭で育っていたため、中学校からの卒業後は、シニア関係者の勧めで福井県の北陸高等学校に進学。
特待生として硬式野球部の寮で生活し、1年時の夏からベンチ入りを果たすと、同年の秋季福井県大会でチームの準優勝に貢献した。
3年夏の選手権福井大会初戦で15三振を奪ったほか、打者としても対外試合で通算22本塁打を打ったが、在学中には甲子園球場の全国大会とは無縁であった。
大学進学費用がネックとなり野球を辞めようと考えていたが、硬式野球部監督の谷津田伸二からの仲介で、谷津田の母校である中央大学へ特待生として入学。
東都大学野球のリーグ戦では、1年時の春から3年時の春までクローザーを任された後に、3年時の秋から先発へ転向した。
リーグ戦には、通算で44試合に登板。
11勝13敗、防御率3.38、通算投球イニング165回で157三振を奪ったことから、「東都のドクターK」と称された。
2017年のNPBドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から1巡目で指名。
清宮幸太郎と村上宗隆への指名重複による抽選で独占交渉権を逃した末の再々指名であったが、契約金1億円に出来高分5,000万円、年俸1,500万円(金額は推定)という条件で、岡本と再びチームメイトになった。
入団当初の背番号は29。
なお、指名の直前から『ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう』(TBSテレビ)スタッフの密着取材を受けていたため、会議当日の生放送には母子揃って出演。
巨人と仮契約を結んだ直後には、女手一つで育てた実母への恩返しとして、「契約金でマンションの一室を買ってあげたい」という希望を明かした。
担当スカウトは柏田貴史。
2018年には、右肘のコンディションが芳しくなかったことから、春季キャンプを三軍で過ごした。
5月31日の対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、同期入団の大城卓三とバッテリーを組み、先発投手として一軍公式戦へデビュー。
スタンドから実母に見守られながらの先発登板で、巨人の新人選手同士がバッテリーで一軍の公式戦に先発した事例は、1998年10月2日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)での平松一宏 – 小田幸平以来20年ぶりであった。
この試合では4者連続を含む7三振を奪いながら黒星を喫したが、3度目の先発登板であった6月14日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡ヤフオク!ドーム)で初白星を挙げた。
7月上旬までは一軍の先発陣に加わっていたが、同月中旬に出場選手登録を抹消。
抹消後の8月後半に左脇腹を痛めてからは、三軍で患部のリハビリに専念した。
一軍公式戦では、通算で6試合に登板。
5試合で先発を任されたものの、前述した1勝のみでシーズンを終えた。
レギュラーシーズンにおけるチームの総セーブ数がNPB12球団で最少の25にとどまったことから、シーズン終了後の対外試合ではクローザーへの起用が試みられた。
11月27日に、150万円増の推定年俸1,650万円で契約を更改した。
2019年には、春季キャンプからオープン戦の途中まで一軍に帯同。
一時はクローザー候補に挙げられていたが、前年と同じく、レギュラーシーズンの一軍公式戦初登板は5月下旬にまで持ち越された。
一軍公式戦には、オール救援で15試合に登板すると、白星は付かなかったものの2ホールドを記録した。
9月28日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)には、9回表一死二塁で、大学の先輩に当たり、同年で現役を引退する阿部慎之助が、レギュラーシーズン公式戦最後の打席に、申告敬遠に伴…

WACOCA: People, Life, Style.

Exit mobile version